第二話 ロチアートの少女(2/7)
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あれから二日間、俺は歩き続けた。運が良かったのか魔物には会わずに済んだ。しかし草原はやがて荒野に変わり、二つある太陽の熱は俺を容赦なく襲い続けた。
足元のおぼつかない様子でひたすらに真っ直ぐに歩く。脱水で手足は痺れ、思考はままならず、気分も悪い。
体力が底を尽きようとした時、土色をした高い市壁と、底から突き出した形の城の様な建物の尖塔が見えた。
「都か?」
村から持ってきたローブのポケットに、銀と銅の硬貨が何枚か入っている。
あそこに行けば何か食べられるはずだ。
死にたいと嘯いた癖に、体はエネルギーを渇望し、それに抗う事が出来なかった。
あるいはそれは、自分の中に居るもう一人の誰かが、生きる事を強く望んでいるかの様でもあった。
都は高い外壁に囲われていたが、不思議な事に門番は居なかった。
すんなりと都に立ち入った俺の眼前に広がった光景は、中世のそれだ。
今にも倒れそうな様子で喧騒の中に入っていくと、すぐに一人の中年男性が、神妙な顔付きをして声をかけてきた。
「兄ちゃんフラフラじゃねぇかい!? 大丈夫か?」
その声で、その場に居た人々は皆立ち止まって、フードを深く被った俺を心配そうな表情で取り囲み始める。
「アルモ荒野から歩いてきたんじゃないかしら、大丈夫? お水はいる?」
「お腹が空いているんじゃないか? ひどく痩せこけてるぞ、可哀想に」
「疲れたでしょう。うちの宿に空きがあるから休んでいきなさい。お代はまたでいいよ」
「お兄ちゃーん。これ、少ないけど僕達のお小遣いをあげる」
俺の手に子どもが銀貨を握らせる。直ぐに若い女性が駆けてきて水を手渡して来た。夢中でそれを飲み干してから震えた視線を上げた。
「……水をもう少し……」
「いいわよ、直ぐに持ってくるわ」
「兄ちゃん。これ食べなよ」
白いコックコートの青年が、手にパンを持って俺の口に近付けて来た。しかしそのパンの上にはソーセージが乗っていて、その肉が俺の脳裏に、あの晩のシチューを思い出させた。
「やめろぉッ!!」
思わずコックの青年を突き飛ばすと、パンが地面に転がった。
「いてて……はは」
「あ……っ」
それでも尚、微笑む彼をみて、俺は良心の呵責に襲われ始める。
「あ……その、これで」
ポケットに入っていた硬貨を全てその青年に渡そうとすると「いいって事よ、そのパンは兄ちゃんに無料でやったんだ。どうするのも勝手さ。その代わり、またパンが食べたくなったらうちにおいでよ」と言って親指を立てられた。
「はい旅の人、お水!」
目の前にまた水が差し出された。
そこには錯乱した俺の行動を非難する者は一人も居なかった。まるでここにいる老若男女全ての人々が、得体も知れない俺の事を心の底から心配している様に。
水を貰ってから、俺は皆に向かって頭を下げた。そうすると民衆は散り散りになっていった。
「なんなんだこの世界の人々は」
その世界の人々は、優しさと思いやりで溢れている。それは俺の目には異様にも思えた。
食料を求め、自然とその足は賑やかな方へと向かっていく。
角を曲がると商店街に辿り着いた。だがそこで目にしたのは、怖気の立つ程に邪悪な光景だった。
「お兄さん見ない顔だね、どうだいロチアートの串焼きは?」
小さな屋台に座ったおばさんが、串に刺さった眼球を差し出してきた。網では音を立てて肉が脂を滴らせている。
「あ……あぁ……ぁああっ!」
口元を震わせた俺は、そのおぞましい光景に戦慄して、駆け出さずにはいられなかった。
「ロチアートのフランクフルトどうだーい」
先程パンを手渡してくれた青年が、商品を持って客寄せしている。その小さな屋台の天井には、数十本のソーセージが吊るされていた。
「あ……あああ……っ」
――ロチアートってなんなんだ。
その光景から逃げるように商店街を駆ける。流れ行く景色の中で、一際と肉料理ばかりが目に付くのは気のせいだろうか。
「オスとメスのロチアートのケバブだよー」
巨大な棒に店主が肉を貼り付けている。その背後にはフックに吊るされる何かの影が見えた。
「あぁぁ! ああっ」
――お前達が平然と口にしているその肉は、ロチアートってのは一体なんなんだよ!
