プロローグ
【タイトル、づくめ→ずくめ】「スティア、あなただけは、逃げなさい」
母の厳しく静かな有無を言わせない話し方。
私は幼い頃から、この厳格な母が苦手だった。
今時そこまで?厳しすぎるわよね。
友人達すらそう言って思わず苦笑する。
だけどこの時の母の声には、溢れるほどの愛が込められていると初めて感じられた。
厳しさの向こうにきちんと存在する、誰よりも深い愛情が。
言葉の意味を頭で理解するよりも早く、私はお母様に抱きついてイヤイヤをした。
まるで、幼な子がするように。
意味のある言葉は出てこなかった、ただ涙を流して首を横に振るだけしか。
母は、そんな震える私の体をそっと優しく撫でて、そして背中をポンと軽く叩き、耳元でもう一度その声は響いた。
「あなたは、ここにいてはいけない。わたくしとランサムがあなたの不在をごまかします。ですから早く、わかりましたね?」
年よりも若く見える美しい母は私から離れると、ちょうど同じくらいの背丈の私の頭を撫でた。
「いい子ねスティア、これをお持ちなさい。これから……あなたの身に幸多かれと願うわ」
そして、母は黒い鞄を私の肩にかけた、使用人が使うような形の見慣れないものだった。
「さぁ!」
背中を押された。私はもう何の言葉も話せなかった。
ただ、母に押し出され裏口へと通じる扉の前にポツンと佇んだ。
ここは普段、使用人しか入らない場所だ。
のろのろと歩を進め、扉の奥に入っていく。
部屋の奥には、老齢の執事がスクッと立っていた。
ここで生まれ育った私は知っている、この奥のワインが積まれた壁には森へと繋がる扉があるのだ。
幼い私と兄様は幼い頃、いたずら心でその扉を開いて外へ出ようとしたことがある。
その時、私たち兄妹はぎしぎしと重い扉を必死で開けて、そして真っ暗な穴倉を見て、恐れおののいた。
とても幼子がいたずらをするためだけに一歩を踏み出せるようなものではなかった。
「お嬢様、さあ」
「ハルネン……」
小さなころからずっと私のそばで仕えてくれていた老齢の執事は、私の顔を見てゆっくりと頷いた。
こんな時ですら、姿勢を崩さずにどこまでも凛としている。
「大丈夫です、お嬢様、さあ」
そう、いつもの調子で微笑んでいた。
私は震える体を押さえつけ、何度も腕をさすり、そして生唾を飲み込んで扉を押した。
古くサビ付いた重い扉は少し押したくらいではびくともしない。
ハルネンも一緒に押してくれるが、老齢のハルネンは近頃痩せてしまっていて、力はさほど無いようだ。
その彼を思いやり顔を見ると、笑顔を返してくれた。
二人して額から汗を滴らせ、そしてついに扉は開いた。
「お嬢様、私は、あなた様のご成長をおそばで見ることができ、とても幸せでございました。どうぞ、しっかりと……そのお手に、幸せをつかんでくださいませ」
ハルネンは泥だらけのまま、いつもの気品あふれる動作で私に礼をして、……私を穴倉へ押し込んだ。
そして、足元に置いていたランプを私の手に押し付けた。
「お急ぎください。私はここが見つからないよう、工作をいたしますから」
ハルネンは静かに、まるでディナーが今からはじまると、そう告げているかのような笑みを浮かべて、軽く頷いた。
そして、ギイと嫌な音を立てて扉は閉められた。
暗闇の中、明かりは手元にあるランプだけ、背筋が凍った。
すぐには足を動かせなかった。
もう、この手を誰も取ってくれない。
その現実が重く心にのしかかる。
あふれる涙をふくこともできず、私はのろのろと歩き出した。
穴倉の奥へ奥へと。
地面はぬかるんでいた。
壁から染み出した地下水が私の足元を濡らしているのだ。
これが現実だなどと……愚かな私はいまだ信じられない。
だけど……これは、家族が私に悟られまいと必死に隠してきたことの結末なのだ。
お父様の事業の失敗、そして積み上げられた借金。
返せずにあえぐお父様は、どんな思いで私にドレスを拵えてくれていたのか。
つい先週だって、何も知らない私に王室で開かれるお茶会のためのドレスを作ってくれたではないか。
あれがなければ?
あのドレスのお金さえなければ、もしかして返せたのだろうか?
いや、それは違うだろう。
世間知らずの私でさえも、ドレス一着分で済むはずのない金額であったのだろうと……そう推測できた。
「どうして……私には何も言ってくださらなかったの……」
胸が締め付けられて苦しい。
息がうまくできない。
だけど……私だけでも生きてくれと願う家族の願いを無下にはできない。
私は……強くあらねば、そう、強く。
震える体を叱咤して、後ろを振り返らずに私は歩いた。
どうせもう、戻れない。
引き返せない道なのだから。
お読みくださり、ありがとうございました。
ずっと温めていたお話です、一日一話を目標に書いていきます。
少し長く続きそうなお話ですが、最後まで応援よろしくお願いいたします。