ぼくのソネットⅢ
都会の小学校に転入して、新しい友達はすぐに出来た。
転入初日の放課後、帰り支度をしていた僕に、数人の同級生の男子が近づいてきた。それはとても友好的な、感触の良い笑みであった。
「なあ、転入生くん。まだこの辺りのこと、よく分かっていないだろう。俺たちが案内してあげるから、一緒に遊びに行こうよ」
僕は嬉しくて、勿論のことその誘いにイエスと即答した。都会でだって、ホタルが隣に居なくたって、僕は楽しくやっていけるのだと、そう思った。彼らに連れて行かれたのは、とある大きな雑貨屋だった。CDや書籍、文房具からテレビゲームのソフトなど、ほとんどなんでもが揃えられていた。そのときの僕はまるで田舎者丸出しで、眸を輝かせて端から棚の中身を眺めていっていた。
「ここに来れば、大抵のものは揃ってるんだぜ」
彼らは、暇があればこの場所のゲーム体験コーナーで遊んでいるのだと言った。僕も仲間に入れてもらって、新作の対戦ゲームでしばらく遊んだ。それはとても面白くて、ついつい時間を忘れてrしまうほどであった。
外が少し暗くなって、みんなが帰ろうと言い出す。そうして、店から出るときになって、彼らは僕にそっと耳打ちした。
「じゃあ、俺たちの仲間になった証に、何かパクって来いよ」
「…………え?」
「パクる、って、意味わかんない?」
「モノ、何か盗ってこいって言ってんの」
言われている、告げられている内容はさすがに解っていた。けれどそんなことをする意味が分からなかった。
「CDやゲームは駄目だぜ。あれは空箱だからな」
「漫画本が良いよ。一番バレにくい。あ、ウッカリマンの新刊が出てたっけ。それ盗ってきなよ」
「あ、賛成。俺も読みたい」
「ほら、さっさと行けよ。俺たちは外で待ってるからさ。ヘマはするなよ」
一同に、一斉に畳み掛けられて、僕が困惑したまま動かないのを見とめると、彼らのうちのひとりが少しだけ顔色を変えた。
「なに? ビビッてんのか、お前」
「……いや、でも…………。でもさ、そんなことする必要あるのかなって。だって、漫画が欲しいなら買えばいいだろう」
「ハァ?」
彼は眉を顰めてから、馬鹿にするように軽く笑った。
「何言ってんの、お前? これは遊びだよ。いかにバレないように獲物を盗ってくるかっていう、ギリギリのスリルが面白いんじゃん。ゲームだよ、ゲーム」
「……ゲーム…………?」
「そう、そう。では、健闘を祈る」
わざとらしく爽やかげににいっと笑って、その中のひとりが僕の肩を軽くぽん、と叩いいてみせると、それから彼らは店を出て行った。手のひらを置かれた肩がやけに重たく感じた。ゲーム。そう言われてしまえば、そんな程度のものなのかも知れない。けれどさすがに、乗り気にはなれなかった。
あの町にいた頃には、ホタルとともに散々とそこらの梨や柿を盗み食いしていた。それと何が違うのかと訊かれれば、きっと何も変わらないのだろう。しかし、まったく別物のように感じられた。
店の外から、彼らがこちらを窺っていた。僕がまだ突っ立っているのを見て、さっさとしろ、とでも言いたげな視線を送ってきては急かしてくる。彼らには悪気などなかった。これが彼らなりの遊び方であり、友情を確かめ合う儀式でもあった。
僕は仕方なく漫画の置いてあるコーナーの棚の前へ行き、言われたとおりにウッカリマンのコミックスの新刊をかすめ盗った。そうして出来る限りさりげなく、店を出た。
「よっしゃ、逃げろっ」
無事に店員の目をかいくぐって店から出て来た僕を彼らは見計らい、そのまま僕たちは一目散にわっと駆け出した。店員が追いかけてくるようなことはなかった。けれど、僕の心臓は不気味に高鳴り続け、嫌な汗がいつまでも残った。面白くも楽しくもなかった。このときに盗んでしまった漫画本は、一度も開かれることはないままで机の奥深くに押し込まれてある。それでも、小学生のうちはまだ良かったのかも知れなかった。
