第一話 この世界の全てが悪だ(4/4)
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「アモンくん。晩飯じゃぞ」
目覚めると、間近から覗き込むシワだらけの顔がある。
「……あぁ、すっかり眠ってしまってた」
「本当に良く寝とった、うんうん」
湯気の上がる食器をテーブルに並べながらフィルが微笑している。
「起きたら目の前にシワシワの顔があってビックリしたでしょう? お爺さんさんったら、あなたの寝顔がダルフに似てるって言って、ずっとそうしていたのよ、うふふ」
「ダルフ?」
俺はソファから身を起こすと、テーブルから立ち上る香りに恍惚とした。
「わしの息子じゃ」
そう言ってヴェルトは、かつて息子にそうしていたのだろう、俺の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「……へへ」
少し照れ臭くなってまつ毛を伏せる。片時だけ、ここが俺の居た世界とは別世界であるという事も忘れ掛けていた。
「ねぇ聞いてアモンくん。この人ね、こう見えて昔は騎士隊長をしていたのよ?」
「騎士隊長……?」
騎士という概念がこの世界には未だあるらしいという事に、俺は驚きを隠せなかった。まるで中世ヨーロッパの時代に彷徨い込んでしまった心地のまま、その事について尋ねてみようともしたが、ヴェルトが煙たがる様に顔をしかめ、手を振ってその話し中断させる所だった。
「わしの話しなんかいいんじゃ。それより……食べようかアモンくん。腹が減っとるだろう」
「……はい、もうお腹ペコペコで」
俺は言われたままに席に着くと、テーブルの上に並んだサラダやパンやシチューを眺める。
――人々の温かさも、食卓の光景も、俺の居た世界と何も変わらない。
ここが前とは違う世界だからといって、案外落ち込むばかりでは無いのかもしれないと、馬鹿な事さえ考えていた。
「あれ、梨理は?」
「なに? 何か言ったアモンくん?」
「……あぁ、いえ何でもないです」
そこに彼女の姿が無かったが、深くは考えなかった。自分と同じ様に疲れて眠ってしまったのだろうと、それ位にしか。
「早速食べましょうねぇ」
「待て待てばぁさん! 久しぶりのご馳走じゃ、神様に感謝せんと」
そう言うとヴェルトは立ち上がって、先程まで俺が寝ていたソファの横の蓄音機に手をかける。
「うんうん、神様に感謝しながら頂こうか」
流れてきたのは、伴奏の無い「グレゴリオ聖歌」だった。一度だけテレビで聴いた事があったのでそう思う事が出来た。そしてその事から、不可思議にもこの世界にも、俺達の世界と同じくキリスト教の教えが根付いている事が理解出来た。
「さぁ食べようか、神様の恵みに感謝して」
「はい!」
俺は腹の減ったのに任せて目前のシチューをかっ食らい始める。そしてそれの飛び上がる程美味いのに目を剥いた。
「美味い! 何なんですかこのシチュー? 俺が食べてたのとは違って! 普通の牛乳を使ってるんですか?」
「ぎゅう……? よく分からないけど、普通の乳よ? うふふ、ただのシチューでこんなに喜んで……ダルフと同じねぇ、あの子もこのシチューが大好きだった」
老夫婦は多分、俺をダルフという息子の姿と重ねて、柔和な表情を向け合っているんだと思った。
「これ……本当に! ……ん? これ、肉?」
「そうじゃそうじゃ、都に行けんで本当に久しぶりの肉じゃよ。神に感謝じゃーワッハッハ!」
「でも肉は無いって?」
そう言いかけると、フィルがシチューに入った肉を口に放り込む。そしてねっとりと咀嚼しながら話し始めた。
「あら、でもこのお肉少し運動不足じゃないですかお爺さん?」
「そうじゃのう。ちと脂肪の多い肉じゃ。じゃが締めたばかりじゃから生きがいいわい。ほら、こうするとまだ肉が動くぞ! ワハハハ」
「締めて直ぐシチューに入れましたからね」
二人は口を開けて、クチャクチャと音を立てながら肉を噛み潰す。
シチューの中から肉を救い上げる。するとヴェルトの言うとおり、確かに赤っぽい肉が少し動いた気がした。
俺も倣って肉を口に放り込む。
口の中で肉が蠢く。そいつを奥歯で噛み締める度に、熱く濃厚な肉汁が口一杯に広がって……その肉の余りの美味さに舌鼓を打った。
ヴェルトとフィルは、何時までもクチャクチャ音を立ててシチューの肉を食べていた。
俺も、にこやかにスプーンを口に運んでいく。
「美味い! でもこの肉、牛や豚とは違うし、さっき締めたって言ってましたけど、一体何の肉なんです?」
――こんな旨い肉がこの世界で食えるなんて……梨理の奴にも早く食べさせてやりたいな。
「ん? じゃからこれはさっき鴉紋くんが――」
「……ん?」
絶品のシチューを口一杯に頬張ると、何か固い異物がある事に気が付いてそれをつまみ出した。
「え……これ……」
それは俺が梨理に上げた、蝶のついた小さなヘアピンと、それに巻き付いた長い髪の毛だった。
――梨理のが間違ってここに落ちたのか?
