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9、自分の殻

「うざいよ」

 その一言で、私は殴られたかのような衝撃を受けた。

「え……」

「うざい。でも……ありがとう」

 真逆の言葉に、私の目から涙が流れた。緊張が少し解れたのだ。

 彼は立ち上がると、私の前に跪き、私の手を取る。

「この半年、僕がこの家に帰っても苦痛じゃなかったのは、社長が飲みに誘って気遣ってくれるのもあったけど、住友さんがいたっていうことは明白だよ」

 その言葉だけで十分だった。

 私は止まらない涙を堪えようと必死だったが、彼に手を握られているので、どうすることも出来ない。

「うっ、ううっ。ごめんね。泣いちゃって、ごめんね……」

 鼻水や涙を流し、私は声にならない声でそう言った。

 彼の顔は、もはや涙で見えなかったが、ぼんやりと微笑んで見える。

「学生時代の恋愛みたいに、なんだかわくわくして楽しかった。でもやっぱり考えてみると、僕は妻も子供も忘れられないし、新しい恋愛に踏み切る勇気もない。住友さんのことは好きだけど、それは友達としてだ。友達にしてはずいぶん助けられたと思うけど、本当に出会えてよかった」

 まるで別れの挨拶のように、彼は話を続ける。

「本当にありがとう……」

「もういいよ……なんか、別れの挨拶みたい……」

 私はやっと彼の手から解放され、涙を拭ってそう言った。

 目の前の彼は、相変わらず複雑な表情を浮かべながら、真っ直ぐに私を捉えている。

「うん。お別れなんだ……来月から、九州に行く」

「えっ」

 またも衝撃の言葉に、私は今度こそ倒れそうになった。

 だが、私の意識を支えるように、彼は口を開く。

「今回の仕事が終わったらって、前々から決めてたんだ。やっぱりこの家が辛くて、どこか新しい土地で働けないかって、社長に相談して見つけたんだ。今度こそ誰も知らない場所、新しい仕事で頑張るつもり……」

「私がいたから? 梶君のこと、少しでも知ってる私がいたから?」

 私の言葉に困ったように、彼は眉を顰める。

「違うよ……でも、住友さんを見てると辛い」

 その言葉の真意もわからず、私は彼の家を後にした。

 そこからの記憶はほとんどない。ショックで何の言葉も出なかった。


 それから月末までの数日間、私たちの生活が変わることはなかった。

 それよりも、組んでいた仕事が終わったため、同じ部署にいても別々の仕事を手がけるようになり、話す機会すらない。もっとも、機会があったとしても、何を話せばいいのか、どんな顔をして会えばいいのか、まったくわからない。


「何があったの?」

 夜、私は久々に裕子と飲んでいた。

 さっきまでうちの部署の連中で、別の店で飲んでいた。彼の送別会である。

 彼は今日で仕事を辞め、数日後には九州へ行くという。小学校の時のように、あまりにも突然で、引き止める関係でもない。きっとこのまま何もしないだろう。

 気落ちしている私を、裕子は心配してくれているが、彼がどんな傷を抱えているかなど言えはしない。

「何って、べつに……」

「べつにじゃないでしょ。そんなに落ち込んでんのに」

「……そりゃあ落ち込むよ。急に遠い所へ行っちゃうし、フラれたし……」

 口を尖らせて言った私に、裕子は目を開かせている。

「へえ。まさかと思ったけど、フラれたんだ。っていうか、告白したんだ。妻子持ちによくやった! 褒めてあげる」

 妻子持ちということを否定はしたくない。彼にとっては、今も大切な家族なのだから。それを忘れてなどとは言えるはずがない。

「ありがとう……でも初めて告白したけど、フラれるって辛いね……」

「何言ってんだか。振るほうはもっと辛いんだからね」

 モテる裕子ならではの言葉だ。羨ましく思える。

「はあ……」

「もう、元気出してよ。どっちみち彼、九州行っちゃうんでしょ? 遠距離なんて続かないよ」

「そうかな。まあでも、私の顔見るの辛いって言われちゃったし。彼にとっていいならよかったって思いたい……」

 それを聞いて、裕子は突然身を乗り出してくる。

「そう言われたの? 顔見るの辛いって?」

「復唱しないでいただきたい……まだ立ち直ってないんだから」

 俯いた私の肩を、裕子が思いっきり叩いた。

「痛い!」

「それ、望みあるかもよ」

「は? 何言ってんの。これだけハッキリとフラれたのに、それでも望み持ってたら、ただのストーカーじゃない」

 私は苛立ってそう言った。

 だが、裕子の顔は輝いている。

「モノによるけど、あんたのケースは望みがある! それに私、男に言ったことあるのよ。あなたの顔見るのが辛いってね」

「ひどい女だね……」

「その先があるの。あなたの顔見るのが辛い、だってこれ以上いたら、あなたのこと好きになりそうだから……」

 裕子が言うと計算高く聞こえ、嘘っぽい。でも、確かに私にも望みが見えた。

「それって……」

「もちろん私は計算して言ったの。相手が妻子持ちで、取引先の重役っていう面倒臭い男だったから。でもあんたの場合は違うでしょ。少なからず、向こうだって好意持ってたと思うし」

「そうかな……」

「少しは自信持たないと、前へは進めないよ。あんた小学校の時だって、彼に行動しなかったんでしょ? もう偶然なんてないかもしれないよ。二度と会えないかもしれないんだよ?」

「……うん」

 励ましてくれる裕子に、私の心は少しずつ動かされていた。

 自信過剰でもいい、もう一度だけ、彼に伝えなければならないことがある。

「あんたが話さないから、彼の家族がどうなってるのかはわからないけど、いくら彼が家族を想って大事にしてたって、彼が拒否ったって、あんたの恋はあんただけのものなんだよ? ちゃんと行動しないと、いつかきっと後悔するから」

 殻が破れた音がした――。

 裕子の言葉に、私は今まで悔いてきた人生を思い出したのだ。

 彼のことに限らず、自分から進んで何かを手に入れようとしたことがない。戦ったこともない。それらはいつも後悔しつつも、改善されることはなかった。

「ごめん、裕子。私……帰るね」

 突然の行動に、裕子は驚きながらも、私を笑顔で見送ってくれた。

 私はそのまま彼の家を訪ねた。

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