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12/12

12、薄桃色のメモリー


 春――。薄桃色の桜が満開に咲く。

 この季節になると、私は彼を思い出す。

 あれからもう、五年の歳月が過ぎた。



「これで終わりですか?」

 その言葉に、私はビクッとして振り向いた。目の前には、引っ越し業者の青年がいる。

 私は我に返り、頷いた。

「あ、はい。そうです」

「じゃあ新居に向かいますね」

「お願いします。私もすぐ向かいますので」

 そう言って、私は空になった部屋を見つめる。

 五年間、立ち止まっていた想い。今も忘れることなど出来ない自分がいるが、私も彼のように、新しい場所で心機一転頑張ろうと考えたのだ。

 会社は変わらないが、私も係長という役を任されるようにまでなり、ただ仕事をこなすだけの毎日を送っている。五年前、彼と出会う前の、機械的な私に戻っただけのことだ。でもそれは、どこかで寂しく感じる。

 同期の裕子は、三年前に結婚退職した。恋愛話一つない私には、会社でお局様のような存在になっているに違いない。

 その日、新居に荷物を運び入れ、私は会社へと向かった。

 もちろん今日は休みを取っているが、家で読んでおこうと思っていた資料を忘れていたので、取りに行こうと思ったのだ。

「わあ、綺麗な桜。満開ね」

 そんな声が、どこからか聞こえた。

 会社の横は桜並木で、この季節は観光名所のように人が訪れる。

「あれ、住友さん。今日、引っ越しじゃないの?」

 部署に入るなり、部長がそう声を掛けてくる。

「ええ。でも運び込みは済んだんで、ちょっと忘れ物取りに来ただけです」

「忘れ物なんて、大丈夫? これから老いていくだけだよ。オバちゃんまっしぐらだな」

「部長、それってセクハラですよ。それに、どうせ私はもうオバちゃんですから」

 部長のチクチクとした言葉には、もうすっかり慣れている。

 私は苦笑したまま、自分のデスクから、いくつか資料を取り出した。

「そうだ。休みに悪いんだけど、これ直しておいてくれないかな。もちろん今日じゃなくていいけど、近いうち」

 頼みといっても強制的で、すでに部長はファイルを差し出している。

「直しですか?」

 ファイルの中を見ると、いくつかデザイン画が入っている。だが、悪いが雑なデザイン画だ。

「今度の新入社員に描かせてみたものなんだけど、ひとつ見繕って直してくれよ。こういう風に描けってね。まったく、専門学校出て学んでいるはずなのに、よくまあ雑にやってくれたよ」

 部長に同意し、私は苦笑した。

 早く帰って引っ越し後の片付けをしなければならないが、一人じゃそれも気が重いので、私はこの仕事をやってしまおうと思い、椅子に座る。

「じゃあ、やっちゃいますね」

「いいのかい? 引っ越しのほうは」

「ぐちゃぐちゃになってる部屋なんて、見たくないですもん。寝るところさえあれば、今日は乗り切れます。明日も休みなので、後片付けは明日やることにします」

「頑張るねえ。まあ、頼むよ」

 部長は自分の席へと戻っていった。

 私は新入社員のデザイン画を見つめる。最近の新入社員は、特に代わり映えしない。技術も才能も同じくらいだ。

 彼が入ってきた時の新入社員は、みんな性格も良かったし、仕事に熱心だった。そして、まるで彼に触発されたかのように、今では才能を発揮している。他の会社に引き抜かれた子もいるくらいだ。

「はあ……」

 私は溜息をついて、デザイン画に新しい線を入れていく。

 気がつけば、なんでも彼と結び付けようとしている自分が嫌だ。根暗で、独りよがりで、これっぽっちも変わっていない自分に嫌気が差す。

 絵を見つめながら筆記用具を探っていると、表に出していたペンなどを、豪快に落としてしまった。

「ああ……」

 やれやれ、だ……最近、何もかもがうまくいっていない気がする。それが自分のせいだとわかっていても、簡単に受け入れたくはない。

 椅子から立ち上がり、私は床にしゃがみ込む。

 今日はほとんどの社員が休みなので、この醜態があまり晒されなかったことに感謝だ。

「消しゴム、貸してくれない?」

 突然だった。

 時が巻き戻るスイッチのように、その言葉は私の思考を刺激する。

「住友さん……」

 不思議と、顔が上げられなかった。

 何度同じ夢を見ただろう。顔を上げても、目当ての顔はそこにはない。

 だけど突然の夢は、やけに生々しい声である。

 私は床を見つめたまま、深呼吸をして、状況を思い出した。

 遠くに部長が座っているほかは、今はこの部署に誰もいない。拾うのに一生懸命になっていたこともあるが、人の気配にまったく気付かなかった。

「大丈夫? 住友さん」

 覗き込んできた顔で、私の目に人の顔が映る。

 そこには、間違いなく彼の姿があった。いつの日と変わらない笑顔が、そこにあった。

「梶、君……?」

 彼は頷くと、拾い上げた私の消しゴムを握り、私が直していたデザイン画の上に置く。

「よかった。まだここにいたんだね」

 そう言う彼が、まだ本物なのか区別すらつかない。

 私は腰を抜かしたように床に座り込んだまま、震える手を彼に伸ばした。

「本物だよ」

 すべてを察するようにそう言って、彼は私の手を取る。

 私は涙を流した。

「会いたかった……」

「……待たせてごめんね」

 言いたいことはたくさんあったが、彼の一言で、私はすべてが満たされていた。

 彼が帰ってきた。私のもとに……それは、二人の未来を示している。


 やがて私たちは、会社の会議室で、二人きりで話をした。休日の今日、ここなら誰も来ないだろうからである。

 そこで、彼が独立してこちらに事務所を構えること、私の前の家へ訪ねてから会社へ来てくれ、私を探そうとしてくれていたこと、そして、やっと過去に気持ちの整理をつけられたということを教えてくれた。

「僕はこれからも、前の家族と君を比べることは出来ないと思う……この五年の間で、君が結婚したり幸せでいるなら、それを見届けようと思って来た。でも、君が僕を許してくれて、まだ少しでも僕を想っていてくれたなら……これからずっと、一緒にいてほしいんだ」

 プロポーズだった。

 なんの準備もない、不意の告白……それでも私は、死んでしまうかと思うほど嬉しかった。

「はい……」

 私たちは、そこで初めてキスをした。

 話したいことがたくさんあるのに、言葉が見つからない。それでも、わたしたちはもうわかり合えている気がする。

 暖かなそよ風が吹き抜け、会議室の窓から桜の花びらが迷い込む。

 春の訪れとともに、彼は私の前に現れた。

 ほろ苦い思い出を、胸いっぱいに詰め込んで――。




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