その頃には僕も僕の両親たちも、都会の生活に慣れるのに精一杯であった。だから、小学校を卒業するまでは本当にあっという間だった。そしていざ中学校へ進学する、というときになって、蒼褪めたのは僕の母親であった。
この街では中学受験が当たり前で、公立中学に行くのはいわゆる『落ちこぼれ』を意味していたのであった。僕たち一家がそれを知った頃には、もう、色々な手続きが色々に手遅れだった。僕の成績はたとえ都会に来たところで見劣りなどはせず、偏差値の高い私立の中学校への入学にだって充分に通用するものであったのだ。同じマンションに住む人々は当然それを知っていて、我が子のライバルを作らないためにと、わざと知らせることはなかったのだ、と、母親はヒステリックに声を張り上げて泣き喚いた。
それからというもの、僕の家の中の雰囲気はすっかり変わってしまったのだった。母親は、病的なほどに僕へ対しての執着心を強めるようになった。否、僕に、というよりは、僕の成績に、である。両親たちの間から会話はほとんど消えた。父親は仕事が忙しいというのを理由――言い訳――に家に寄りつかなくなり、母親はますますそのヒステリーに拍車を掛けていくようになっていった。
中学校に入学してすぐ、そこいら近辺では大変に有名な進学塾へと入れられた。そこの難関私立特別進学クラスで、公立中学に通っているのは僕ひとりだけであった。制服を嘲笑われ、それが厭で堪らなくて、以降そこには私服で通うようになった。
少しずつ、けれど確実に、僕の心は冷えていった。
都会という環境が特異なのではなく、世界は元々こういう風に出来ていたのだと思った。世の中には選ばれた奴とそうじゃない奴がいて、気を抜けばすぐに突き落とされる。見下されないためには、突き落とす側に回らなければならなかった。僕になら、努力によってそれは可能であった。幸いにも勉強すること自体は苦手ではなかったからである。
トップクラスの成績を取り続ければ、少なくとも母親は落ち着いていたし、周りから莫迦にされ嘲笑の的にされることもなかった。その代わりにこの手に入ったものは、常の孤独であった。僕はいつでもひとりだった。
小学生の頃に一緒に過ごしていた奴らは、それぞれ私立の中学校に通っていたし、その後一切、交流を持つこともなかった。学校では、クラスメイトにも教師にも、なんとなく遠巻きにされていた。最初、何が狙いであったのかは不明瞭であるが、妙に馴れ馴れしく接してくる奴もいたにはいた。けれど自身に対して僕が靡かないのを知ると、すぐさま踵を返して、薄情なことにも僕から離れていった。
塾の、同じ特進クラスに通っている中にもひとり、何かにつけて僕と友達ぶろうとする奴がいた。だけれどそれは、僕に対する学力的な劣等感を誤魔化すためであった。なんだか可笑しかった。だから僕がそのことをわざと意地悪く指摘してやると、彼は瞬間、その顔を真っ赤にさせて逆上し、それからは敵意も顕わに、何かにつけては睨みつけてくるようになった。それでも僕は彼よりも優位に在る。だからこその、湧いてくる底意地の悪い余裕が、僕の裡には確かにあった。
どいつもこいつも、友達面の下に醜い対抗心を隠している。僕のことを敵だと思い、ねめつけてくる。そうだ。僕の周りには、敵か、低脳な落ちこぼれたちしか居はしないのである。そうして僕も僕とてそんな奴らの中の一員でしかない。
独りは、自ら選び取った孤独というものは案外に楽であった。上辺だけの友達づき合いは面倒であるとしか感じられなかった。誰と一緒に居ても、何をして遊んでいても、楽しいとはまるで感じることが出来なかった。
塾に通うようになってから半ば強引に買い与えられた携帯電話のアドレス帳のメモリーも、大した活用なんて為されていない。電話を掛ける相手もメールを送りたい相手も、ましてや話したいことなど、まったくもって何もない。逆を言えば、持つようになってからのほうが、自分がいかに独りであるかを実感させられた。そんなの、世の中の大半の人間がそうなのかも知れないけれど。
