第二話 ロチアートの少女(7/7)
*
空を風になって駆けていた――。
俺の意識が完全に覚醒するよりも早く、この黒き右腕は地を穿ち、水飛沫を高く打ち上げて噴水を破壊していたらしい。
「あ……アモン。貴様まだ!」
「あっ、あり得ない! ドルト様の大魔法の直撃をくらって!?」
ドルトの前に着地した俺は、右腕が激しい熱を帯び、膨張して膨れ上がっていくのを感じていた。
「オオオアアアアァガアアアアアアアアア゛ッッッ!!!!!!」
「ううぁ……うアアアアっ!!?」
「なんて声出しやがる、まるで地獄の底から這い出してくるみたいな……ッ!」
叫声が口から這い出して、周囲に陰惨な気配を漂わせているのを感じた。
嗚呼、心地が良い。
蒼白となった兵は足元から震え上がっている。
そして俺の雄叫びに呼応する様に、生身だった俺の左腕までもが黒色化していく。
俺は左手に梨理のヘアピンを握ったまま、体の内より溢れる邪悪に任せて吠える。
「貴様のその異能力は、まだ変異の途中だというのかッ!」
ドルトの余裕げな表情が失せて、苦虫でも噛み潰したみたいに歪んでいるのを愉快に思った。
奴は再び俺に向き直って、後方の兵に魔法を放つ合図をする。
「だがそれがなんだ。ギリギリ意識を保っておるそんな有様で、貴様に何が出来る!」
ドルトの後方から雷撃や炎の塊が、光の線を描いて向かって飛んで来る。
「かアッ!」
黒色化した掌を地面に叩き付けて高く飛び上がる。手を着いた地を深く抉り、空に瓦礫を舞い上げながら。
あえなく空を切っていった魔力の輝き――。
対して高速で飛来していった俺の体は、そのまま兵の集団の中心に着地する。
「うわぁああ、来るなぁあ!」
漆黒の両腕を振り、一人、また一人と兵を屠って駆ける。途中何発か魔法が放たれて来たが、その太く黒い腕は難無くそれらを撃ち落としていった。それも俺の意志を半ば飛び越えて。
「おのれアモンッッ!!」
瞬く間に殺戮されていく兵を見たドルトが、額に青筋を立てながら両腕に目映い雷撃を溜め始めた。どうやら再び先の大魔法を放つつもりらしい。
「……ウザってぇ」そう口を突いて出ていた。
俺は髪を乱して暴れていたが、どういう訳だか、突如にこんな小物相手に走り回るのが馬鹿らしくなって足を止めていた。何の勝算もありはしないのに、この豪胆さは何処から湧き上がったと言うのだろう。わからないが、今はただ腹の底から目前の男に対する軽視だけがあった。
ピタリと動きを止めた俺に、大魔法の照準を定めたドルト――。
「っ馬鹿めッ『雷弩砲』――!!」
ドルトの腕から巨大な雷撃が繰り出されていた。毛髪巻き上げていく雷の迫力を真正面に、俺は半身になって、黒く変化した左腕でそれを受ける。
「正面から受けるとは愚かな、この俺の技を受けて灰燼にならなかった者はおらぬと言うのに!」
「……っ」
「ほうら力を上げるぞッ!」
周囲の商店や建物をも巻き込んで、更に太く強烈に変化していった渾身の雷撃を受けた俺は、吹き飛ばされそうになるのを腰を落として踏ん張る。
「もう限界だろう、灰と化せ!!」
その強烈な雷撃にジリジリと後方に押しやられ始めたが、歯を食い縛ってそれに耐えながら、怒りを抱え込んだ瞳でドルトを射貫く――。
「……俺の限界テメェが決めてんじゃねぇぞ――なぁ?」
そして左腕で雷撃を受けながら、右腕をギリギリと後方に引き絞っていく。弓を引いていく様に悠然と。力を溜めていく様にゆったりと……。
そして――引き絞った右腕をドルトに向かって解き放つ。拳を握ってただ思い切り、目前の雷撃毎ぶん殴る――!!
