再会
異変に気づいたのは、夏祭りの日の当日、つまりは今日であった。
僕はいそいそと塾へ向かう準備をする素振りをしながら、まるで宝箱を開けるかのような気分で、引き出しの鍵を開き、取りだした貯金箱を開いた。そうして、自分の目を疑う。出てきたのは数枚の千円札と、あとは気持ち程度の小銭ばかりだった。確かに貯金箱の中に大切に大切に仕舞い込んでいたはずの一万円札が、失くなっていた。
頭に血がのぼる、という現象は、まさにあのことを言うのであろうと思う。突然の状況に混乱しつつも、突き上げてくる何かの衝動を抑えきれずに、恐らくは母が何らかの作業をしているであろう台所へと僕は勢いに任せて怒鳴り込んでいった。
「母さんっ! 僕のお金、勝手に出しただろう!?」
朝食の片付けをしていたらしい母親は、まるでわけがわからない、いった風な調子で以って、肩をいからせる僕をきょとんとした表情で振り返った。
「僕の、引き出しの、奥に仕舞ってあった貯金箱のお金だよっ。一万円!」
あまりの怒りの所為でか、がなる声が震えた。否、全身が小刻みに震えていた。止まらなかった。
「……ああ」
母親はやっと思い至ったかのように口の中だけで小さく呟き、それからこともあろうに、柔らかく、それは穏やかに、ゆっくりとした所作で以って微笑んでみせた。
「お母さん、びっくりしちゃった。あんたがあんなにお金を持っているなんて」
言葉も出なかった。あの引き出しには確かに鍵を掛けておいたはずなのに。それなのに、どうして、という疑問が無意味にも湧き上がる。それでも言葉にはならなかった。怒りや悲しみや虚しさなんかが一気に押し寄せてきて綯い交ぜになって、もう何がなんだかよく分からなくなってしまっていた。
目の前のこの女は、何故、こんなにも柔和に微笑っているのだろう。
「でもね、子供に大金を持たせておくのは非行のもとだって、塾の先生もおっしゃっていたでしょう。どうせならと思って、新しい参考書と問題集、たくさん買ってきたのよ」
「…………は?」
それはそれはとても楽しげな足取りで、隣の部屋から母親が手に持ってきたのは大きな紙袋であった。その中を覗き見れば、中には分厚い本類が一杯にぎっしりと詰められている。
「ほら。ね? これで夏休み、ちゃんと勉強できるでしょ」
にっこりと、優しげに笑った母親に対して、僕の裡の何かが大きく音を立てて弾けた。
「ふっ……ざけんな! 誰がそんなこと頼んだよ、僕のお金だぞ!」
母親は、どうしてそんなに僕が激昂しているのか、その理由がまるでわからない、といった顔である。
「え……。だって、お母さんがあげたお金でしょう。それに、ちゃんとあんたのために遣ってあげたじゃないの」
瞬間、頭が真っ白になった。
思い知る。僕が僕の物だと今まで思ってきていたものは、実のところすべて母親のものであったのだ。僕自身さえ、彼女にとっては彼女自身の所有物でしか、なかったのだ。
「…………もういい」
静かに吐き捨てた僕はその足で自分の部屋に駆け戻り、今現在手許にあるだけのすべての金を引き寄せた鞄へと乱暴に突っ込んだ。そうしてそのまま玄関まで一直線に疾走する。
「ちょっと、どこへ行くの」
「触るな!」
勢い良く玄関を飛び出して出て行こうとする僕の手首をすかさず母親が掴んだけれど、僕はそれを簡単に乱暴に振り払った。いとも容易く退いた母親のその腕が僕のそれよりもずっと細く頼りないものであることに、そのときになって初めて気がついた。
傷ついたような双眸と目が合う。
すべてを呑み込んで、そうして、家を飛び出した。
背中に母親の悲鳴のような、嗚咽のような、金切り声のようなものが聴こえた。けれど、僕はやはり振り返ることはしなかった。出来などしなかった。
駅に向かって全速力で疾走しながら、きつくきつく歯を食い縛る。僕は悪くない。異常なのは母親の方なのだ。あんなものは愛情なんかではない、あれはただの、妄執だ。自分に強く言い聞かせ続けたところで胸の内を占拠する虚しさは増幅していくばかりでしかなかったが、きっとそれで良かった。
「僕は、玩具じゃない…………っ」
だけど。
だけどつまらないんだ。勉強をしたって、良い成績を取ったって、本を読んだってゲームをしたって、何をしたって。とてもつまらない人間なのだ、僕はきっと。非力で、無力で、結局のところは母 親を心の底から否定する自信すらも持てやしない。
だから、逃げ出したのだ。
当然のように持ち合わせなどは知れたものでしかありはせず、無い金銭では普通乗車券くらいしか買えはしなかった。それもぎりぎり片道分のものだけだ。バスの代金が足りるかどうかと先を心配に思いながら、そこらでふと目についた簡易な売店で、既に三割引となっていた安価な菓子パンを幾つかと飲み物を買ってはそれらを頬張った。帰りのことなんて考えたくもなくて、だから考えないようにと出来る限りに努めていることにした。いざとなればどうとだってでもなる、などと、わざと楽観的に考えもした。半ば捨鉢でもあった。だってそうでもしていなければ、おかしくなってしまいそうだったからだ。
乗り込んだ列車の座席にやっとの思いで腰を落ち着けると、飽くまで一時凌ぎのようなものだとは理解出来ていても、やはりわずかばかりだが、それでも気分は大いに凪いだ。荷物を下ろし、腕置きに肘を掛けて頬杖をついて、車窓の向こう側に高速で流れ流れていく景色たちの移り変わりをぼんやりと眺めてみる。思っていたよりも案外、胸が躍ることはなかった。空しさは裡に膨らんだ。
ふと、何も考えずに無我夢中で鞄の中に詰め込みまくった荷物のひとつに母親の買い与えてきた参考書を見つけて、苦虫を噛み潰してしまったみたいな気持ちになる。だけれど同時に、自分の心の奥がどこかで酷く冷めていることも感じていた。家出も同然のごとくに飛び出してきたが、結局僕はまた、あの場所へ戻るのであろう。静けな塾の教室、無機質な人間関係、そして不気味なあの微笑みを絶やさない母親から与えられる堅牢な檻の囲いの中。世間一般に言う、いわゆる受験戦争といった抗争から逃れられるとは到底思ってなどいない。虚しいことにもどうせ僕には勉強をすることくらいしか、良い成績を取ってみせることくらいしか、能なんてまるで無いのだから。
随分と長いこと揺られていた気のするバスを降りると、辺りはもう既に薄暗く、遠くの空では珊瑚色と群青色との美しいグラデーションが山の端にかかってあった。
そのまま朧気な記憶を拙くも辿っていきつつ、降車した停留所からあの松林へと向かい、覚えてしまった一瞬の迷いをかぶりを振ってみせることで振り切ると僕はやけに重たい両足を一歩、一歩と片方ずつ踏み出し始める。そろそろ夏祭りが始まる時刻なのであろう、時折、浴衣姿の子供たちを見かけることがあった。胸の内を、鼻の奥をつんと突くかのようなあの感覚は、果たして感傷や感慨や、或いは懐古とか羨望とか嫉妬とかとそういった、そういう、綺麗なものものばかりが集められ占められている感情であったりするのかも知れなかった。
続々と公園に集まっていく人々の流れの隙間を縫うようにして、それらのまるで逆方向へと僕は歩みを進めていた。すれ違う老婆たちからは、他所者を見るかのごとくに、怪訝さや不快さを隠そうともせず顕わにさせた視線を投げつけられ、受けさせられた。三年前までは縁など無かったそれら扱いは、彼女たちがすっかり僕のことを忘れてしまったからであるのか、それともすっかり僕が変わり果ててしまったからであるのかは、僕にはとても判別しかねた。
