見知らぬ館
「ヴァルベル?」
キィと音をたてて開いたのは、中庭に面する扉のうちの一つ。
顔を出したのは白髪のマダムだった。
扉からは、あたたかな部屋の明かりが漏れ、優し気に辺りを照らした。
その琥珀色の明かりを見て、胸が苦しくなった。
私の家は今頃……どうなっているのだろうかと。
「この娘を頼む」
「頼むって、一体……まあ……そんな姿で」
マダムの落ち着いた声でそう指摘され、なんとなく目線を下げ、ドレスを見て驚いた。
ドレスは泥が跳ねて汚れ、そして一部破れていた。
私は瞬時に恥ずかしさのあまり赤面した。
「何があったかは、後で詳しく話してもらいますからね」
マダムは男に少し厳しい声でそう告げると、「さあいらっしゃい」と私の手を優しく引いてくれた。
扉をくぐると、清潔に整えられた小さな台所に入った。
私は思わず無遠慮に見渡してしまった。
「あなた、上等な生地のドレスをお召しなのね。どこの御令嬢なのかしら」
マダムは優し気にそう呟きながらなおも手を引き、奥に案内してくれる。
「わ……私は……」
自己紹介をしなくてはと、焦るあまりに口が回らない私に、マダムは眉を下げて微笑んだ。
「良いのよ、答えなくても。いずれ、ね……さあ、この部屋に入って」
階段を上がったすぐ横の部屋に案内され、遠慮なく入ると、マダムはクローゼットから動きやすそうなドレスを数点選んでくれた。
「このドレスは私がもう少し若かったころに着ていたものよ、労働に適した衣服であなたのような人が着るものではないけれど、そのままではいられないからね、当面、これで我慢してちょうだい」
「我慢だなんて……本当に、ありがたく思っております、見ず知らずの私に、こんなに親切に」
マダムはフッと軽く微笑んだ。
「私が、見ず知らずのあなたに親切めいたことをするのはね、理由があるの」
「理由ですか?」
「ええ」
「どんな理由でしょうか?……あの、お金なら私」
持っていないと、そう答えようとしたとき、扉がノックされた。
「キャロン、ここか?」
扉の向こうから突然知らない男性の声が響いた、体を震わせた私を軽く抱きしめて、マダムは落ち着いた声で答えた。
「ええ、あなた、お客様と一緒にこちらにいるわ、レディーのお仕度だから、男性は遠慮してちょうだいね」
「ああ、だいたいのことは聞いたよ、リビングで待っているからね」
声の主の足音が遠くなって、私が一息つくと、マダムは説明してくれた。
「わたくしの夫よ。安心してちょうだい。それから、ヴァルベルがあなたをここに連れて来たということは、しばらくあなたはここに逗留することになるのでしょうけど、なんと呼べばいいかしら?」
私はぼぅとする頭で考えた。
「名前……ですか……名前は、スティアですが……その、家名は」
そこまで言って、私は自分が泣いていることに気が付いた。
歪む室内の景色、目の前のマダムもまた、涙の向こうに見える。
「落ち着いて、スティア、ここにいれば怖いことはないわ」
「……違うんです……私、先ほど、おそらく家族を失ったんです、わ、私だけが逃がされて」
まるで要領を得ない私の言葉を落ち着いて聞きながら、私の汚れた手をぎゅっと握ってくれたマダムは真剣な顔で言った。
「そう、そうなのね。ならば、しっかりしなくては。あなたは助かったのなら、しっかり生きなくてはね」
その通りだった。
母が私を逃がしたのは、父も兄も剣を取って押し寄せる者たちに立ち向かって行ったというのに。
母は、覚悟の末館に残って……
心が持たなかった。
私はついに泣き叫び、マダムに抱きついた。
少しも嫌がらずに汚れた私を抱きしめて、背中をさすってくれる優しい人は、耳元で囁いた。
「いいのよ、スティア。少し、おやすみなさい」