3、初恋の人
そこには今、一番会いたくない人がいた。彼、である。
「やっぱり住友さん! こんばんは。家、近くなんですか?」
バツの悪い私に反して、彼はいつもの笑顔でそう言った。
私には、それが逆に切なく感じた。
「ああ……はい」
どもりながら、私は答える。
「よかったら家まで送りますよ。こんな時間に、女性が一人じゃ危ないですよ」
「そんなこと言って、梶さんが危ないかも……」
どうしたことか、そんな憎まれ口を叩いてしまった。
だが彼は驚いた顔をした後、またすぐに笑顔に戻った。
「あはは、確かにそうかもしれないですね。でも大丈夫です。僕には愛する妻がいますんで。もちろん、よかったらですけど……」
彼は薬指の指輪を見せながら、そう言う。
私は静かに頷いて、彼とともにコンビニから出て行った。
「あの……僕のこと、嫌いですか?」
帰り際、突然彼がそう言ったので、私は驚いて彼を見た。
「え?」
「いやなんか、避けられてる気がして……」
そう言う彼も、ストレート過ぎる質問に、すまなそうにしている。
「嫌いじゃ、ないですよ……」
私は、そう言うのが精一杯だった。
「そうですか。それはよかった……変なこと聞いてすみません」
彼のその言葉の後、私たちは無言のまま時を過ごした。
昔からそうだが、好意がある人にはうまくしゃべれない自分がいる。克服したいと思っても、それはどうにもなっていない。
「あの!」
そんな自分に嫌気が差して、私は思い切って声にした。お酒がまだ抜けていないせいもある。
「あの、東高下台小学校にいたことはありませんか?」
突然の質問に、彼は驚いた顔をした。だが、すぐに思い出そうと、空を見つめる。
「さあ……僕の家、転勤家族で、子供の頃は何度転校したかわからないんですよね……」
「そうですか……変なこと聞いてすみません」
すっかり意気消沈して、私は黙り込んだ。
私たちは沈黙に戻って、家へと進んでいく。
「もしかして……校門のすぐそばに、小便小僧がいる学校?」
突然、彼が自信なさげにそう言った。
私は思わず、大きく頷く。
「そう! 確かにそう!」
「じゃあ、池の噴水部分が鯉の口になってる学校だ」
「うん、そう!」
「歴代校長の写真が、廊下に飾ってある!」
「そう、そこ!」
私たちは、少年少女時代の笑顔に戻っていた。
「じゃあ、もしかして……」
彼の目は、懐かしさに輝いている。
私は小さく頷いた。
「小学校四年の時に、同じクラスだった……」
私の言葉に、彼は白い歯を見せて笑う。
「なんだ、早く言ってよ! 全然気付かなかった」
「だ、だって、すぐいなくなっちゃったし……それに、苗字も違うし」
私は少しむきになって、口を開いた。
「ああ、親が再婚したからね……でもそうか、こんなところで昔の同級生に再会するとは思わなかったよ。そうか、あの学校の……」
「……覚えてる? うちの学校」
「覚えてるよ。さっき言ったことにしても、何かと変な学校だったもん。でも、すぐにみんな迎えてくれて居心地が良かったし、楽しかった。人に関しては、悪いけど全然覚えてないけどね……まあ、高校や大学の時のクラスメイトも、仲の良い男友達以外は全然覚えてないくらい」
「いいの。私、地味なタイプだし、梶君とも全然しゃべったことないもん」
「そっか……でも、これも何かの縁だね。これから同じ職場な者同士、よろしくお願いします!」
彼はそう言って、深々と頭を下げた。
「こちらこそ」
私は素直さを取り戻し、そう答える。
その時、二人同時にくしゃみをしてしまった。
「あははは。少し冷えてきたね」
彼が言う。その声はいつも明るく、陽だまりのように暖かい。
すっかり路上に立ち止まって話し込んでいた私たちは、懐かしい話に終止符を打ち、とりあえずまた歩き始めた。
「家、どのへん?」
彼が言った。私は前を指差す。
「この先の道、右に曲がったところ……もういいよ。夜出歩くのも慣れてるし。早く帰ってあげないと、奥さん心配するんじゃないの?」
「うん……でも送るよ。どうせ僕の家もこっちだし」
彼の言葉に甘え、私はマンションの下まで送ってもらった。
「ありがとう。なんか、みっともない姿晒しまして……」
「あはは。人のこと言えないよ。僕なんて、家の中じゃパンツ一丁……いやいや、では先輩。また明日」
「もう。先輩はやめてください」
「でも新人だから……じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
彼は私の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
部屋に戻るなり、私は嬉しさに顔を綻ばせ、開いたままの卒業アルバムに貼られた、ハートマークをなぞる。
「嬉しいな……」
小学校の頃、ろくに話も出来なかった彼と出会えたこと、わかりあえたこと、何もかも満足だった。
でも、この初恋が実ることはない――。
彼には奥さんがいるし、私の現在抱えている気持ちは、恋ではないはずだから。
なにより、私はこれ以上ないという幸せで温かい気持ちになっていた。