しばらく無心に両の脚を動かすだけの作業のみに没頭していると、なにやらか、酷く慌てている様子のふたりの子供とすれ違った。まだ小学生なのであろう彼らは、法被を着込み、その顔面にはたっぷりとドーランを塗りつけていた。おそらくは八木節の囃子を行う子供たちであるのだろう。
どうにも懐かしさに感じ入り、ついついそれら思い出に浸ってしまいながらも改めて周囲を見回してみると、三年前とほとんど何もかもが変わっていないことに気がついて、驚く。広がる畑の周りを囲う手入れの行き届いているとはあまり言うことの出来ない垣根も、空き地の隅で固まって眠っている野良猫たちの丸まった背中の群れも、遠くに聴こえる風と虫たちとの協奏や漂う草木の青臭さ、どれもこれもすべて。すべてがあの頃のままであった。まだ小さな体躯には少々重くもあったランドセルを背負って元気いっぱいにそこら中を駆け回っていた、本当に、あの頃のままである。
なんだか急に喉の奥が熱く焼けるような感覚に襲われ、唐突に目頭の辺りが熱を持ったように感じたが、それには気づかないふりを貫き通した。
そうしてゆっくりと歩を進め続けること暫し、やがて辿り着いた松林も、やはりというかなんというか、なんら変わってなどいなかった。時を止めてしまっているようでさえあった。薄汚れ、微妙に斜めに傾いている『立ち入り禁止』の看板も、相変わらずである。僕はしばらくの間、棒っきれにでもなってしまったかのように、じいっと松林の前に突っ立っていた。辺りに人影はなく、清明さだけが周囲を包み、覆っているだけであった。遠く、夏祭りの行われているであろう公園の賑やかな音や声や光が洩れ伝わってきているだけだ。吹く風はわずかばかりか湿っぽかったが、夕立の匂いはしなかった。
怖いとか、気後れとか、そういった後悔みたい念を、覚えているわけではなかった。けれどどうしてかすぐには踏み入る気にならなくて、なれなくて、やはり僕は無言でいるままその場に佇んでいた。
しばらくして、唐突に気づいた。僕の心は無意識に、待っていたのだ。
ホタルを。
「…………来るわけ、ない」
思わず、呟いた。
「はは。来るわけ、ないじゃないか」
自分自身にきちんと真実を、現実の事実を、言い聞かせなくてはならないと、そう、思ったのだ。だけれど言葉の最後のほうはどうしたって掠れた。涙声になってしまいそうになることを堪える理由なんて、少なくともそのときの僕にはたったひとつ、唯一ひとつだけしか無かったのである。
三年前、約束した日だ。
だけどももうずっと、それはもうずっと長いこと連絡なんて取ってもいないし、現にホタルは待ってくれてなど居はしなかった。ここに着いたとき、なんとなく――本当になんとなく物寂しい気分になったのだけれど、それは僕がここにホタルの姿をわずかばかりでも期待していたからかも知れない。けれど、居ないものは居ないのだ。来ないものは、来ないのだ。
僕は携帯電話の照明機能を起動させると、奥のほうの暗がりを照らしていきながら、松林の暗闇へとようやく一歩を踏み出した。
今頃、母親はどうしているだろうか――、ふとそんな思考が脳内を不意に駆け巡る。こんなところまで出奔して尚、それでもどうしたって思い出させくれるだなんて、まったくもって本当に、迷惑極まりない話である。幸いにも尚早に気づいてすぐに携帯電話の着信を拒否に設定してあったために、取り立てた連絡は当然ながら、入ってきてはいなかった。それでも警察や学校に届け出ていたら大変に面倒なことだ。勿論、可能性なら大いにある。半狂乱になって騒ぎ立てている母親と、煩わしそうにその相手をする警察官や担任教諭の姿が目に浮かんだ。警察と教師には、メンドウヲカケテシマッテゴメンナサイ、と、素直に済まなく感じた。あの母親の、それもあの状態である彼女の相手をするというのは、並大抵の労力を要することではない。
母は、気づくだろうか。『お子さんがどこへ行かれたか分かりますか。親しい友人はおられましたか』とか何とかと訊かれて、自分の息子のことをあまりにも何も知らなかった自分に、気づいてくれることが果たしてあるのであろうか。自分の子供が、友達のひとりもいない、莫迦みたいに矮小で卑屈でくだらない、ひどくつまらない人間だったのだということに。
気づいてくれればいい。
気づかせてやりたかった。
僕に友達はいない。それはもう、たったのひとりたりともである。本当にそう呼べる人など、もう、一生出来ないかも知れない。それでも生きていくことは辛うじて出来るのだ。多分きっと、あの母親のような、あんな風な生き方で。それは、とても、気分の悪くなる将来への見通しであった。
感情がマイナスの方向へ段々と沈んでいくのをしっかりと感じつつもぼうっと考えながら、それでも歩みだけは途絶えさせず続けていると、気づけばもう、あの鳥居の目の前にまで僕は来ていた。着いたその奥には件の松並木が続いている。そこは更に冷たく暗い世界のように見えた。
あの頃見仰いだときよりも少しだけ古ぼけたように見て取れる鳥居をすぐ眼前に、どうしても暫し躊躇する。やはり、あの松たちの一本一本が首塚だったのだろうかと考えてしまうと、改めてどうしたって、どうにも気軽には入って行ってはならない気がした。
出て来られなくなったりはしないのだろうか、だなんて、不穏な考えが脳裏を過ぎっていく。現在、僕がここに来て存在しているということを知っている人間は、今は誰も居はしないのだ。たとえばここで僕が何らかの事故や危機に直面してしまったとして、誰も助けには来てくれやしない。つまりはそういうことである。
自分の思考に自分で後込みしつつ、やはり男は度胸だ、と、半ばでもなんでもなく無理矢理に自身を奮い立たせては、勢い良く顔を上げた。たとえばホタルであったなら絶対に躊躇わないのであろうと思えば、厭でも負けん気だって起こるというものだ。
そうして、気合いを入れ直して勇み、松林の中へと一歩、踏み込んだそのときであった。
「――――ワッ」
「ぎゃあああーっ!?」
すぐ背後から突然に大声が掛かってきて、僕はみっともなく悲鳴を上げつつ、危うく腰を抜かしかけてしまった。恐る恐る目線だけを上げ窺い見てみれば、鳥居の柱の陰にぽつりとひとつ、座り込んでいるような恰好をした人影があるようである。
何だ。誰だ。一体なにが起こったのだろうか。
情けなくも、僕は尻餅をついたままの恰好で後ろへとあとずさっていく。すると、その人影はなんだかいやに楽しそうにくすくすと、喉の奥を転がすような笑い方をしながら、やけに柔らかい動作で以って立ち上がった。その独特に柔和な笑い声には不思議と不快感を覚えることはなく、そうして驚くことに、妙に耳心地の好いそれにはとてもはっきりと聴き覚えがあったのであった。
「ごめん、ごめん。そんなにびっくりされるとは、思わなかったんだ」
「な、何だよ、こっち来るなよ!」
僕はまるで話など聞いている余裕など無くていて、そいつが近寄って来ることにただひたすら怯えていた。しかし先程の衝撃に因るものなのか、腰に力が入りにくい所為で逃げ出してしまうこともままならない。
「あれれぇ、もう、酷いなー。わたしのこと、忘れちゃった?」
「………………あ…………?」
人影は、僕が驚いた拍子に放り投げた携帯電話を拾うと、えらく緩慢な仕種でそれをこちらへと向かって差し出してきた。思いの外しなやかに細いその手先に再度わずかな驚きを僕は隠しきれずにいながら、怖々といった様相でそれを受け取り、上手く動いてくれない指先にもどかしさを感じながらもなんとかライトを点けることに成功する。
弱々しいLEDの光の中に浮かび上がった少女の顔にはしっかりと確かに、よく見知った面影があった。
「……お前……ホタル、か?」
