第三話 家畜の教育者(6/7)
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彼の名はフロンス。ロチアート故に姓は無い。
ミーシャ農園で生まれ育った彼は、二十代の頃にその高い知能によって、各農園に二名しかいない教育係に任命された。
食用肉であるロチアートに一般的な教育を施すのは、ひとえに脳が引き締まるという食感的な理由しかなく、フロンスもそれを理解していた。
人間に喰われる為に子ども達に教育を施し、出荷となったら笑顔で送り出す。Eランクになった教え子を何の感慨もなくステーキにして食べる。そんな日常に疑いも持たず生活していたフロンスだったが、ある少年との出逢いが彼の平凡だった人生を変えた。
サハトという名の九歳の少年を一目見ると、フロンスの中に得も言えぬ感情が巻き起こった。
頬がほてり、四六時中彼を考えてしまうその現象の説明が、彼には出来なかった。
ロチアートは家畜であり人間ではない。その常識的概念によって、ロチアートには他者を愛する事や、性行為を行う事の一切を禁忌とされていたからだ。
その感情への対処の仕方もわからずに、フロンスはそのサハトという少年と二年もの月日を共にした。
しかしサハトが十一歳になると、彼は食用肉として出荷の命を受ける。教育係として淡々とそれをサハトに伝えたフロンスだったが、跳び跳ねて喜ぶサハトを胸に抱き締めながら、その内に巻き起こる始めての暗い感覚に襲われた。
サハトが食用肉になる。それがもう二度とサハトとは会えなくなる事を意味している事はわかっていた。
――彼を失いたくなど無かった。
そんな事を考えた事など過去一度もなかった。それは決してフロンスに慈愛の心が無かったからではなく、ロチアートとしての至上の喜びが人間に喰われる事であったが為に、天より与えられた使命を全う出来る事を共に喜びあうという結論にしかならなかったからである。むしろフロンスは子供達に対して深い愛情を注ぎ、実の父の様に思っていた。
サハトは先日視察に来たネツァクの都の貴族に買われた。直接指名を受けての一頭買いはままある事で、上流貴族の美食への飢えを満たす為には、容姿や年齢、頭脳など、全てが高水準でなくてはならない。この手の買い手が容姿へとこだわりを持つのは、彼等の肉を使用したフルコースの並んでいくテーブルの上に、飾りとしてその首を添える風習がある為だ。その首は美しければ美しい程良いとされて、権力の誇示ともなる。
喰われる事を信条として生きているロチアートにとって、貴族から一頭買いの指名を受けるという事はこれ以上のない栄誉なのだ。
そうとわかっていながらもフロンスは、過ちを犯してしまった。
彼には、たとえ貴族からの指名であろうともサハトを手放す事なんて考えられなかった。それでももし、どうしても彼を送り出さねばならないのだと言うのならば、彼を死んだ事にして何処かへ逃そう。
農園に人間は一人もいない。教育係の二名のロチアートが、都からの通達を受けて解体から出荷までの工程を行うので、監視にも来ない都の人間の目を欺くのは容易な事であった。
愛という未知の感情の虜となったフロンスは、サハトという個体に病があったと偽りの報告をした。すると当然、病気の肉など喰えないと注文はキャンセルされる。そしてサハトの個体データベース上にもそれは記録され……本来最高ランクでの出荷となる筈だった彼はEランクと認定されて、その肉は村で喰われる事になった。
絶頂の誉れより地底へと滑落したサハトの悲しみぶりは、目も当てられぬ程に悲惨だった。
「僕は何処も悪くなんか無いのに、僕は病気なんかじゃ無いのに……どうして?」
この世に生を受けて後、人に喰われる事だけを喜びと考え続けて来た少年の夢は潰えた。
そこにフロンスによる謀略があった事など露ほどにも知らないまま、彼は村の食用肉として加工される事となる。その工程を行ったのはフロンス自身であった。
暗い暗い地下の解体室へと向かう階段の途中、サハトはフロンスへと語った。
「せめて僕の肉を、フロンスさんが食べてね、絶対だよ」
瞼を腫らせた笑顔で、サハトはフロンスにそう微笑み掛けた。その笑顔がどれほど彼の胸を締め付けたか。どれ程彼に罪の意識を覚えさせたか。今でもフロンスの脳裏に、その笑みがこびりついて離れる事は無い。
そして彼は葛藤する。仮にサハトの存在を抹消してこの場を生きながらさせたとしても、それは彼の幸せとはならないのではないか?
この村で彼の存在を隠匿し続けるのは不可能だ。万が一明るみになった時の責任は彼一人の身には収まらないだろうし、最悪この農園の閉鎖だって考えられる。だからといってこの荒野に何も知らぬ少年を放り出しても、それは見殺しにしているのと同じなのでは無いか。
それならばいっそ――。
少年の願いの通りにフロンスは――。
自らの犯した赦されざる罪へのせめてもの贖罪として彼は――。
サハトを自らの手に掛け、そして……その場で喰らった。
他者の愛し方を知らぬフロンスは、
それが。
喰らう事が――愛なのだと、そう解釈した。
サハト自身も喰らわれる事を強く願っていたのだから、そうしてあげる事は愛を返す事に他ならない筈だ。
愛と悔恨と業の深さに正常な思考を失いながらも、恍惚と美味、そして快楽がそこにあった事だけは覚えているのだから。
だがその後フロンスは、最愛の少年を自らの手にかけてしまった事にとても深い、深淵のような悔恨を覚えて日々を送り始める。子供達を愛する彼の真の慈愛と、彼の解釈した歪な愛との間の葛藤に溺れたのだ。
しかし彼はそれからも、Eランクに認定された少年にサハトの面影を見ると、あの時の愛を忘れられずに同じ過ちを繰り返してしまった。
けれどそれは彼の愛したサハトとは違うものであった。いくら別の子に彼の面影を見ようとも、結末として、自分の愛した少年とは全く違う存在であるという事を痛感し、サハトへの叶わぬ愛を募らせていくだけの虚しい行為でしかなかった。
ある時フロンスは亡骸となった少年を胸に抱き、大きな声で泣いた事があった。
自分の求めているのはサハトという少年ただ一人。それなのに彼を愛するという事がもう出来ないという深い悲しみ。村の子供達を慈愛の心で包みながらも、自分の快楽の為に少年を地に貶めて殺してしまったという深い懺悔の念。それらが溢れ出して、フロンスは亡骸を胸に慟哭したのだ。
サハトの顔を思い描きながら絶望にうちひしがれていると、彼の足元に紫色の光のサークルが生じた。
それが彼の異能力――『死人使い』が発現した瞬間であった。
胸の内に抱く生命を失った筈の少年が、何かに憑依された様に項垂れていた顔を挙げて、焦点の合わない視線のまま、思い通りに動いた。
フロンスはその光景に驚愕し、そして歓喜して叫んだ。
「ああっ!! サハト……ッアナタはサハトなのですね!!」
「あ……ぁ……ああ、あ……」
自らの能力によって使役する少年の亡骸が、愛の為に奇跡的に甦ったサハトなのだと盲信したフロンスは、あの日の様に少年を愛した。一方的な愛を。その口の中一杯に赤い肉汁を頬張って。
そうして他者を愛する絶頂の喜びを感じていると、フロンスの中にとある疑問が巻き起こって、口を突いて出た。
「何故、私は他者を愛してはいけないのだ……」
それが彼に密かにロチアートの存在意義を考えさせる最大のきっかけであった。




