第一話 この世界の全てが悪だ(2/4)
俺達は太陽の二つある不可思議な世界を歩き始めた。
思ったよりも目的の地は遠く、一度湖の側まで真っ直ぐに降りて行ってから、水辺に沿って集落を目指した。幸い気候もやや肌寒い位であった事から、照り付ける二つの太陽に体力を奪われてもまだ耐え忍ぶ事が出来た。
「ねぇアモン。ずっと右腕掻いてるけど、大丈夫なの?」
なだらかな草っ原を行きながら、背中にそう問い掛けられた。
梨理に言われて、前腕の蛇の痣に無意識に触れていた事に気が付く。ここに来てから異様に痣が疼く。いつもの悪夢の後の比ではない位だった。まるでこの皮膚の下で蛇が本当に息づいて、蠢き始めたかの様な……。
「虫にでも刺されたのか」
「……それは多分違うわ」
俺の言葉を否定する声に、思わず振り返っていた。
「気付かない? こんな自然の中を延々歩いてきて、まだ一匹も動物だとか、虫だとかを見ていないわ」
広大な空を仰ぐと、確かに鳥の一匹さえ見つからない。鬱蒼と生い茂った周囲の草木の中に虫や動物を探したがやはり無い。それは明らかに奇妙な光景だったが、周囲に散見される草花やその香りには見覚えがあった。
木の葉が擦れて草がなびき、湖面が風に流されていく、そんな自然の音しか無いのを何処か不気味に思った。
「本当に、なんなのかしらここ。私達以外に誰も居ないなんて事……無いよね?」
「……煙が上っていたって事は、そこに人が居るって事だろ」
「それが本当に人だったら良いのだけれど」
不安げな表情を見せる彼女の心労に気付き、今度は俺が励ます番だった。梨理の頭にそっと手を乗せる。
「梨理の事は、俺が守る」
俺は誓った。この見も知らぬ世界で今後あらゆる外敵が危害を加えようとして来ても、梨理だけは絶対に守り抜く。そう強く思っていた。
俺にとって彼女という存在が……いやずっと前からきっと、かけがえのない存在であった事を自覚する。
梨理は「うん、ずっとずっと守ってね、アモン」と言って飛びっきりの笑顔を俺に見せた。
そして俺達は照れくさそうにしながら、少し離れて歩き始める。
途中何度か休憩を挟みながら、一時間程湖沿いを歩き続けると、ようやく煙の上がっていた集落に辿り着いた。四、五軒の古びた家屋が見える小さな村の様だ。
「良かった、人が居るわ」
古びた集落の奥に、鍬を持って畑を耕す人の姿が見えたので、恐る恐ると近付いていった。
やがて輪郭がハッキリして来ると、畑を耕しているのがお爺さんである事が分かってきた。こちらに背を向けながら背中を丸めている。とりあえず自分達と同じ人間が居た事にホッと息をつく。
「あの、すみません」
俺はその高齢ながらも逞しい背中に話し掛けてから、言語が通じるのかを不安に思ったが、こちらに振り向いた禿げ頭のお爺さんは、驚いたような表情で即座に言葉を返して来た。
「……あれぇ? あんた、何処から来たんだい?」
お爺さんは不思議そうにしながら額に何重ものシワを寄せると、俺と梨理を交互に眺める。そこに敵意は無く、ただ柔和な視線がある事に気が付いた。
「何処って……あの、私達にもわからないんですけど、あそこの草原から歩いてきました」
梨理は自分達が目覚めた遠くの丘を指差した。するとお爺さんはみるみると目を見開いていき、俺の肩をガッシリと掴んだ。
「あんたら、あの草原を歩いて来たのか!? 今は魔物が多いんで村の者たちも外に出れず困っとるんだ。君たちは襲われなかったか?」
「魔物……?」
耳を疑う単語だったが、俺達はそんなものに出会ってなんかいない。そんなファンタジー世界の産物が、実際にこの世界には存在すると言うのだろうか?
俺は訳のわからない事が立て続けに巻き起こる心労に苛まれ、眩暈と共に足元をフラつかせた。それは梨理もまた同じだった様で、俺の肩によろめいて来て頭を預ける様にしていた。
今はとにかく、喉が乾いた。すがる様な目で見上げていると、お爺さんは合点したらしく手を打った。
「とにかく、あの草原を歩いて来たなら随分疲れたじゃろう。良ければうちで休んでいくといい」
人の良さそうなお爺さんの言葉に、俺達はもう頷く事しか出来なかった。
口角に幾重ものシワを刻み込みながら微笑んだお爺さんは、危なっかしく鍬をその辺りに投げ捨てると、ニコニコと俺達の前に立って歩き始めた。俺と梨理はその後に続いて行きながら、小声で耳打ちしあう。
「優しいおじいさんで良かったね」
「あぁ、少し休ませてもらおうか。でも、幾つか確かめておきたい事もある」
俺は少し前を歩くお爺さんに質問してみた。
「あの……ここは何処ですか? 日本ですか?」
「ん、ニホン? とは地名か? はて、わしは地理には詳しいつもりだが、そんな所は聞いたことがない」
眉を上げた老人に、俺達は同時に肩を落とすしかなかった。
「ここはフィーロじゃ。そんな事も知らんかったのかあんたらは? ワッハッハ」
豪快に笑うお爺さんを横目に、俺達はやはり自分達が別世界に居る事を理解するしか無かった。