「久しぶりだね。約束どおり、三年振りだ」
穏和に微笑む綺麗な少女が、そこに立っていた。
当然ながら、僕の記憶の中の彼女よりもずっと身長は伸びていて、体つきも以前に較べよりそれらしくなっている、大人びた雰囲気を醸し出すホタルがそこには居た。元々がすっきりとした利発そうな面立ちであったためか、妙に意識をしてしまうくらいには、可愛らしい、というよりは寧ろ年齢不相応な具合に美しい、と表現したほうが適切であるかのような成長を遂げた姿をしたホタルの片足がまた一歩分、じゃり、と土を踏む音を立てつつも僕の方へと近寄ってくる。胸の辺りにまで真っ直ぐに伸ばされ、随分と長くなったように思える緑の黒髪がより一層その容姿の端整さを際立たせていた。たおやかにその円らな眸を細めて小さく小首を傾ぐようにするその独特の笑い方は、それでもあの頃からちっとも変わってなどいない。
「立てる?」
「あ、ああ、うん」
物腰柔らかなのはそのままに、若干心配そうにして表情を窺い覗き込んでくるホタルに対して僕は応えると、なんとか足腰に力を入れることに集中させてどうにか立ち上がった。しかし、未だに膝下の辺りが細かく震えているし、心臓もうるさく暴れている。
「お前……こんなところで、何してるんだ」
「きみを待ってた」
混乱し切った頭で、それでもなんとか絞り出した質問は、なんだか本当に間抜けそのものであった。けれど僕に訊ねられたホタルははっきりと、相変わらずの明瞭かつ清明な声音で応えた。その返答に僕はますます混乱を深くするほかなかった。
「……僕のことを、待っていた?」
「うん。だって、あのタイムカプセル、掘り返す約束だったでしょ?」
微笑むホタルはおどけた風に肩を竦めてみせ、「日付、今日で合っていたよね」だなんて、真っ直ぐに僕を見つめながら茶化すように言った。
様々な感情や科白や疑問やなんかが頭の中を占め、ぐるぐると、ぐちゃぐちゃと掻き回した。なんだよ、僕のことなんて、今日の約束の忘れていたんじゃなかったのかよ、と、口にしようとして開いた唇は予想外に震えていて結局のところ声にはならなかった。それでも脳内では次から次へと疑問が、疑念が湧いては溢れて出て来続ける。僕を待っていた、と言った。ホタルは、来るかもまるで解らない、僕のことを待っていた、と。約束をしたからだと。そう、あまりにも変わらない柔和な口調で、告げたのであった。
僕は息を吸い込み、溢れ出てきそうになる文句をなんとか飲み込んだ。言いたいことなら、実際のところ、山程にあったのだ。それでも言葉にはしなかった。出来なかったと表現した方が適切かも知れない。
浴びせたい言葉ならどれだけだって、それこそ切れ間も絶え間も無く続けてやれる自信があった。他に言うことはないのかよ、と、訊きたかった。三年間もずっと音信不通だったくせをして、今更まだ友達だなんて、そんなまるで当然のような顔をして言う気なのかよ、と、吐きつけたかった。なんで、どうしてそんな当たり前みたいに笑い、笑っているんだよ、と、非難めいた調子で畳み掛けてやりたかった。目一杯、力一杯に、糾弾してやりたかった。全部、全部全部、結局のところ口には出すことなんて、とうとう僕には出来なかった。
だってホタルは僕の眼前で今、たった今、たおやかに微笑んでいるのだ。僕が信じていた笑顔、それ、そのままで。
「……セーラー服、似合ってないな」
ぽつりと口をついて出てきていたのは結果として、まったく巡らせていた思考とは何ら関係のない悪態の言葉であった。
再度視線だけで見上げたホタルは、半袖のセーラー襟をあしらったシャツにきちんと形を整えられた臙脂色のスカーフを携えていて、濃紺のプリーツスカートはきっちりと切っても折ってもいないのが分かるように、膝丈ぴったりにまであった。なんだか清潔感があって、気取っていない清らかな雰囲気が、いかにもホタルらしかった。
「あれ、そうかな。きみの学校も学ラン? それともブレザー?」
「どっちだっていいだろ」
制服のことを、学校に関連する事柄を言われたり聞かされたりするのは、塾の奴らの陰口や、そうしてあの母親のことを厭でも僕に思い出させた。とてもくだらないことなのだけれど、分かってはいてもつい思わず、冷たい口調で以って返してしまった。ホタルは目を円くし、それから少し眉を下げて、心なしかほんのわずかだけ淋しそうにその涼しげな目許を緩ませ、やんわりと微笑った。
「うん。別に、どっちだっていいけど。ただちょっと、ね。きみの制服姿が見てみたかったな、なんて、思っちゃっただけだったんだ」
ふいに僕は片眉を顰めた。三年前から相も変わらず、ホタルはにこにこと温和に微笑している。それが不思議だった。僕がどんなに冷たく接しても、厭味を言っても、ホタルは柳に風という調子で受け流してしまえるようであった。
どうしてそんなに、大らかに笑っていられるのだろうかと、苛立ちにも似た疑問が湧いて出る。
「じゃあ、祠のほうへ行こうか」
至極楽しげに、軽い足取りでホタルは歩き出す。その後ろを、僕は少し距離を取るようにしてついていった。ふと、一本目の首塚の松が目に入る。逆側には二本目。その先には三本目、向かいに四本目。
数えるつもりなどなかった。けれど注連縄の引かれた松は、自然と僕の視線を吸い寄せた。それには気づいていないのか、ホタルは五本目の松にふらりと近寄っていって、そっと手を触れた。そのまま静かに口を開く。その所作は酷く緩慢に見えて、何故だか僕は呆然とその口唇の動きを目で追っていた。
「……ねえ、知ってる? 蛍ってさ、死んだ人の魂なんだって」
「は?」
突拍子もない話である。くるりと軽やかな動作で僕のことを振り返ったホタルの笑顔は、なんだか心持ち嬉しそうにも見えた。
「この松林って、人魂が出るっていうでしょう。それって、もしかしたらただの蛍なのかも、って思っただけ」
「……脇の川から迷い込んできた?」
「周りは田圃だらけだし。有り得ない話じゃないと思わない?」
「まあ、な」
「それとも……――」
ホタルはふと、目を細めた。そこからはどんな感情をも読み取ることが出来なかった。
「わたしたちが蛍だと思って眺めていた光の中のいくつかは、実は、誰かの魂だったのかな」
訝しむような僕の視線に気がついてか、「なーんてねっ」なんて言ってらしくもなく口調を一転させると、ぱっと表情を明るく転がしたホタルは楽しげな様子で、再度口を開いた。
「きみの住む街にも、蛍はいる?」
「いねえよ。いるわけないだろ」
素気無く答えると、ホタルは「そっか」と、ほんのわずかだけ残念そうな表情の翳りを見せた。それに僕が気づいて声をかけようかどうしようかと迷うよりも早く、それからまた、鼻歌でも歌うかのような軽やかな足取りで迷いもなさそうにホタルはすたすたと歩き出す。その後ろ姿をお居ながらも、目線は松の木の本数を自然と数えてしまっていた。
六本目、七本目、八本目。
「……この辺りにはまだ、いるのか? 蛍」
「うーん。どうだろう。きっといると思うけど」
着々と前進させる足をホタルはけして止めることはせずに、少しばかりの苦笑を含んで、そう僕の質問に答える。そんなホタルの華奢な背中を、背後から僕はじとりと睨んだ。わけもわからず、けれどなんだか妙に苛ついてきていた。僕の悪意に満ち満ちた言動をさらりと躱してみせるホタルの、昔と変わらなさ過ぎる笑みの、その優柔さに。酷く居心地が悪くあった。
九本目、十本目。
「お前ってさ……全然、変わってないんだな」
「え?」
歩調は変えないまま、ホタルは目を円くして僕のほうを振り返る。
