親友の妹とハグ
気がつけば、俺は教室にいた。
せっかく凛花ちゃんが協力してくれているのに、つい逃げてしまった。我ながら自分で自分が嫌になる。吐いたため息と一緒に、気分が沈んでいく。
窓際最前列。
頬杖をつきながら、次から次へとやってくる人の学生達の行列を窓ガラス越しに見つめる。
別に面白いものではない。ただ、今はこうして別のことに意識を傾けているのが楽だった。
ピロンとスマホが鳴る。
見れば、凛花ちゃんからメッセージが届いている。
『先輩、今どこ居ますか。時間あったら体育館下の自販機の所に来てください』
まだ、朝のHRが始まるまで猶予がある。
一言返事を送ってから、指定された場所へと向かうことにした。
体育館下の自販機。
この発言に違和感を覚えた人はいるだろうか。
もし違和感を覚えたのであれば、それは体育館が一階にあるという固定概念に縛られている証拠だろう。ウチの高校では、体育館は二階に併設されている。
体育館の下には、物置にしか使われていない部屋であったり、柔道部の部活部屋があり……凜花ちゃんが待ち合わせ場所に指定した自販機がある。
放課後にはそれなりに人の行き来がある場所だが、今朝は人気の少ないエリア。
案の定、凛花ちゃんを見つけるまで俺は誰ともすれ違わなかった。
「あ、先輩っ」
俺を見つけるなり、凛花ちゃんがすぐに距離を縮めてくる。
俺は頬を指で掻きつつ。
「ごめん。さっきはいきなり逃げちゃって……」
「そうですよ。いわばチュートリアル失敗したようなものですからね」
「うぐっ」
「でもま、私も相当ムカついてたので……少しホッとしましたが」
俺は眉間にシワを寄せると、彼女の言葉を反芻した。
「ホッとした?」
「はい。あのままだと、こう、グーって私の右ストレートが火を吹いてましたよ」
しゅっしゅっと自ら効果音を付けながら、シャドーを始める凛花ちゃん。
その仕草がおかしくて、つい笑ってしまう。凜花ちゃんは疑問符を立てると、小首を傾げた。
「なんですか先輩。私の顔になにかついてますか」
「いや、なんか凛花ちゃんが居てくれてよかったなって」
「え……」
俺のために怒ってくれる。それだけで、救われる部分はある。
一人で塞ぎこまなくていい。そう思わせてくれる。
「せ、先輩……そ、それってその……」
「あ、いや……深い意味はないっていうかっ」
「で、ですよね! 所詮、私なんて傷心中の先輩の気持ちにつけ込んで浮気相手を半ば強引に買って出て、先輩を傷つけた事への逆襲と一緒に、あわよくば先輩とイチャイチャできればいいなと画策する最低の腹黒女ですもんね!」
「卑下しすぎだよ! 腹黒とか、そんなこと思ってないから!」
矢継ぎ早につらつらと自らを蔑む凛花ちゃん。俺は身振り手振りを交えて、彼女の言を否定した。
現状における、俺と凛花ちゃんの関係は結構歪なものだ。
以前までは、親友の妹、その認識だった。それ以上でもそれ以下でもない。
だが今は、俺の仕返しに協力してくれるパートナー。浮気相手という体ではあるが、実際に浮気をしているかとなると、少し違う。
いっそ、付き合うなら付き合うとハッキリさせた方がいい。
それは分かっている。だが、愛里との関係は続いている現状で、その判断を取るのは誠実じゃない。寝取られた仕返しだとか、息巻いている俺が言えた義理じゃない事は分かっている。
ただ、それでも俺の気持ちに整理がついてから、凛花ちゃんと向き合う。それが俺にできる最大限の誠意だと思う。
凛花ちゃんは両手を胸の前で握りしめると、上目遣いで俺を見つめてきた。
「本当ですか。先輩、私のこと、腹黒とか思ってないですか」
「ああ。そんなこと思ってないよ」
「じゃあ、少しの間でいいのでぎゅってしてください」
「は? なんで?」
「だって先輩は私を浮気相手として都合良く使っているんですから、私にも都合のいい要求の一つや二ついいじゃないですか。いわゆる等価交換というヤツです」
「腹黒だ! 自分から浮気相手になるとか言っておいて対価求めてる!」
「私、自分の立場は最大限有効活用するタイプなんです。えへっ」
顎先に人差し指を置いて、ニコリと微笑む。
腹黒というか、小悪魔だなこの子……。
しかし、凛花ちゃんがこんな子だなんて全然知らなかった。
親友の妹というフィルター越しでしか、彼女のことを見ていなかった証拠だろうか。
凛花ちゃんは両腕を開くと、俺を迎え入れる準備をする。
どうやら拒否権はないらしい。カノジョ持ちの人間が、他の女の子とハグをする。これは浮気に値するのだろうか。
まぁどちらでもいいか。
向こうが先に浮気をしたんだ。文句を言われる筋合いはない。
そっと、凛花ちゃんの背中に手を回す。彼女の体温を身近に感じる。吐息が耳元をかすめた。
「私、今すごく幸せです」
「お、おう」
凛花ちゃんも、同様に俺の背中に手を回す。
子供をあやすように、優しくさすってきた。
「先輩は大丈夫です。私が居ます。私は絶対に先輩を悲しませたりしませんから」
「……っ。…………ありがと」
凛花ちゃんの言葉がポッカリと空いていた胸の隙間を埋めてくれる。
しばらくはこのまま、彼女の温もりを感じていたかった。