第一話 この世界の全てが悪だ(3/4)
「ここじゃここ。上がりなさい。すぐに水を出そう」
お爺さんは古びた家屋の扉を開け放って、靴のまま中に入っていった。
「土足……」
梨理はそう言って、自分が日本ではない何処かへ来てしまった事に改めた落胆している様子だった。
それから居間に通されて、大きな木のテーブルの前の椅子に座るよう促されたので素直に応じた。
「ばぁさん。客人だ水を二つ持ってきてくれー!」
家主が椅子にふんぞり返って大きな声を出すと、奥から丸眼鏡をかけたお婆さんが水の入ったグラスを二つ持って現れた。
「あらまぁお客さん? 珍しい、何処からいらしたの?」
「草原を歩いて来たんだと」
「まぁまぁそれは大変だったでしょうに……んん?」
テーブルにグラスを置きながら、お婆さんは梨理の赤い瞳をジッと見つめる様にしている。
「あ……突然すみません。その……お邪魔します」
梨理は緊張した面持ちで頭を下げる。お爺さんとお婆さんは真顔のままその仕草を見下ろしていた。
すぐに俺と梨理は、目前に差し出された水を喉を鳴らして飲み干す。
「ハッハッハ、随分と疲れとるな! あぁそうじゃ、わしの名はヴェルト。でこっちのばぁさんが……」
「フィルです」
名乗った老夫婦に改めて会釈する。そして行き着く島も無いままに、ヴェルトは指を一本立てて提案して来た。
「何があったのか知らんが、あの草原を渡り歩いて来たのなら大変だったろう。魔物に会わんかったのは幸いじゃったな。どうじゃ、今晩はうちに泊まっていくといい。ええとなんだ、そのー……」
俺は陽気なヴェルトに向けて微笑んだ。
「アモンです」
フィルが巻き毛を跳ね上げて話しに割って入って来る。
「まぁ、このご時世に旅をしているんですって? 私も話を聞いてみたいわ」
机に乗り出して顔を覗き込んで来るフィルに動揺を覚えながら、俺は顔を振って見せた。
「いや、旅という訳では無く、俺達にしたって訳がわからないままで」
「なら、余計に気になるじゃない。うふふ」
「ばぁさんもこう言っとるし、どうじゃアモンくん。見ての通り小さな村での、わしらは暇なんじゃ、泊まってけ。ワッハッハ」
振り返ると、間髪入れずに頷いた梨理が安堵したような表情を見せている。
「はいっ! 是非お願いしたいです!」
「じゃあ決まりじゃあ!」
目と鼻の先にお爺さんの拳が突き出されていた。
「え……あの……」
「ん、男と男の……ほれ!」
俺は直ぐに家主の言わんとしている事を理解し、ふざけあって拳と拳を合わせてみせた。
世界が違えど共通する感覚はある様子で、俺の中に張り詰めていた緊張が微かに緩まっていく感じがした。
「でも私たち、お金を持っていないんです」
思い出したように心配な表情をし始めた梨理を見ながら、ヴェルトは頬杖を着いて眉根を下げる。
「そんなのはええわい」
「いいんですか? たっ、助かります!」
梨理は俺の耳に向かってヒソヒソと囁いて来た。
「この世界の人達ってとっても親切ね」
「あぁ、本当に良かったよ」
フィルは魔法瓶の水を二人のコップに注ぎながら俺を眺める。
「あらぁ楽しい夜になりそう。でも……近頃は魔物のせいで都の方に行けないから、畑で採れた野菜位しか無いのよね」
「い、いえお気遣いなく!」
俺は遠慮したが、同時に腹の虫がグーと大きな音を立てて、それを聞いた三人は大きな声で笑った。
「ワッハッハご馳走を作るのも一苦労という事じゃ。……ああ、そうじゃ。そういう事なら」
ヴェルトは思い付いたように手を叩くと、梨理の赤い瞳を眺める。
「アモンくん。その子をちと貸してくれんかなぁ」
――窓の向こうを見ると、山の向こうに巨大な太陽が二つ沈み掛けている。時刻は既に夕暮れで、橙色した陽光が、窓の四角い木枠の影を斜めに引き伸ばしていた。お婆さん一人じゃ料理も大変なのだろう。だが梨理も俺と同じように随分疲労しているし、どうしたものか……。
彼女の身を案じていると、梨理は自ら挙手して立ち上がっていた。
「御安いご用ですよ! こう見えて私、料理は得意なんです!」
自信あり気なガッツポーズを披露しながら、鼻をヒクつかせている。そんなに上手だったかな、なんて言いそうになったが、睨まれそうなのでやめておいた。
「アハハ。この子面白い事言うわねぇアハハハ。料理が得意って」
腹を抱えて気さくに笑うフィルを横目に、俺は梨理に問い掛けていた。
「梨理、いいのか? お前も随分疲れて……」
「いいのよ、ただで泊まらせて貰うんだもん。料理位手伝わなきゃ気兼ねして寝られないわ」
「……じゃあ俺も手伝って――っ」
そう言って立ち上がり掛けた俺は、不意に来た目眩に体を揺すられた――。
「やっぱりアモンは、私が居ないとダメダメね」
――梨理の手にそっと支えられて、俺は何百回と繰り返されて来た彼女の口癖に微笑していた。
「よし決まりじゃ、久しぶりのご馳走じゃー。ワッハッハ! 嬉しいのぅ」
「ハイ、私頑張りますおじいさん!」
「ワッハッハ! ユニークな子じゃの、ばあさん」
「本当に……ふふ。では早速調理しますね」
「わしも後から行くからよろしくの」
「ええ、私一人じゃ骨が折れますからアハハ」
フィルは梨理の手首を掴んで奥の扉を潜っていった。彼女はこちらに振り向くと手を振って「後でねアモン」と屈託のない笑みを見せてくれた。
「自分だって疲れているはずなのに、ありがとう梨理」
「アモンくん。むしろ釣りを出してやらなきゃいかん位になったのう。まぁ何日でもここに泊まっていったらいいわい」
言葉の意味がよくわからずにいた俺は、立ち上がって腰を反り始めたヴェルトを見上げていく。
「久しぶりのご馳走じゃ。そういう事でちと手伝ってくるでの。アモンくんはそこのソファで休んでおると良いわ」
ヴェルトは背後にある蓄音機の隣の肌色のソファを示す。
「いいのかな、俺一人だけ休んでいて」
「いやいや、アモンくんは客人じゃ。それに大分疲れとるように見える。いいから少し休みなさい」
「……でも」
「謙虚な青年じゃのう。まぁ良いって事じゃ。晩飯まで二時間ほどはかかるから、そこで寝てなさい」
ヴェルトは舌を出して笑いながら、梨理達の消えていった扉の奥に行ってしまった。
「……」
何か、微かな違和感をこの時感じていたが、疲労困憊の脳はもう考える事を拒絶していた。
俺は柔らかい革で出来たフカフカのソファに身を預けて仰向けになった。まるで人肌に包まれているかの様な心地良い感覚を覚える。
魔物の事やこの世界の事。まだまだ聞いておきたいことは山積みだったが、夕食の時に梨理と一緒に聞いた方が良いと思ってそうする事にした。
そして俺は存外に気が緩んでいたらしく、疲労に任せて直ぐに眠りに着いてしまった。