「休みの日とかさ、何をしてるんだ? こんな田舎で。遊ぶところなんかないだろ。それともやっぱり、おまえも塾でオベンキョーしてるのか?」
「……わたしのことよりさ、きみの話が聞きたいな」
やはりにこりと柔く笑んで、それからホタルはそう言う。返答に少々の間があったことが少しだけ気に掛かったのだが、敢えて口にはしないでいようと思った。
「それに、きみだって少しも変わっていないじゃない。昔のままだ」
言われて、僕は思わず進めていた足を止めた。そして今度こそ、誤魔化しを許さないくらいにホタルのくるりとした双眸を目一杯に力強く睨みつけた。
「何、言ってんだよ……お前の眼ェ、腐ってんじゃねーの?」
喉の奥から必死で絞り出すかのような、そんな僕の苦しげであるとも取れる声色に、言葉に、それまで飄々とした態度を貫き徹していたホタルも終ぞ、その歩みを止めてぴたりとその場に立ち止まる。振り返って僕を見る、その仕草は酷く緩やかに徐であった。
「それとも、頭沸いてんのか?」
僕はいつの間にやら強く拳を握り締めていて、身体の奥からせり上がってくる憤怒にも似た衝動に身を委せるままに怒鳴った。
「へらへらへらへら笑いやがって、気色悪いんだよ!」
僕のことを振り返るホタルの表情はやはり、凛と涼しげであって、それがより一層僕のそんなマイナスめいた情動を揺さぶり動かした。
「僕が変わってない? 変わってないだと? 毎日毎日毎日、塾に缶詰にされて、受験受験で他人を蹴落とすことばかりを教え込まれて! 友達だと思える奴もいない、何も楽しくない。腐った街の中で僕は、こんなつまらない人間に成り下がったのに」
笑い損ねたように口角が吊り上がり、頬の辺りが歪む。
「僕の話が聞きたいなら教えてやるよ。今、僕は公立の中学校に通ってる。それも、『落ちこぼれ』の公立中学だ。マンション中のババアどもに莫迦にされて、母さんはおかしくなっちまった。僕のことを少しでも偏差値の高い高校に入れようと躍起になって、まるで鬼みたいになってさ。少しでも思い通りにならなければ、泣き喚くんだぜ? 僕に縋って、僕の取ってくる成績だけが生き甲斐みたいな眸で! 僕はっ…………」
そこで一旦、言葉尻が窄んでしまった。息が切れて、喉をついて出た声音はみっともなく、酷く弱々しかった。
「母親の、操り人形なんだよ……僕は。…………勉強して、模試や試験で良い成績を取ることだけが、それだけが、僕の存在理由、なんだ」
どうして僕は、こんなくだらないことをホタルに向かって言って聞かせているのだろうかと、そう、頭の隅のほうでわずかに残っていた理性を以てして自問した。答えは出なかった。こんなの、こんなこと、彼女に言ったって誰に言ったって、言ってみたところで、仕方がないというのに、そんなことは十分過ぎる程に分かっているというのに、だけれど唇の動きは意に反して止まらない。
喉の奥がぎちぎちと厭に痛んで、声は情けなく震えた。
「僕は…………そんなことのために生まれてきたのか? 生きるって、そういうことなのか? 母さんの望みを満たすために、僕が犠牲にならなきゃいけないのかよ……っ」
黙ったままのホタルの双眸は真摯に真っ直ぐだ。その先には、情けなく両の肩を小刻みに震わせている僕の姿があった。
「ほっ――ほ、本当は、もう嫌なんだ! 期待されるのも、それに応えようとするのも! おかしいだろ、理想押しつけて、それが上手くいかなかったらまるで自分が被害者にでもなったみたいに僕のことを責める、あんな母親!」
息をするのが苦しかった。一気に喋り続けすぎた所為か、脳に酸素がいまいち回っていっていないことが分かる。
「――……最低だっ!」
力一杯に吐き捨てるかのごとくに、僕は叫んだ。いつの間にか両の手はしっかりと強く強く握り締められていて、手のひらに爪が食い込むのが痛かった。息をするのが苦しかった。吐き出せば、幾許かだけであっても今よりは楽になれるものかと、頭の隅のどこかで考えていた。その考えがいかに楽観的なものであったのかということも、思い知らされてしまった。吐露した想いはそのまま苦痛となって、こちら側へと跳ね返ってきた。
「……でも、可哀想なんでしょう?」
苦しげに息を整える僕の呼吸音が響く閑寂の中で次に響いたのは、澄んだ、柔らかな流水のような声色であった。視線を少しだけ上げて見てみれば、そこには僕を真っ直ぐに見つめ続けていてくれている、清らかでいて静謐なホタルのふたつの眸が在った。
「きみは、そんなお母さんのこと、可哀想だと思っているんでしょう。幾ら最低だと思っても、自分に縋ってくる自分の母親の姿はとても憐れだ」
逸らせずにいる目を僕は見開いたままでいると、そんな僕の表情から果たしてどんな感情を読み取ったのかは知れないが、ホタルはにこりと笑った。だから見捨てられない。微笑んだままに、そう、続けて告げた。
「ねえ。きみは多分、きみが思っている以上にきっと、優しい人だよ」
「…………そんな、こと、は」
「きみはね。きみは、けしてつまらない人間なんかじゃあ、ない」
穏やかなホタルの言葉は、酷く素直に僕の心の内側へと触れた。傷ついたところをそうっと撫で、まるで泣きじゃくる幼子のような僕の気持ちを優しくあやしてくれてでもいるかのようであった。
「……嘘だ…………」
いからせたままの肩で息をする。胸が苦しくて、咽喉の奥が熱くて、涙が滲んだ。
「嘘だろ……だって僕は、勉強が少しできることくらいしか取り柄がなくて……母さんのためにって思って頑張れば頑張るほど、友達、出来なくて」
分からなくなって、と、続けた声音は自分でも意外なくらいに弱々しく響くものであった。
「あいつらだって、僕のこと敵みたいに見て、嫌うのに」
刻一刻日々淡々と、過ぎてゆく日常は欺瞞に満ち溢れていて、そこら中がもう既に腐敗し掛けていて、他人を蹴落とさなければ自分自身がやられてしまう、所詮はそんな程度の世界でしか、ないのである。すべてはくだらなくて、僕だって勿論くだらない人間なのだ。だからそんなくだらない人間に対し友達になろうと近づいてきた奴らさえ、信じられなくて、突き放してきた。
「こんな僕に、価値なんて、あるのか」
僕は零れた涙を拭うこともせずに、濡れた視線のままにホタルのほうを振り仰いだ。
「人間の価値ってなんだ? 僕は何のために生まれたんだ?」
「……そんなの、本当のところは、誰にもわからないよ。わたしにだって分からない」
少しだけ首を傾げて微笑みながら、ホタルは僕にまた、少しだけ歩み寄ってきた。
「でも、きみに価値があるのかと訊かれたら、わたしは絶対にあると答える。少なくとも、わたしにとっては、絶対にある」
紡がれたその言葉は確固とした意志の感じさせられるような、凛とした声色であった。激昂に委せ泣き喚き、流した涙の所為でぐちゃぐちゃのぼろぼろになっているであろう僕の顔を覗き込み、まるで嘘のないとわかるような眸をゆっくりと細めて微笑む。
「だって、きみがいなかったら、わたしはとっても困ってしまうよ。きみと出逢わなかったわたしは、そんなのはわたしじゃないもの。それじゃあ、だめ?」
おそらく僕は、酷く幼い顔をしていたと思う。迷子になって、悲しくて寂しくて心細くて泣いていた小さな子供が、温かな誰かの温かな手のひらを差し伸べてもらえた、そんなときのような。
「人間の価値なんて、色々で良いんじゃあないかな。だから、等しいものではないかもしれない。ただ、本当に価値がないなら、最初から生まれてこないんじゃないかと思うよ」
「どうせ死ぬのに?」
ホタルはじっと僕のほうを見つめて、それからまた柔らかく、その眸を細めた。
「……きみは、蛍、好きだったでしょう」
