第二話 ロチアートの少女(1/7)
第二話 ロチアートの少女
俺が正気に戻ったのは、右の掌にバターを握り潰すような感触を覚えた時だった。
「あぁ…………あああッッ!」
足元で頭を捻り潰された老人が膝をついて倒れた。右の掌には人間の肉片が凝縮され、指の隙間からダラダラと血液を流している。
気付くとそこは初めに通された居間だった。四人で談笑した丸いテーブル……ただ違うのは、一面が真っ赤に染まって、ごろごろと複数の死骸が転がっている事。胴を潰された者、手足の千切れた者、真っ二つに裂けかけた者、様々な死骸の中に、剣と丸眼鏡が一つ落ちている。ヴェルトとフィルだけでは無い。そこには見覚えのない遺体も横たわっていた。
喚く鶏の息の根を全て止めた時の様に、村は耳鳴りがする程に静まり返っていた。
俺の一挙手一投足が、衣服の擦れる音が、床板を踏む音が、滴る血の雫の音が、世界を満たしていく。
「俺、が……俺……」
肩まで黒く染まった右腕が、みるみると元の蛇の痣に戻っていく。
「なんだよ……なんなんだよ、この腕」
しかし血に濡れた腕は肌色では無く、鮮烈な赤色をしていた。
「梨理……そうだ、梨理」
俺は酷く混乱したまま、フラフラと梨理の居た部屋に戻っていた。
「――――ッッ」
そして今度は、声もなく絶望する。
「どうして……どうして梨理がこんな目に……どうして?」
頬に涙を伝わせながら、意識が途切れる前の事を思い起こす。
視界が、世界がたわみ、歪み始める――。
――君のロチアートを、赤い瞳の子を少し借りると言ったじゃろう。
――まさかアナタロチアートに……食用肉に感情移入してたんじゃ……だとしたら、狂ってるわ。
「狂っているのは……お前達だ」
梨理は、俺と同じ人間だ。それをお前達は……お前達はまるで家畜の様にッ!!
どうしてだ、どうして梨理がこんな目に合わなくてはいけない? 赤い瞳だから? 何故同じ人間ではなくロチアートなどと呼ぶ? どうして? 俺達はただ、訳もわからずにこんな世界に飛ばされて、そして――ッ。
梨理は……食わ……れた。同じ人間に……。
その肉を、あいつらは俺に食わせた。俺の大切な人を、最愛の人をッ! 狂っている狂っている狂っているッッ!!
狂っているのはッ――!!
「ッッ狂っているのはッ!! お前達の方だァッッッ!!!」
周囲の壁や机を力いっぱいに殴り、蹴り回って破壊した。こうする事で俺の中に渦巻いた情動が少しは晴れるかと思ったが、そんな事は無かった。ただ俺は現実から目を背けていたくて、まるで癇癪でも起こしているかの様に怒り狂い続けていたんだ……。
それでもやがて、現実に立ち返らねばならない時が来る。
全身は切れた拳から飛び散った血で染まり、しまいにはフラフラと壁にもたれて座り込む。
俺がこの世界で生きていく為の理由は、梨理を守る事、それだけだった。
「も……どうでも、いい、何も……かも、失っ……た」
*
俺は梨理を埋葬した。そして手近にあったローブと梨理のヘアピンを持ってその村を後にする。
「……」
村からは一切の物音が消え失せていた。全ての村人を殺してしまったからだと、その時思った。
俺は宛もなくさ迷い歩いた。途中魔物に食い殺されようが、そこでの垂れ死のうがどうでも良かった。
生きる目的を失った俺は、ただの亡霊だ。