第一話 この世界の全てが悪だ(1/4)
一話の終わり、五部に地雷が仕掛けられています。気を付けて進んで下さい。
第一話 この世界の全てが悪だ
「ここは……何処だ?」
強烈な草の匂いに鼻腔を突かれて俺は瞳を開けた。
青空を仰いでいたらしい体勢から顔を横に背けてみると、そこにあった右の前腕に、生まれ付きからある痣があって自分の存在を認識する。この夢を見るといつもそうだ。蛇の形をしたこの痣が、熱く疼く。
……それにしても、どういう事なのだろうか。
その姿勢のまま目だけで周囲を見渡してみたが、どうやら自分が何処かの草原の中で眠っていたという事実だけが認識出来る。
だがおかしい。それは妙だ。俺はまださっきの夢の続きでも見ているのだろうか。だってハッキリ覚えている。忘れようも無い様な瞬間でもあったから。
俺はさっきまで、幼馴染の五百森梨理に呼び出されて神社に居た筈だ。話があるって言われて、夜の八時に近所の神社の鳥居の下を潜った。そうだ、日も暮れて居た筈だ。それなのにどうして空がこんなにも陽射しを照り付けて俺の顔を照らしている?
つまり時間が飛んで、見知らぬ場所に投げ出されている。
「アモン……ねぇ、生きてるの? 返事をしなさいよ終夜鴉紋くーん」
眩しく思っていた視界に梨理の顔が被さって来ていた。俺を覗き込む形でしゃがみ込んで赤い瞳を光らせている。
「いつまで寝てるのよ……やっぱりアモンは、私が居ないとダメダメね」
彼女の口癖を耳にして観念した様に体を起こしていった俺は、周囲を見渡していって、唖然とした。
「何が……どうなったんだ俺達?」
地平の果てまでが草原で、幾重にもなった丘の隆起と、向こうにそびえた山々の緑。今俺の居る小高い丘の眼下には円形の湖が広がっていて、陽の光が強烈に水面に反射していた。
ますます混乱した俺は頭を抱えて考え込むしかなかった。お互いの体を見渡してみたが外傷は見当たらなかった。一体何が起こって俺達は今見知らぬ土地に居るのか。
胸の前で手を打った梨理は振り返って、俺に向かい合う形になって僅かに微笑んだ。尖った八重歯が薄い唇の端に覗いている。いつもと変わらない笑顔で、俺の不安を吹き飛ばそうと努めてくれているのがわかった。
「私もわからないの。だから最後に覚えてる光景を思い出そうよ。ね? そしたら何があって今ここに居るのか整理を付けられるかも知れないし」
無愛想に返事を返しながら、俺は顎に手をやって思案する。
――覚えている。
確か俺は梨理に夜の神社で……。
もうすぐ高校を卒業して離れ離れになってしまうからって、確か……告白……されて……。
こんな状況にも関わらず、頬が熱くなる感覚を覚えて身じろぎする。幼馴染の梨理が俺に想いを打ち明けた……この記憶の方こそ夢だったのでは無いかとさえ思う。
気丈な彼女が、視線を足元に投げ出しながらモジリと指先を絡ませる。肌白の頬に差した赤色はチークのせいでは無いだろう。体温が昂った自然な色味で紅潮しているのがわかった。赤く染まった耳の上で、蝶のヘアピンが光っている。いつまでそんな物を大切に身に付けているのだろうか、幼い頃に俺が気まぐれであげただけの数百円の安物を。
……とにかく俺は、可憐な彼女が月光の薄明かりに照らし出されながら、ひどく困惑した俺を真っ直ぐ上目遣いに窺った所までしか覚えていなかった。
「ご、ごめんアモン! やっぱり思い出すの無し!」
「無しって言ったって……」
彼女の方でもその記憶に思い至ったのか、茹で蛸みたいに顔を赤くしながら背を向けていってしまった。
しかし思い出してしまったものは仕方が無いだろう。彼女の肩の所で揺れる絹の様な髪を眺めながら、俺は抗議的な視線を送り続けた。
すると彼女は腕を組み上げていきながらつっけんどんに言う。
「あの時の事は忘れていいから! こんな時にそんな事言うのって変だって思うかもだけど、私にとってはすごい重要な事なの!」
「……」
「別に……卒業が近いから少し感傷的なっただけなんだから。うんうん、今思うと本当にただのそれだけ!」
捲し立てるように話す彼女は、未だ背を向けたままで俺と視線を合わせようとしない。
「冷静になって考えてみたら。ぜーんぜんアモンの事なんて好きじゃ無かったんだから! 小さい頃からずーっと一緒にいるアンタなんかにそんな感情抱く訳無いじゃない」
「……」
「別に焦らなくっても? 夢のキャンパス生活で好きな人なんてすぐに出来るって言うか。だって私ってばあんな片田舎を離れて東京の大学に行くんだもん。都会に出ればアンタなんか霞んじゃう位もっともっと良い男の人が沢山いるって言うか……っ」
「……俺は梨理が好きだ」
彼女が振り返って、息を呑んだのが見えた。華やかな植物の香りを乗せた風が彼女の髪を舞い上げて、その特徴的な赤い瞳を潤ませる。
「もう一回言って……」
「俺は梨理が好きだ」
「そ、それは、私が居ないとダメ……って事?」
「……ああ」
そして、深く頷きながら頬に涙を伝わせていった。
「やっぱりアモンは、私が居ないとダメダメね」
俺達は抱き締めあった。訳のわからないこんな場所に居ながら。
いや、もしかするとこの時から、俺達は直感的に感じ取っていたのかも知れない。この世界に潜んだ危険を。
だから何かが手遅れになる前に、この気持ちを率先して伝え合ったのかもしれない。
「アモン、なにあれ見て……っ!」
抱擁をしたまま見上げると、そこに二つの太陽が光芒を伸ばしている光景があった。
「こんなの……だって、ありえないだろ」
――ここが異世界でも無い限り。その一言を、俺は梨理に言い出せずにいた。
結局、どうして俺達がこんな事になっているのかはわからずじまいだった。梨理にしてみても俺と同じく、突然に記憶が途切れてこの世界に居たという事らしい。
得体の知れない太陽の二つある世界……。しかし、ここで立ち止まっていても何の解決にもなりはしない事はわかる。
「見てアモン、人がいるみたいよ」
梨理がそう言って遠くの方を指で示している。
見ると湖のほとりに、細く煙が立ち上り始めている。誰かが火を起こしているのだ。ここからは遠く、豆粒の様に小さいその場所に目を凝らすと、幾つか家の様な建物が見える。
――行ってみるしかないと、そう思った。ここが異世界であるという事実から来るあらゆる不安が心を押し潰しそうになる。だけど梨理はそんな俺の不安を吹き飛ばすみたいに、満面の笑みを向けてくれた。
「大丈夫。二人で絶対に無事で帰ろうね、アモン」