懐かしむような、穏やかな眸だった。
「どうせ次の日には死んじゃうってわかっていたのに、飽きずにつかまえて眺めていたね。きれいだ、って、幸せそうな顔して」
見上げた夜空にはかすかな月明かりが朧気に浮かんでいて、それを見仰ぎながら、わたしはきみのそういう顔を眺めているのが好きだったんだ、と、少し照れくさそうな横顔でホタルはか細く呟いた。そうしてこちらを振り向き、にこにことしているホタルへ対し向き直ると、僕はぶすっとしたままに涙を拭った。
「……人の泣き顔を遠慮なく見るなよ、莫迦」
「うん? ふふ。ごめんね」
いっそ嬉しそうとも見える生ざしをこちらに向けて、相変わらずホタルは笑っている。
「じゃあ、先に進もうか」
ホタルの後ろを歩きながら、僕は妙にすっきりした心地であった。
泣いたのなんて、一体いつ振りのことだったことだろうと思う。随分と久しいことのような気がした。それでも多分、僕はずっと、泣きたかったのだ。泣きながら怒って、憤って、何かに、誰かに、何処かにこの気持ちを思い切りぶつけたかった。聞いて、欲しかった。けれど、そんな相手もいなくて――迷子になっていたのだ。まるでそれは、幼い子供のようにして。
暗がりを、ホタルは相も変わらず軽い足取りで進んでいく。僕が後ろからライトで照らしているのだけれど、そんなものの必要なんてないくらいに、それは迷いのないものであった。楽しそうに、鼻歌なんか歌って――これは一体なんの歌だったろう、なんだか懐かしいメロディラインである。
十五本目、十六本目。
「ホタルってさ…………」
「なに?」
きらきらと弾むような眸で振り返られて、僕はなんとなく決まりが悪くなってしまい、ついつい目線を泳がせた。
「お前って、いっつも、そうやって笑ってるよな。何やっても、楽しそうに」
「そうかな?」
「そうだよ」
泳がせた僕の目が、無意識的に松の木の本数を数える。十七本目、十八本目。
たぶん、おそらく、僕の今の気持ちはけして恥ずかしいものではないのだ。だからホタルの黒目がちな相貌をしっかりと真っ直ぐに見つめ、真面目に告げたい言葉をそのままに告げた。
「僕も……お前みたいになりたい」
声が、震えそうになるのを賢明に誤魔化そうとしたけれど、きっとそれは叶わなかった。
「ちゃんとした、普通の笑い方、思い出したい。なんだか、勿体無い気がするから」
ホタルは足を止めず、だけれど無言でふっと、表情を綻ばせる。その仕種はまるであの頃のままであり、僕は懐かしさを覚えたら良いのか切なさを覚えたら良いのか、果たしてどうしたら良いのかがよく分からなくなってしまった。
「わたしだって、いつも笑っているわけじゃないよ。人間はひとりじゃ笑えないんだから。わたしが笑うのはね、きみがいるからだよ。……いつだって、そうだったんだよ」
僕は思わず眸を円くする。それから、自分の頬がゆっくりと緩んでいくのを感じた。
「……まったく、恥ずかしいことを平然と言ってのけるよなあ……お前はさ……――」
気の抜けたような、情けない笑い顔になっていたと思う。
心が温かい。忘れていたけれど、僕にだってこの感情はあったのだ。何かを楽しく思ったり、嬉しく感じたり、そういった幸福なものものに満ち足りることが当然出来たのだったし、きっと、出来ているべきであったのだ。生まれてきて良かったと、心底、実感出来る瞬間は確かにこの胸の裡に在った。
「お前って、やっぱりすごい奴だよ」
「どうして?」
「教えない」
僕はくつくつと、喉の奥を鳴らすみたいにして笑った。きょとんとしたホタルは不思議そうな表情をしていたが、今日再会してからこっち初めて見せたであろう心の底から本当の僕の笑顔に満足したのか、やはり嬉しそうに、釣られるようにして、その顔を綻ばせた。それを目にして僕の心は緩やかに、緩やかにだけれど確実に、あたたまっていくようであった。
足場の悪い道ともつかない道の上を、伸びっ放しの雑草たちを掻き分けつつ、真っ暗な雑木林の中で僕たちは横並びになって歩いた。距離が近いため、すぐ隣を歩くホタルの手の甲が時々僕の手や腕へと掠めるように触れる。その都度小さく心臓が小躍りをした。体温の低さがかえって心地好くあり、同時に、まったくそういった意識をされていないのであろうことに若干の不満やなんかを覚えつつ、それでも僕はその瞬間確かに、幸福であったのだった。時折懐かしい話題をどちらからともなく振っては、どちらからともなく笑い合いながら、着々とその四本の脚たちは松並木を奥へ奥へと進んでいく。なんでもないような、けれどとても胸の弾む会話をホタルと交わしながらも、意識的にであろうかそれとも無意識的にであろうか、僕の目はやはりずっと、獣道の両脇に絶えず聳えている松を数えていっていた。
二十本目、二十一本目。
「あ、見えた、祠だ。埋めたのはあの脇だったよね、ちゃんと埋まってるかな」
「ああ……」
珍しく、小さな子供のごとくにわくわくしているような様子のホタルの隣で、僕の胸は妙にざわめくことを始め出していた。両脇の松の木の上から、なにか、見下ろされているような、そんな奇妙な心地がするのだ。勿論、ただの気の所為かも知れなかった。不快極まりない、不気味な視線。厭な予感は確かにしていた。
二十二本目、二十三本目。
瞬間、駄目だ、と、そう感じた。松の木の本数をけして数えてはならない。数えるな、数えてはいけない、と、僕の裡のどこかが頻りに警鐘を掻き鳴らしている。耳許で心臓がどくどくと不吉に高鳴る音が酷くうるさかった。だけれど、どうしても、目線は聳える松たちのほうへとまるで引っ張られているかのごとく引かれてしまう。二十四本目――駄目だ――二十、五本目――――唖然とした。
そうして僕は立ち尽くした。
二十六本目の、松の木の、目の前で。
「……ホタル…………」
「ん、どうかした?」
「……三年前にここへ来たとき、……確か……松は、全部で二十五本だったよな…………?」
呆然とした様相で最後の、二十六本目の松を愕然と見つめて続けている僕に、これまた珍しくホタルは神妙な顔つきをしてみせ、そうして変に押し黙ってはぐっと生唾を呑み込んだ。いつだって真っ直ぐに僕のことを見つめる双眸が、ほんのわずかだが、ちらりと逸らされる。それから、そうっと静かに、ホタルはその口を開いた。
「そうだったっけ」
発されたのはおどけたような、何かを誤魔化すような、そんなわざと巫山戯たみたいな声で茶化しにかかった。まるでホタルらしくない。憤りを感じつつも、ここで奇妙な反応を見せるホタルに対していきり立ったところで何の得策にも解決策にもならないことくらいは解せないほどに僕は莫迦な人間ではないつもりであったので、瞬間的に大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら、努めて穏和な口調で以ってホタルの茶化しに真っ向から真面目に応えてみせる。
「そうだったよ、間違いない。ふたりで数えただろう。僕、よく覚えてる。……なのに」
両脚はよろめくようにして、そのまま一歩後ずさる。それなのに、と、呟いた声はもはや声になどなっていないくらいに、掠れて消えかけていた。眸は眼前に聳え立つ松の木に釘付けにされたまま、逸らすことすらも出来ずにいる。背筋を悪寒が撫ぜていき、滲み出る厭な汗が伝った。
「……二十六本、ある…………!」
驚愕に声を震わす僕のことを、場違いなほどに相変わらずの飄々とした表情のままに横目でちらりと一瞥すると、それからホタルもじっとその松に見入っていた。それから酷くゆっくりとした動きで視線を僕へと移して、穏やかに、それはもう柔らかに、にこりと微笑んでみせたのである。