生きることは、どうしてこんなにつまらないのだろう。
街には、耳を壊しでもしたいのかと疑いたくなるような不協和音が渦巻いている。パチンコ店の雑音、ゲームセンターの喧騒、下劣なキャッチセールスのいやらしい声色。何も考えていなそうな、安っぽい笑い声が溢れては消え、溢れては消えていく。
時々僕は考える。勉強することそれ自体は嫌いではないのだ、だけれど大して意味もない。高い点数を取って、『良い学校』に通って、『良い会社』に入って、それで、だからどうなるというのだろう。僕たちはそんなことのために生まれ落ちてきたとでもいうのであろうか。周りを見下して、薄っぺらな自尊心を満たして、そのために生きて、そうして死んでいくのだろうか。
安っぽいコンビニ弁当を買って塾へ向かう僕たちと、朝まで街をうろうろと徘徊している気だるそうな少女たち。何も違わない。本当は、何も違いやしない。誰もが同じ、どこまでもどこまでも愚かしく無意味な存在でしかない。
世の中はどうでいいことで溢れ過ぎていて、ちっぽけで矮小な僕たちが必死に足掻く姿は、それはそれはとても滑稽な姿であるように、世界には映っているに違いない。
人間の価値って何だろう。
中学二年生の時分に、当時学年主任であった教師が児童買春によって逮捕された。それなりに幸福な家庭も持っており、周囲からの信頼だって厚い男だった。のちにその家庭は当然のように離縁し、子供たちは母方へと引き取られ、この街を出て行ったと噂になった。
人間の価値って、なに?
三年生になると、同じクラスには生徒会長がいた。幼い頃から秀才であり、私立受験も本命が確実であったとかで、滑り止めを一切受けなかったのだそうだ。けれど、受験当日に体調を崩して公立に来る破目になってしまったのだという。それでも彼女は明るく温和で、生徒からも教師からも人望があった。
しかし一学期の、とあるなんでもない日常の中に埋もれていたはずの日、彼女は授業中に突然立ち上がり、教室の後方にあった水槽を唐突に叩き落とした。そうして奇声を上げながら、床でもがき苦しむ金魚たちを次々と踏み潰していった。教室中は当然唖然として静まり返り、しばらくの間、誰も彼も動くことが出来なかった。次の日から、彼女はずっと学校を休んでいる。教室の後方の棚の上に、水槽はもう、置かれていない。
僕たちは何のために生まれてきたのだろう。生きることはどうしてこんなにも息苦しく、苦痛で、憂鬱なのだろう。気が狂いそうな程のゲームセンターの喧騒にも、吐き気を覚えるくらいの満員電車の悪臭にも、疾うに慣れ切ってしまっていた。それでも時々、耳鳴りがして、気が遠くなる。
イルミネーションを綺麗に施された通りをぼんやりと眺めて、クリスマスの日が近づいていることに漸く気がついた。そのとき酷く不快な奇妙さを感じたのを覚えている。偽物だ、と、思ったのだ。夏の川べりの、無数の蛍に飾りつけられて闇夜に浮かび上がった木々の、イミテーション。
この街の川に蛍はいない。あるのは、投げ捨てられたゴミくずと、澱んで腐臭を発する汚水くらいのものである。いっそ天変地異でも起きて、すべてが壊れてしまえばいい、と考えることもここのところは多かった。全部、全部がぐちゃぐちゃになって、そうすればやがて祭りの後のような静寂が訪れるだろう。そうしたならきっと、この不快な耳鳴りも止んでくれるに違いない。
僕の生活はすべて母親に管理されていた。何を読むかも、何を食べるかも、すべてを報告させられていた。母親に与えられたものを拒む権利はなく、拒む理由もなく、僕はマリオネットであることに甘んじていた。
僕のために神経をすり減らし、僕のためにしか生きられなくなっている彼女の姿は、言いようもなく僕の胸の内を悪くさせた。苛立ちを抑えながら、それでもどうしたって当然、切り捨てることなど出来なかった。だってどんな人間であろうと彼女は僕の母親であるのだ。息をするのが苦しい。あの黄濁した川の中に、ゆっくり、ゆっくりと、沈められていくかのようである。