「ッ――なあ!? なんだそれは、単純な剛力でもって我が魔法が打ち消されたとでも?!!」
ドルトはその衝撃に後退る。そして絶対の自信を持っていた必殺の雷撃を吹き飛ばされた事に放心しているのか、
――ほんの一瞬だけ、天を仰いだ。
「……っアモン!!」
自身のプライドを打ち砕かれた様子のドルトだったが、直ぐに視線を俺へと戻していった。
「あっ」
――その瞬間、ドルトの情けのない声を聞いた。
奴が目を離したそのコンマ数秒の間に、俺は地に掌を叩き付けて飛び上がり、疾風の様にドルトの目前に迫って左腕を振り上げていた――。
放心した敵を目と鼻の先にしながら、滾る想いを拳に乗せて――吠える!
「お前も、この世界も全部っ!! 俺の敵だぁぁああッッ!!」
黒き左の拳を、ドルトの顔面を真正面から捉えて振り抜く――。
「――ドルト様ッ!」
ドルトは顔面を粉々に破壊され、顔を真っ赤に染めながら吹き飛んでいった。
そして数十メートル先に仰向けで着地し、ピクリとも動かないでいる。
敵の顔面を破壊し、返り血を浴びた俺は、その場に残った僅かな兵を茫洋と見据えた。
「ひ!」
「撤退、撤退だ! ドルト様を連れて退け!」
魔術師達は、既に絶命したドルトを抱えて逃げ出していった。
*
俺は死体以外の誰もがいなくなった広場で少女の姿を捜す。そして半壊して水の溢れた噴水の前に彼女が居ることを認めると、ふらふらと傷だらけの体を引きずって歩み寄っていった。
「……良かった、無事で」
血を吐き、震える足でゆっくりと歩んでいく。両腕の黒色化は終わり、両の腕に黒きアザを残していく。
「……梨……理」
今にもその場に倒れ込みそうになりながら、少女の目前に佇む。
「梨理……やった、やったよ。今度こそお前を、守れ……たかな?」
ここまで気丈に振る舞ってはいたが、焼け焦げた全身に鋭い痛みが走り続けていて、遂には膝が地に落ちてしまった。そしてそのまま俺は前のめりに倒れ込んでいく。
だがその顔面は固い地面にではなく、温かい胸に抱き止められている。
顔を上げると、目前に赤い瞳の彼女が映った。風に髪をなびかせた梨理をまじまじと見つめる、その瞳のレンズに映し出された男は、ズタボロになった血濡れの姿で、閉じかけた瞼をハッとした様に見開いていき、小鼻をひくつかせながら、目尻に涙を溜めていく所だった。
「守れたよ、梨理」
「……」
「お前の事……今度こそ」
「あ……もん?」
「もう二度と、あんな目には……合わせない、から……っ」
「……」
「もう二度お前の事を! 誰にも傷付けさせないからッ……だから梨理――っ」
「アモン」
少女は、俺の頬に伝う涙を視線で追いながら、ピクリとも笑わずに、ただ静かに答えた。
「セイル。私の名前はセイル。梨理じゃない」
目前の赤い瞳に映り込んだ男は、口許だけで作った笑みをゆっくりと消していって、そこに絶望を落とした虚空の瞳だけを残していた。
脱力して開かれた左の掌から、粉々になった梨理のヘアピンが風に乗って消えていく。
「……あ……あうぁ……う…………ああぁぁぁっ」
俺は少女の胸で咽び泣いた。子供の様に、惜し気もなく大きな声を上げて。少女はそんな俺の頭を力強く抱き締めながら、目を瞑って俺の髪に顔を埋める様にしていた。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁ!」
俺はその時、ようやく梨理が死んだ事を理解したんだ。