「大丈夫」
「え?」
反射的に短音だけ返せば、だいじょうぶだよ、と、まるで小さな子供でも宥め賺し諭すような調子でホタルはそう繰り返した。正直な本当の気持ちとして、そのときの僕にとって、そんなホタルの全身から醸し出されるあまりに場に似つかわしくなど感じられない優柔さや安穏さといったっ綺麗過ぎる雰囲気のようなものが、どうにも怖いもののように思えてしまって仕方が無かった。
「きっと、きみの数え間違いだよ。こんなに暗いんだもの、一本くらい間違えたっておかしくない。そんなに怯えることじゃないでしょ?」
「そう、……かな」
「そうだよ。――だから、ね、そんなこと気にしてないで。さあ、タイムカプセルを掘り起こそう」
「あ、ああ……」
あっさりとそう告げると、本当にその言葉の通りにさっさと祠の脇のほうへ歩いて行ってしまおうとするホタルを追いかけながら、僕は二十六本目の松の木を一度だけ、ちらりと振り返った。やはりその松は、そこに静かに聳えていた。大概にも間抜けなことに、僕もホタルもスコップを持参してきてはいなかったために、タイムカプセルを掘り返すのには予想外に酷く労力を使う破目になってしまった。そんな自分たちの浅墓さを、僕たちはふたり揃って、顔を見合わせると少しだけ笑った。
「なんで持ってこなかったんだよ、スコップ」
「きみだってそうでしょ」
笑い合いながらも、文句を言っては軽口を叩き合いつつも、手近な場所にある大きめの石や木の枝、それから自分たちの手指を使って、ざくざくと土を掘っていく。そんなに深く埋めてはいなかったはずであったし、幸いなことにここら一帯の土は軟らかい質であるから、それなりにはなんとかなるだろうと、そういう楽観的な思いがあった。
「大体ホタルは、ライトも持ってきてないじゃんか。僕の携帯があったから良かったものの」
「それは……つい、うっかりさ」
「ていうか、お前、携帯も持ってないのか」
「うん。持っていないよ」
「ふうん」
少しだけその双眸に輝きの光を湛えたホタルは僕のほうを仰ぎ見てみると、小さくちょこんと小首を傾いでみせる。
「ねえ、やっぱり便利なの? 携帯電話って」
「……別に……僕は大して使ってないから。持ってないと不便かもしれないけれど、持っていたらいたで煩わしいよ」
「ふうん? そうなんだ……っと。あ、何かある」
硬い質の、カツン、という小さな音がした。紛れもなくそれは金属音であり、僕たちは顔を見合わせると一気にそれを掘り出しにかかった。
「これだ」
「うん。うわ、なんか緊張してきたね」
手や腕や顔面までもを土まみれにしながら、やっとふたつの缶が土の中から掘り起こされ出てきたことに、僕たちふたりは喜色を隠せないでいた。
「せーの、で開けようぜ」
「いいよ」
「よし。いくよ。…………せーの!」
「せーのっ!」
ふたり分の掛け声が、一斉に、清澄な雑木林の中で谺した。
缶の蓋を思い切り力を込めて開くと、その中には小学生の頃にコレクションしていたカードたちがぎちぎちに詰め入れられていた。わかってはいたが、我ながら子供っぽい趣味だったことである。少しばかり情けなく感じつつも、その感情が不快なわけではけしてなかった。
「これ、今売ったらプレミアとかつかないかなー」
さすがに辺り一面暗すぎて、缶の奥のほうまではよく見ることが出来ず、無造作にポケットへ突っ込んでいた携帯電話を取り出すとそのライトを僕が点けようと操作をし掛けた、まさにそのときだった。
「――――いけない!」
「わっ!?」
突然、横から細い腕が伸びてきたかと思うと、その手のひらで僕の二の腕辺りを掴んだホタルは乱暴に僕のことを引っ張って、自身のほうへと引き寄せるようにした。
「な、何だよ?」
「しっ。静かに。……明かりを消して。絶対に点けないで、隠れて」
「……は?」
先程までのそれとは打って変わって苦しそうな表情をしたホタルはそそくさとその身を草むらの陰に縮こまらせ、そのままの体勢で松並木のほうを疑り深い様相で窺うように見遣った。
「誰か、来る…………。――……う、あっ、……あいつ、だ」
それはまるで喉の奥から絞り出されているかのような、聴いているこちらにまでその苦痛が伝わってきそうなほどの苦渋に満ちた声音であった。そんな恐怖に震えるホタルの声を聴いたのも、こんなに何かに対しての怯懦を顕わにするするホタルの様子を見たのも僕はおそらくこのときが初めてのことであり、強い力でホタルに身体を抑え押されるまま気圧されるままに、促されたとおり僕は口を固く噤んだ。掘り返した缶は両腕で大切に抱えつつ、そのままホタルのやけに冷えきった手に手を引かれながら、祠の裏のほうへと移動する。
「ホタル。ホタル、大丈夫か? どこか具合でも悪いのか」
一瞬だけ触れてみたホタルの背中はやはりいやに冷たく、怯えているかのごとく小刻みに震えていて、冷や汗をかいているようだった。
「わたしは、平気……。…………お願い、だから、……静かに」
呼吸をするのも苦しそうな途切れ途切れの喋り方にはまるで覇気などありはせず、とてもではないが言うとおりに平気そうだなんて、そんな様子ではまるでなかった。湿った地べたに膝をつき、相変わらず息苦しそうにしながら、ホタルは祠にその身体を寄り掛からせた。
「ホタル」
「触らないで!」
何をどうしていいのかがまったく分からないままに、とりあえずは背中でもさすってやろうと僕が腕を伸ばすと、過剰とも言えるほどの機敏さでさっとその身を退かれ、手の甲でぴしゃりと手のひらを撥ね退けられた。もう一度、今度は噛んで含めるように、わたしに触らないで、とホタルが繰り返した。
「ごめん、ごめんね。……でも、わたしに、触らないで……お願い、お願いだよ…………まだ」
顔色を真っ青にしたホタルは酷く怯えたように、自分の身をぎゅうっと強く抱き締め、汗だか涙だかよく判らないものでその頬をぐしゃぐしゃに濡らしてしまっていた。
「……どうしたんだよ、ホタル。どこか苦しいのか?」
「静かにして。気づかれる。危ない、……から…………!」
もうまったくわけなどわからなかったが、あまりに尋常ではない必死なそのホタルの様子に、情けなくも僕はホタルから言われるとおりのことをするほかなかった。とにかく押し黙り、ホタルの隣に密着するようにして座り込む。相変わらずホタルはとてもつらそうにしていたが、それでも小さな声で、ありがとう、と呟いた。声はかすかに震えを帯びていたけれども、そこから汲み取れる僕へ対しての安心感や信頼感といったような感情に、不謹慎だとは理解していつつも少しばかり、嬉しさを覚えた。
しばらくそのままで居ていると、確かに誰かの、人らしい気配が近づいてきた。何か、小さな動物が鳴くみたいなか細い声と、それからじゃりじゃりと土を踏み締める、足音。音の重さや間隔から推測してみたところを言うと、それは成人した男性のもののようであった。
「……なんだ…………?」
僕が祠からこっそりと顔を出して、音の近づいてくる方向を窺ってみようとすると、弱々しい力でホタルに袖を引っ張られ、それを頑なに止められる。小さく頭を左右に振ってみせるホタルの眸には、暗がりでも分かるくらいの水分がたっぷりと溜められていた。それを飽くまでも自身の内側だけに留まらせようと口唇を噛む仕種は見ていて痛々しく、それでもそれは精一杯の、譲ることなど出来ないホタルの意地なのであろう。そんなホタルの様子に罪悪感を覚えながらも、その手のひらを僕はやんわり、「ちょっとだけだから」と振り払って、松並木のほうをそうっと覗いた。