そんな惨劇が目の前で起こっていても、人々の喧騒は変わらず、皆笑顔でゆったりとしている。
まるで、イカれているのは俺の方だといった具合に。
――わかってる、それは人間の肉だ。赤い瞳をした人間を、お前達は豚や牛みたいに当たり前の顔をして喰っているんだ!
「なんなんだここは! なんなんだこの世界の奴らはぁッ!」
その狂った光景に、俺の全身は震えていた。
「同じ人間を……同じ人間が嬉しそうに食っている!」
目の前を横切った男女が、仲睦まじくパンに挟まった肉を頬張っている。
屋台の男が「もう駄目だな」と言って切り落とされた足首をゴミ箱に放り投げる。
「狂っている。この世界は狂っているんだ、イカれている! どうしようもなく壊れているッ!!」
陰惨な光景に耐えられなかった俺は、とにかく目にかかった路地裏に駆け込んだ。
そしてその暗がりで一人静かに嘔吐する。しかし口から出るのは、先程飲んだ水だけだった。
「どうして俺がこんな世界に来なくちゃいけなかったんだ……誰の、何の目的で? どうして俺にこんな世界を見せる……こんな地獄のような世界を、俺に……」
奥歯を震わせ落涙しながら、フラつく足で歩み始めると、向こうの路地から勢い良く駆けて来た人影とぶつかった。
「……っ……!」
それはぼろ切れを一枚纏っただけのみずぼらしい少女であった。年の頃は十五歳位だろうか、振り返った俺を涙を溜めた赤い瞳で見上げながら、酷く怯えた様子で赤髪を震わせていた。
俺は虚ろげな視界で少女を見下ろしてから、ハッとした様に我に帰ると、しゃがみこんで少女と視線を向かい合わせた。
――そしてこれまで、自分が馬鹿な勘違いをしていた事を知った。
「っ……」
「梨理? 梨理だよな」
何処と無く面影のある少女を穴が開く程に眺めていると、梨理の姿が重なった。
彼女がそこに再臨していた。
蘇った。梨理がそこに蘇っていた。
違う、そもそも死んでなんかいなかったんだ。あれは全部悪い夢で、梨理は変わらずここで生きていたんだ。
姿形が幼くなっているのは、この世界に来る時に少し姿が歪んだからだ。
髪が赤くなっているのもそのせいだ。
彼女は梨理だ。俺の大好きな幼馴染の梨理だ。
だって死んだ人間が蘇る訳がない。
変わらぬままの赤い瞳が俺を見つめている。
死んだ人間とこうして視線を向かい合わせる事など出来る筈が無い。
俺は現実主義者だ。
あれは幻影で、全てが虚偽で。真実はいま、俺の目の前にある。
だってほら、こうして頬に触れられる。
だってほら、ここに居る。
それが真実だ。
「梨理、梨理だ……梨理だよ! 良かった生きていたんだな、あれは別の人間だったんだ、本当に良かった……梨理」
「……?」
「梨理、梨理、梨理! ……ああもう離さない! 俺がお前を守って見せるから、ここから逃げよう」
俺は脅える梨理を胸に抱き締めて涙を流した。梨理は訳がわからないとでも言った具合に、されるがまま胸に抱かれていた。