俺がつまみ上げた物を見ると、ヴェルトは椅子の背にふんぞり返って自分の額をパシンと叩いた。
「あちゃーすまんアモンくん! わしのせいじゃ」
「もー、お爺さんは昔から皮剥きが大雑把なんですから、ふふふふ」
「……皮……剥ぎ?」
「それにしてもこのロチアート大層暴れて大変でしたねぇ」
「いや本当あんな活きが良いのは初めて見たわい」
「最後に「生きて」と叫んでいましたけど、一体誰に言っていたんでしょうねぇお爺さん」
「わからんが、生に執着するなど珍しい個体じゃ」
二人の言葉の意味がよくわからず、俺は呆然としながらヘアピンをテーブルに置く。
「………………え」
シチューにスプーンを差し込むと、底に沈んでいた物がプカリと浮かんできた。
それは丸く、そして驚くほどに白く、てらてらとランタンのオレンジ色に照らされていた。やがてその白い物体はシチューの上でくるりと回って、その球体の真ん中にある赤い模様を俺に向ける。
「………………え?」
――それは眼球であった。
その赤い虹彩が、感情の無い視線で真っ直ぐに俺を見つめる。
「ハッハー、当たりじゃなぁアモンくん! どれ、わしと婆さんのにも入っとるかのう?」
「ふふふ、おじいさん、目玉は一匹につき二つまでですから、入っていたとしてもどちらかだけですよ! アッハハハハハ」
俺はシチューの上からこちらを見つめる、どうしようもなく見覚えのある赤い眼球をしばらく見つめていた。頭の中は真っ白にすげ代わり、瞬きをする事も忘れてそれを見下ろし続ける。
「ぉうえええええっっ!」
そして激しく嘔吐する。テーブルの上に吐き出された吐瀉物の中で、赤い肉片がまだ蠢いていた。
「――ッ!」
俺は勢い良く立ち上がると、奥の扉に向けて駆けた――。
「あ、アモンくん!? どうしたんじゃあ!?」
俺は廊下に並ぶ扉を全て蹴破って走る。
――梨理、梨理! 何処に居るんだ梨理!!
そして突き当たりにあった最後の扉に辿り着いた。蹴破られた扉は勢い良く内部に向かって押し倒れ、やがてその内部を露わにしていった。
「梨……理…………?」
血にまみれた室内の天井から、梨理が吊るされていた。巨大な鉄のフックに胸を貫かれて。
顔の半分を削ぎ落とされて、血の涙を目尻に垂らし、落ち窪んだ瞳を閉じて、梨理はそこに吊るされていた。
くるくると旋回して、まるでただの牛肉でも吊るしているかの様に。
そこに。
「あ……うあ、あぅ、ああ……あぁ! ああ! あ!!!」
俺の背中に、トチ狂った老夫婦が心配そうな声を掛け始めたのを聞いた。
「どうしたんじゃアモンくん!」
「どうしたの、正気になって!」
腹は縦に捌かれて、そこにあった臓物は足元のバケツに注ぎ込まれていた。ひたひたになった血と臓物の容器の中に、ピチャリと梨理の足の先を伝って血の一滴が落ちる。
俺は目前に垂れる梨理の亡骸の前で膝を落とした。そして闇の中にぶらぶらと漂う、吊るされた彼女を茫然と見上げる。
――『大丈夫。二人で絶対に無事で帰ろうね、アモン』
梨理の言葉が頭の中に去来して、少し前にした約束を繰り返している。
――『梨理の事は、俺が守る』
自らで口にした、情けが無いまでの誓いの言葉に吐き気を催した。
脱力し、あんぐりと開くしか無かった俺の口から、自然とそれは溢れ出した。
「あぁ…………あぁ!! ああ!! ああ!!! ああぁぁぁぁぁあ!!!!」
「どうしたんじゃアモンくん! 君のロチアートを赤い瞳の子を少し借りると言ったじゃろ? なんじゃどうしたんじゃ?」
「ぁァアアアァアアアァァアアアああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああッッ!!」
「まさかアナタロチアートに……食用肉に感情移入してたんじゃ……だとしたら、狂ってるわ」
「ィイアァアァ゛ッッぁぁぁぁぁあああああぁあああああああぁあああアアアァァアアアアァァアアアアア゛ッッ!! ――ッぁがああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああアアアアアァァア!!!! ああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああああああぁあああアアアアああああぁあああああああぁあああああ゛ァァァッッ!!!」
自分の噴き出す吐瀉物にまみれながら、あの夢の中の黒い怪物の様に、俺は激しく叫び続けた。
見開いた瞳から、熱い血の涙が頬を伝っていくのを感じる。
膝を着いたまま、天に向かって何処までも激しく、そして痛烈に慟哭し続ける。
いつまでも、いつまでも……切なく歌い続けるグレゴリオ聖歌と共に……。
もう制御が出来ない。
理性さえも、もう……。
黒が、
邪悪の黒が……。
――来る。
右腕の蛇の痣が、灼熱感と共に漆黒を飛散させて、俺の腕を迫り上がってくる――。
みるみると肩の付け根まで黒に染まり、指のそれぞれは意志とは無関係にゴキゴキと鳴って蠢いた。
薄れゆく意識の中で、俺は、誰にともなくこう呟いた。
「この、世界……の全てが…………悪だ」