ゆらゆらと揺れる、小さな光がある。一瞬ぐっと息を呑んだが、人魂の類ではないようであった。生きた人間がぶら下げている、汎用的なライトの光だ。その光が照らし出す人影は、まるで妙なものであった。人影は僕が先程予想したとおりに大人の男性のように見えたのだが、何か大きな荷物を担いでいるらしい。目を凝らしている内に、彼はどんどんとこちらへ近づいて来る。それにつれて、唸り声もはっきりと聞こえるようになってきた。――――子供の声だ。
鼓膜の内側で、どくん、と、大きく心臓の跳ねた音がした。
男が腕の中に抱えているものは、幼い子供だった。小学生くらいであろうか、男の肩に担がれて、懇願するかのように悲痛な呻き声を上げては、弱々しく泣き喚いている。
いつの間にか口の中がいやに渇いていた。おそらくは緊張の所為であろう。頭の中では必死に、どういうことだ、いったい何が起きているのだろうか、と、オーバーヒートしてしまいそうな勢いで思考がフル回転していた。まさか、だなんて、考えたくも口に出したくも、思いたくもなかった。それが単なる僕のエゴイズムであったとしてもである。
男は祠の前まで辿り着くと、林の脇に入って、乱暴な所作で子供を地面に降ろした。その瞬間に「ぎゃっ」と怯懦の悲鳴が上がる。
僕の双眸は見た。はっきりと見てしまった。男の持つライトの光がゆらりと揺れ、暗闇の中にくっきりと浮かび上がらせたシルエットを。その男は、地面に降ろした子供の上へ馬乗りになり――その細い首を、強く絞め上げていたのだ。
「……なっ、何やってんだっ、コラァーッ!」
思考なんてする間もなく、僕は男に飛び掛って行っていた。何度も何度も悲痛な声音で僕の名を呼ぶホタルの悲鳴が、少しは慣れた場所からでもきちんと聴こえた。それでも僕は夢中で男をその子供から引き剥がし、そのまま男を何とかして押さえ込もうと試みる。
「逃げろ、チビ! ――うっ」
未だ蹲ってはげほげほと苦しげに噎せ、嗚咽を洩らしている子供に向かって叫んだ瞬間に、今度は僕が思い切り腹を殴られるか蹴られるかして、その勢いで僕は結構な距離を吹っ飛んだ。倒れ込んだところに、首尾良く男が圧し掛かってくる。そして首に汗ばんだ両手が絡みついてきて、そのままぐっと強い力で絞めつけられた。
「……っ、…………ぐ、う……」
呼吸が出来ず、酸素が脳内に、体中に回っていけないことで手足が痺れてきて、やがては身体の全体から力が抜けていくのが、今にも遠退いていきそうな意識の中でぼんやりと分かった。それでもなんとか残っていたらしい思考の下で、このままではやばい、と思っているうちに、終ぞ気すらも朧になってきてしまっていた。首を絞めるその両手の力はとても強いものであり、窒息させられるよりも先に、首の骨を折られてしまいそうだ。
「ぐ、ふっ……あ、あ」
「――――その手を離してください」
凛としたホタルの声が、うっすらと僕の鼓膜を震わせた。
慌てて、莫迦、出てくるんじゃない、と、声にならないままにそれでも力を振り絞って怒鳴りつけた。だが、しかしどうしたことか、男の両手は呆気無いくらいにするりと、それらは僕の首からほどけたのだ。
僕はすぐさま思い切り息を吸い込み、ごほごほ、げほげほ、と苦しげに噎せる。まともな声は未だ出せそうにはなかった。暗い視界の中になんとか目を凝らしてみると、再度、体中に電流のような冷たい何かが走って、ぞくりとした。何故だか呆然とした様子で立ち上がった男はホタルのことを真っ直ぐに凝視していたのである。
「……ホタルっ、――…………逃げろ!」
必死でホタルに向かって叫んだが、けれど彼女は動こうともせずにそこに立っていた。恐ろしく冷めきった眸で、目の前に立つ男を見据えている。そのまま一歩踏み出すと、男は再度短く悲鳴を上げて後込み、片足を大きく一歩分退いて、逃げ出すよう準備をするかのごとくにあとずさった。
「あ、ヒッ、ひいいいいぃぃぃーっ!」
そうして後ろにあった松の幹に勢いよく体を打ちつけ、そのまま男はその場に倒れ込んだ。後頭部を強打したのであろうか、白目を剥き、口からは泡を吹いている。完全に失神していた。
「……な、何だあ…………?」
呆気にとられて、僕は尻餅をついたまま呆然としていたが、やがて子供が大声で泣き出したので、はっと我に返った。
「おい、チビ、大丈夫か?」
急いで駆け寄ると、子供は僕のパーカーにしがみついて来た。暗がりの中、目を凝らしてよくよく見てみれば、どうやら女の子のようであるらしい。浴衣を着用しているところを見ると、あの夏祭りにでも行って来ていたのだろう。わんわんと泣きじゃくっている子供を腕の中に抱えた僕は心底、胸をほっと撫で下ろす。
「それだけ泣く元気があるなら、平気だな」
小さな手のひらで僕の衣服を強く握り締めては未だ収まらないのであろう嗚咽を洩らしている子供の、その小さな頭を軽く、ぽんぽん、と叩くようにして撫ぜては、背中をそっとさすってやる。
「……きみの方は大丈夫?」
振り向くと、ホタルが整ったその眉根を寄せ、今にも泣き出してしまいそうな情けのない表情で心配そうに僕のことを覗き込んでいた。対して僕はわざとらしく快活に笑ってみせる。早くホタルの安堵に満ちた表情が見たかった。
「ああ。なんとか。……とりあえず、警察には通報しておいたほうが良いよな。あ、っと、その前に、あのオッサンをどうにかして動けなくさせておくか」
僕はスラックスのベルトをほどき、縄代わりにして失神している男の腕をきつく縛った。
「ホタル、お前のスカーフも寄越せよ。足のほうを縛るから」
しかし、ホタルは柔らかな視線で僕を見つめ、それから少しだけ視線を俯けて、ゆるゆるとその首を左右に振った。なにがなんだかわからない中、それが僕から掛けられた言葉に対する肯定の意思表示でないことだけは、明確であった。
「ホタル?」
一瞬。ほんの一瞬の、間があった。
「……お兄ちゃん…………? ……誰と、お喋りしているの」
ふいに、子供が不思議そうに尋ねてきた。その大きく円い双眸の内には、不審と恐怖と、それから怯懦とがあった。
「――――あ? 誰、って、ほら。そこの友達だよ」
僕が指を差し指し示してみせた方向を見て、子供は更に不安そうに顔を歪めた。
「……誰もいないよ?」
僕はホタルのほうを仰ぎ見た。いつものようにホタルは変わらず、その口許に穏和な微笑を湛えてそこにいた。そうして普段のそれよりも一層穏やかに柔らかに、口を開き、静謐な空気をそっと震わせ始めた。
「わたし。わたしはね、ずっと、待っていたんだよ。きみがここに来てくれるのを」
静謐な、澄明な、それは紛れもなくホタルの声であるというのにも拘らず、そこには確実に違っている何かがあった。
「……ホタル…………?」
二十六本目の松の根元の部分に、背筋をぴんと伸ばした姿勢のままにホタルは立っていた。
首塚の松。
僕は唐突に、この三年間ホタルがまったくの音信不通であった理由を、理解してしまったような気がした。連絡をしたくても、もしかしたら、出来なかったのではないか。だけれどその考えを、自分自身で必死に否定し、それを脳内で幾度となく繰り返した。そんなはずはない、そんなはずは――あっては、いけないことだろう。
「きみが引っ越すあの日の、朝だった」
「…………やめろよ」
「細い路地を歩いていたんだ。そうしたらいきなり、、後ろから何かで頭を強く……殴られて」
「やめろってば!!」
体中の震えが止まらなかった。激情に委せて僕が怒鳴ると、細められた優しげなその目尻をホタルはかすかに下げてみせた。
「お見送りに、行けなくてごめんね。本当にごめんなさい、…………ごめん。……それだけをね、ずっと、ずっと謝りたかったんだ」
