暗闇
「お兄様……」
部屋を出る時に少しだけ見たお兄様の顔を思い出して、小さな声で呼んでみた。
青ざめて、髪を振り乱して、私の名を一度だけ呼んだ「スティア」と。
そして、強い視線で一度だけ頷いて、剣を片手に階下へ降りて行った。
あの、後ろ姿は……たくましく成長した兄の姿だった。
「お父様……」
昨夜、寝る前に額にキスしてくれた父を思い出した。
いつも優しかった父。
助からないと分かった時、どんな思いでそれでも私を守ろうとしてくださったのか。
私だけは助けるようにと、そう母に言い残し、門で借金の返済を求めるゴロツキの相手をしている。
この瞬間もだ。
この世界はそんなに優しくない。
お金が返せねばどんなに爵位が高かろうと、家ごと乗っ取られ、そして命を差し出すはめになるのだ。
それを知らないほど私は子供ではない。
それなのに、我が家門がこれほど困窮していると、なぜわからなかったのか。
なぜ……
「あ!」
足元の何かにつまずき、よろめいてしまった。
「しっかりして、スティア・オベール……もう、オベールは私だけなのよ」
濡れた壁に手を付き、しばし立ちどまる。
胸が苦しい、息が継げない。
そして溢れる涙は、止められなかった。
声を殺して私はしばし泣いた。
今だけはどうか、泣くことを許してください。
これからは、泣かないと誓いますから。
「神様がいらっしゃるのならば……どうか私を見ていてくださいませ」
私は家族の思いを背負うのだ。
生き抜かねば。
私は前を向いて再び足を急がせた。
カラン…
乾いた音が足元から聞こえた。
灯りを下にやり、泥で汚れた靴を見る。
そしてハッとする。
ぬかるんでいたはずの道は乾いていた。
ハッとして前に腕を突き出し灯りで先を照らす。
ぼんやりと浮かび上がったのは扉だった。
「扉だわ…」
疲れ切った足を急がせて扉に近づき、かんぬきをそっと開けた。
そして、ギィと音を立てて開いた扉からそっと顔を出す。
あたりは暗い森のようだった。
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