夏休みが近づいて、僕はカレンダーのある一点を意識し始めるようになった。八月の、第一日曜日。毎年、以前住んでいたあの町で夏祭りが行われる日だ。
思い出して――思い出してから、あの暗い松林の奥の、地中に埋めたもののことを思い出すことが多くなった。
つまらないことに、自分があのときホタルとともに計画をして実行したタイムカプセルの中に、自分が何を埋めたかは鮮明に憶えている。けれど、ホタルが――ホタルと呼んでいた嘗ての親友が、何を埋めたのかが、何故だか無性に気になった。あのタイムカプセルが、果たして今でも沈黙したまま地中に在るのかということも。
ホタル自身のことも、思い出すことはやはり今現在でもしばしばあった。引っ越してきてからこっちは一切連絡を取り合っていなかったことが、それを一層顕著にさせていたとも思える。ホタルから何の音沙汰もないのに、僕の方から便りを出すのはどうにも癪であったからだ。意地であり、プライドを守るための見栄であると言ってみても良い。つまるところは、ただの幼子による駄々であった。
あのとき見送りに来なかったことを僕が怒っているのは当然ながら分かっているのであろうに、どうして一言も弁解や謝罪を告げようとしてこないのか。その自問に対する解答は明快である。もう僕のことなどどうでもいいと、そう、思っているからだ。友達である必要がないと思っているからだ。
いや、もうしかしてみれば最初から、友達などとは思われてもいなかったのかも知れない。それはこの期に及んでもやはりどうしたって悲しい想像であり、虚しい予想なのであった。
僕が無心に勉強ばかりに打ち込むことの出来た理由のひとつは、実はそこにあった。いつか、ホタルと再会するときが来るかも知れない。そうでなくても、彼女の消息をどこかからか耳にすることくらいはあるかも知れない。そのときに、僕はホタルよりもずっと優位に立っていたかった。醜い本心を言えば、見下してやりたかった。見返してやりたかったのだ。いつだって飄々と涼しい表情をしていたホタルの、屈辱に歪んだ顔をこの眸で拝んでやりたかった。そうして、所詮はホタルも、塾で僕の友達面をしようとしていた奴らや、僕のようなつまらない人間と変わらないのだと、そう、自分の中で納得をつけたかった。まったくもって身勝手であり、とても見苦しく、酷く醜い願望である。そんなことを考えながらも、気がつくとぼんやりカレンダーのほうを眺めている僕がいた。
カレンダーには既に予定がびっしりと書き込まれている。中学三年生の夏休み。盆の前後以外は、日曜も祝日も関係なく塾の夏期講習で狭苦しい教室内に缶詰にされるのだ。当然ながら、あの町の夏祭りの日もである。その日が近づくにつれ、僕は段々と落ち着かなくなってきた。タイムカプセルの現状を確かめたいと願う気持ちが強まってきていたのだ。こんな風に何かに心を囚われるのは、酷く久しぶりである気がした。
考えを巡らせた一番の懸念事項はやはり、どういった手段によってあの街まで赴くかということだった。必要以上の小遣いなど貰ってもいないし、普通列車で行くとなると日帰り出来るかどうかも怪しい。ましてや素直に母親に相談などしでもしたのであれば、どんな反応が返ってくるのか、想像してみただけでも気が滅入る。
そんなとき、丁度タイミング良く、日頃愛用していたDHAのサプリメントが切れた。脳の働きが良くなるとかで、母親に勧められ常日頃から飲んでいたものだ。それを購入するためにという名目で渡された福沢諭吉が、このときばかりは神様のようにも輝いて見えた。
この金と、あとはコンビニで買う弁当代を節約しつつ貯めていかれれば、あの町へ向かの新幹線の往復便のチケットが買える。僕は内心でほくほくしながら、渡された金額を気づかれないようにそっと納めた貯金箱を、学習机の鍵付きの引き出しの奥のほうへと大事そうにして仕舞い込んだ。