「…………やめ、ろ、よ」
「さよならも、言えなかったままだったから」
「やめろよ。なあ、やめろてくれったら、冗談だろ…………っ」
たとえそれが、けして嘘を吐かないホタルの真摯な言葉であったとしても、到底信じられるわけが――信じてやる気になんてなれなくて、絶対に信じたくなんてなくて、だから哀しいだとか淋しいだとかといった気持ちはどうにも感じることが出来なかった。
ただ、ただ僕の知らないところで、僕の見えないところで、僕の気づけなかったところで、ホタルが酷い目に遭っていたことが、とにかく無性に悔しかった。想像など出来ないほどの恐怖と苦痛の渦中にホタルが居させられていたとき、暢気なことにも僕は、裏切られた、などと思い込んでいたのである。
そんなの嘘だ、と、胸の内で繰り返し叫んでは絶望を覚えた。
お前は、こんなに寂しくて寒くて暗くて、悲しい処で、たったのひとりぼっちだった。それなのに
僕は勝手に、きっとホタルは平気な顔をして今でも生きているのであろうと、当たり前のごとくに思っていた。思い込んでいた。たとえば僕が居なくなったとしても、平然と。自分に都合よくそう思い込んで、身勝手にも恨んでさえいた。憎らしく、思うことがまた悔しくて、そんな感情を認めないようにさえしていた。
本当はずっと、ずっと僕のことを呼んでいたのに。ここで、ずっと、僕のことを。
友達だったのに。
「ごめん。ごめん、ごめんな、……ホタルっ…………」
眸にはどうしたって涙が滲んできて、無駄な抵抗と理解していつつも僕は必死に、それを眼球の内側へと押し遣っていた。そうでなくともホタルの姿はもう、ぼんやりと朧気にしか、見ることえさえ出来はしなかった。
「家族は、必死になってわたしを探してくれたよ。学校のみんなも、勿論。でも、とうとう見つけてはくれなかった。だけど、きみならここまで来てくれるって、信じてた」
心底嬉しそうにして、にっこりと、ホタルは微笑んだ。微笑んだまま、信じていたよ、と、閑寂の中に繰り返した。
「来てくれた」
僕の頬にそっと触れてきたホタルの手はほんの微弱だけれど震えていて、その指先はもう既にこの世のものではないということを証明するかのような冷たさであった。だけれどそれは柔らかく、そうして、とてえも優しかった。
伝えたかった。僕がここに来たのは、お前が僕を呼んでいたからなんかじゃあない。僕が、僕のほうがお前を呼んでいたからなんだ。ずっとずっと、ずっと呼び続けていたからなんだ。そう告げたかった。眼前にはホタルの、やはり穏やかな笑みが在った。想いは言葉にどころか、声にすらもなりはせず、結局のところ伝えることは叶わなかった。それでもホタルはその両の手のひらで僕の頬を包み込むと、「うん」と、「分かってるよ」と、優柔に頷いた。
「ここにはね、お喋りの相手ならたくさんいるんだよ。だから、実はそれほど寂しくはないんだ。だけど、やっぱりどうしても、もう一度だけでいいから、きみに会いたかった。大人になるきみを、大人になっていくきみを、見たかったんだ」
嬉しそうに、そうしてわずかばかり照れ臭そうにしてホタルは微笑する。そうして徐に、僕へとタイムカプセルの缶を差し出してきた。僕はされるがままにそれを受け取って、蓋を開け、それから素直に驚いた。
その中身は空っぽであったのだ。
「本当はね。きみとこれを掘り返す直前にひとりでここへ来て、蛍をたくさん、入れておくつもりだったんだ。都会から戻ってきたきみに、もう一度あの光の群れを、見せてあげたかったの」
こぼれては頬を伝い、流れ落ち続ける涙を拭ってくれるホタルの指先は、もう既に、淡く光を帯びつつ消えかかっているのが見て取れた。
「…………わたしはさ。わたしはこれから少しだけ遠いところへ行くけれど、これからだって、わたしはずっと、ずっときみの友達だよ。それだけ、覚えていてね」
今にも泣き崩れてしまいそうな様子で、だけれどそれでいて嬉しそうに、楽しそうに微笑み続けるホタルへと、僕は真摯に頷き返した。
「……ああ。ああ、わかってる。……ずっと、友達だ。ホタル」
「ふふ。ありがと。……ああ、でも」
既にうっすらにとしかホタルの表情は窺うことが出来ない。それでもふと、まるでいつものホタルのようにおどけた調子の語尾で、勿体ぶるかのような口振りはほんとうに、普段の彼女のそれそのものであったため、余計に胸が苦しかった。流れ続ける涙をもう拭うこともせずに、だから僕はホタルのその調子に合わせて、なんだよ、と、努めていつもどおりの軽々しい口調で言ったのだった。
「うーん、と、ね。……んん、そうだな。うん。わたしは多分……ずっと、さ」
淑やかに、優しく柔く微笑んだまま、ゆっくりと、淡い光とともにホタルの姿は消えていった。それはまるで、蛍たちの発するあの、神秘的な光の群れのごとくにであった。
最後にそっと押し当てられたホタルの唇は、やはりどんな感触も何の温度すらも僕には感じさせないでいて、だけれど僕にとってそれはとても、とてもあたたかな感情を心の奥底に植えつけさせるものだった。
やがて、ホタルから手渡され受け取った缶の中から、まるで蛍のような小さく淡いひとつの光が現れた。残された漆黒の暗闇の中でただひとつ、ゆらゆらと揺れて飛び回る。優しく淡く、微笑うように。それはそう、あの、ホタルのように。
そうしてまた、それは静かに掠れ、ぼやけて、やがては見えなくなっていってしまった。
逮捕された男は、なんとまあ、町の『駐在さん』であった。しかし実のところは、彼は警察官などではまったくなく、長くその振りをし、またこの町の人々もそう信じ込んでいただけの、ただの冴えない中年男というのが彼の本当の姿なのだった。その正体を『神隠し』とされてきた長年に渡る児童失踪事件の真相は思いの外に呆気無いものであり、それら一連のすべてが彼による犯行であったのだ。観念したらしい男は、それも一緒に白状したらしかった。
男の供述に由り捜索が敢行なされた松林ではその至る場所から、実に六体にも及ぶ、既に白骨化している子供の死体が発見されたそうだ。そのほとんどは小学校低学年程度の年齢の女児のものであり、絞殺が主な殺害方法であったためか首の部分以外には取り立てた傷痕があるものは無かったようであったが、その六体もの死骸の中のひとつ、他のそれらよりもひと回りほど大きめな一体にだけは、その後頭部部分に頭蓋骨骨折の跡が見られたという。それが、ホタルだった。
彼が言うところに由れば、三年前の夏祭りの夜、そのとき殺した子供の死体を埋めている現場を写真に撮られたと思い込み、その証拠写真が収められているのであろうと思い込んでいたカメラを所持していたホタルを狙ったのだということであった。あの夏祭りの数日後に、カメラ屋で現像された写真を受け取って店から出てきたホタルの後を追い、そのまま路地裏に連れ込んで、撲殺した。
その写真は、ホタルと一緒に――ホタルの死体とともに埋められていた。けれど、そこには松林なんて写っているものなど、ひとつたりとして存在してなかった。そこには夏祭りの法被を着て、仲良く笑っている僕とホタルとが寄り添っている画だけが、たくさんたくさん、写っているだけであるのだった。
更にその後、この事件に関して奇妙な噂が立ったという。犯人であった男は、殺したはずのホタルの姿をあの松林の中で見た、と、真っ青になりながら必死に訴えていたらしい。僕は勿論のこと、素知らぬ顔を貫き通した。
それから、もうひとつ。
警察が最初に捜査のため松林へと踏み入ったとき、並木の松は確かに合計二十六本であった。しかし、その後は何度数えてみても、二十本しか無いのだという。