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火垂灯の孤哀  作者: 仲奈
3/9

ほたる、こい

 僕は小学生最後の夏休みを満喫した。

朝には張り切ってラジオ体操に参加しては、カードにスタンプを貯めてお菓子と交換してもらうことに燃えていたし、昼間は学校のプールでとにかく遊び倒した。

小学校の前には小さな駄菓子屋があって、腹散々泳いだあとにそこでアイスを買い食いするのが至福の瞬間であったのだった。青々とした水田に囲まれた一本道を、干上がってアスファルトに張りついたカエルの死体を踏まないようにと気をつけながら、爪先立ちで飛び跳ねるようにして帰った。一旦帰宅してランドセルやなんかを放り置き、簡単に準備を整えると、それから夜は八木節の練習だ。

その頃の僕はお調子者で、そして割合面倒見の良い方であったものだから、自分で言うのもなんだが、友人連中の間では結構な人気者の立ち位置だった。みんなで度々わいわいと集まっては、蝉やカブトムシを捕まえに神社の裏山に行ったり、ザリガニ釣りに川へ遊びに出掛けたりしていた。

それでも、だけれど、友達は多かったけれど、一緒にいて一等楽しかったのはどうしたって、ホタルというひとりの少女だったのである。その、ホタル、という呼び名は本名ではない。だけれどみんなが揃ってそう呼称していた。僕自身、明朗かつ明晰なようでいて、人当たりも良くそれなりの人気も会得しており、それなのに、ふとした瞬間に見せる妙に果敢なげで不可思議な、地に足を着けて歩いてはいないような、掴み処のまるで無いみたいに淡くふわふわとした雰囲気が、蛍の光にも似通っているところがあるように感じられていて、だから僕は彼女のその渾名が結構気に入っていた。

多分、僕にとってホタルという友達はかなり特別な存在であった。ホタルは、明るいけれど騒がしくはなくて、大人びているけれど厭味っぽくもなくて、大して僕と性格が似ているわけでもないのに、不思議とうまの合う、そんな奴だった。

一緒に学校から帰り、その途中道草を食っては、視界いっぱいに広がるいくつもの畑からトマトやキュウリを盗んで食べた。僕が家からこっそり持ってきた塩を懐から取り出すと、次いでホタルも微笑み、僕に向かって自宅から持ち出してきた味噌をふふん、と得意げに見せつけてくるという、そんな塩梅だった。ふたりだけの秘密というものを作ることが楽しくて仕方がなくて、何かにつけては行動を共にしていたように思う。 ただ、その頃の僕は勉強も遊びも他の子供たちよりも少しばかり得意なほうだと自負していたけれど、そのホタルにだけは勝ったと思えたことが、本当にただの一度たりともなかった。

やはりふたりで、用水路のドジョウを捕まえようとしていたときのことであった。とにかく僕はドジョウを捕まえることにばかりに夢中になっていて、気づけば着ていたシャツを泥だらけにしてしまっていた。その後、母親にこっぴどく叱られたことは言うまでもない。そのとき、母親は溜息混じりで言ったのだった。どうしてあんたはホタルちゃんみたいに上手に遊べないの、と。

愕然とした。

非常に間抜けなことにも、僕はそのとき母親から言われて初めて気づいたのだった。捕まえたドジョウの数は変わらなかったのに、思い返してみればホタルの着用していた白っぽいシャツは、ちっとも汚れていなかったのだ。

学校のテストであったならば、ホタルと僕がいつもクラスで一番だった。だからみんな僕たちのことを、口々にすごいと言って素直に称賛した。それが得意でもあった。優越感とはまさしくあの感覚のことに相違ない。だがしかしホタルのほうが僕なんかよりもずっと頭の出来が良いことを知っているのは、実際のところ僕だけなのであった。だって僕はホタルに勉強を教えてもらっていたのだから。そうしてそれがまた、豪く上手であるのだ。だから僕はホタルに向かって、将来はきっと教師になるのが向いているんじゃないのか、と、言ってみたことがある。


「わたしが、学校の先生に?」


文字で表現しようするのであれば、あからさまに、きょとん、とした表情でホタルは僕をじっと見つめた。それはまるで僕の台詞の真意に探りを入れようとしているかのような視線で、思わず僕は後込みしてしまう。そうして愚かしいことにも、次に続けるべき言葉に珍しくも詰まってしまったホタルが一瞬呑んだ息の意味を僕は知ろうとはしなかった。


「そうだよ。だってお前、こんなに頭良いし。教え方も上手いし、それに、子供、好きだろう?」


いつものように八木節の練習に行った帰り、例によって僕たちは蛍を捕まえようとどちらからともなく言い出すと、帰路より少しだけ遠回りをすることになる畦道を歩いていた。川の蛍はもう季節が終わってしまっていたけれど、水田のほうにはまだ彼方此方にちらほらと見ることが出来た。夏の初めに、川べりでおびただしいほどの蛍が飛び交っている眺めもなかなかに壮観だ。けれども僕は、盆近くの水田の、この閑寂な景色の方が好きだった。

墨汁でも塗りつけたかのように真っ暗な一面の夜空に、星よりも果敢なく瞬き、頼りなく揺れながら、蛍たちがちらちらと飛んでいる。流れる水の匂いと、ぬるく湿った風と、この目の前いっぱいに広がる幻想的な光景。そうして虫のか細い声。まるで天の川を歩いているようであった。この静謐な感覚が無性に好きで、夕立の無い夜にはついついこの場所へと足を運んでしまう癖が僕にはあった。お陰で、体中が虫刺さればかりだったのだけれど。


「うーん……。学校の先生になるかはわからないけれど。でも、大学には行きたい、かな。勉強は好きだし」


発された言葉に瞬間閃いた僕は勢い良くホタルのほうを振り返り、「そうだ!」と、一層声を張り上げた。


「それならさ、同じ大学に行こうぜ。中学も高校も違っちゃうけど、大学ならお前も都会に出てくるだろう?」


無邪気に言った僕に、平時とまったく変わらない柔らかさでホタルは微笑んだ。


「そうだね。そうなったら、楽しいだろうな」

「僕、おまえに負けないくらい勉強するからな。だから遠慮なく、レベルの高いところを狙っていいぞ」


 捕まえた蛍を持参して来ていた瓶に放り入れると、瓶の口の部分にガーゼを宛がい被せて、輪ゴムでその個所を止める。路肩で適当に見つけてちぎった露草を振り回しながら、僕は陽気に歩き出した。


「ほう、ほう、ほーたるこい」


一小節分ほどずれてから、その後をホタルも楽しげに続ける。そのささやかさは不恰好に辺りの静寂を切り裂いた。或いは楽しげな様相を装っていただけなのかもわからないが、そのときの僕にはそんなことを知る由も術も、何もなかったのである。ただ、ホタルと並んで歩く帰り路の夜は心の底から楽しいものであって、胸中を支配するのはそれだけ、ただの一点のみであった。もしかしたらホタルはそんな僕の心持ちをも見透かしていたのかも知れない。なにせ彼女はとても聡い人だったのだから。


「ほう、ほう…………」


ふたり分の歌声は、夏の夜闇にそっと響いて吸い込まれ、やがては掻き消えていった。

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