最終話
「お~い、シス!」
背後から呼ぶ声に、私は振り返った。
手を振りながら駆け寄ってくるのは、隣に住むジンクだ。
今日の獲物らしき鳥をくくった紐を肩に担ぎながら、笑顔で駆け寄ってきたジンクが、私の顔を見た途端ぎょっとした表情になる。
「ど、どうした!? なんで泣いてんだ!?」
「え?」
言われて頬に手を当てると、たしかに指先に液体が触れた。
「本当だ……なんでかしら」
「おいおい、自分でなんで泣いてるか分かんないのか?」
「うん……なにか、悲しい夢を見てたような……」
「ったく……ほら」
呆れたような顔で、ジンクが空いている左手を差し出してきた。
「手を繋いでやるから。一緒に帰ろうぜ」
「うん……」
そっとその手に自分の手を重ねると、固くて大きな手にきゅっと優しく包まれる。
その感触に自然と頬を緩めながら、私はジンクと共に村へと歩き出した。
穏やかな時間。春の陽だまりのような、温かくて幸せな時間。
ずっとここにいたい。何も考えず、この優しい世界に浸っていたい。
そう思ったのも束の間、私はふと湧き上がってきた焦燥感に衝き動かされ、足を止めた。
「シス?」
怪訝そうにこちらを振り返るジンクの顔を見て、正体不明の焦りは募る。
今、ここで言わなければ。ここで言わなければ、二度と言う機会は無くなる。
そんな奇妙な確信に衝き動かされるまま、私は口を開いた。
「あ、あのね!」
「お、おう?」
「私……ジンクのことが好き!!」
私の突然の告白に、ジンクの目が大きく見開かれ、そして……
「ん……」
馬車の振動で、目が覚めた。
何気なく軽く身動ぎし、ガシャッという音に視線を落とすと、そこには四角い板状の無骨な手枷があった。
それを見て、私は一気に現実に引き戻される。
そうだ、私は捕虜として、隣国に護送されている最中だった。
「……」
夢を、見ていた。幸せな夢を。
まるで砂糖菓子のように甘く、優しい夢だった。
私は、ただの村娘で。ジンク様は、隣に住む猟師の息子だった。
そこには戦いなんてなくて。私達は、仲のいい幼馴染で。
いつだって好きだと言える。望めばいくらでも触れ合える。
「ふ、ふふっ……」
自然、口から自嘲的な笑いがこぼれる。
なんだ、これは。よりによって、最後に見る夢がこれか。
死に瀕して人の本性は露わになると言うが、これはあまりに酷い。王女として14年、その後軍人として4年もの歳月を生きながら、それらを取っ払った私の本性は、どこにでもいるただの女だったというわけだ。
ああ、本当に、なんと浅ましく恥ずかしい女だ。
現実には、私がジンク様に想いを告げたことなど一度もなかった。
私達の間には、上官と部下という関係の前に、平民と王女という関係がどうしようもなく横たわっていて。
それでも、副官としてなら側にいられるのだからと、何度も自分自身に言い聞かせて。告げてはならぬ想いと、固く胸の奥に押し込めていた。
現実には、私とジンク様が手を繋いだことなど一度もなかった。
それどころか、ジンク様は私の肌に指一本触れることはなかった。
4年もの時を側で過ごしながら、結局心も体も一度も触れ合うことはなかったのだ。
それでもいいと決めたのは私。挙句、彼を裏切り、貶め、それが彼の幸せに繋がるのだからと、独りよがりな自己満足に浸って……最後は、1人で惨めに死ぬ。こんな、滑稽な夢を見て。
「ふ、ふぅ……ぅ……」
嗚咽が漏れる。どうしようもなく胸がわななき、涙が込み上げる。
手枷が邪魔で、涙を抑えることも出来ず。遂には溢れ出した涙が、次々と頰を伝い始めた。
「ぅ、うぅ……すき……」
涙と共に、とうとうずっと胸の奥に押し込めていた想いがこぼれ落ちる。
「好き、すき……すきぃ……ぅぅ」
聞かせる相手のいない無様な告白が、馬車の中に降り積もる。ああ、本当に。どこまでも無様で滑稽な女だ。
いつしか涙も枯れ果て、泣き疲れた私は、ぼんやりと「もういいか」と考えた。
もう、十分時間は稼いだし、こうしてわずかながら敵兵力を分断することも出来た。このままみすみす捕虜として利用されてやる気などないし、これ以上生き恥を晒したくもない。
それにしても、手枷と足枷こそ着けられているものの、碌に着替えもさせず見張りも無しというのは、一応王女ということで配慮されたのか、それとも王女に自害を選ぶ気概などないと侮られているのか……。
どちらにせよ、好都合だ。ただ死ぬだけなら、やりようなどいくらでもある。
ただ、惜しむらくは涙を拭えないということか。
こんな涙の跡が残っていては、あまりにもみっともない死に様になってしまうだろう。それでも、男を想って泣いたと知られるよりは、死を恐れて泣いたと思われた方がまだマシか。
そんな諦めとも開き直りともつかないことを考えながら、私は舌を突き出すと、ゆっくりとそこに歯を立てた。
このまま力を込めて舌を噛み切れば、私は死ぬ。
グッと顎に力を入れると、舌全体に痛みが走り、頭の中に先程の夢が蘇った。
(あの後、ジンク様はなんとおっしゃったのだろう? 好きだと、そう返してくれたのだろうか? ああ、この期に及んでまだ私は……でも、もし仮に、来世なんてものがあるのなら。その時は……)
そうして目を閉じ、一思いに舌を噛み千切ろうとしたその時、急に馬車の外が騒がしくなった。
『────だ! そう────!!』
『くろ────、しに──────!』
「……なに? っ、きゃっ!」
突然、大きな揺れと共に馬車が加速する。体勢を崩して扉に倒れ掛かると、外の会話がより鮮明に聞こえた。
そして、その会話の中で漏れ聞こえたいくつかの単語に、私の思考は停止した。
死神、そして黒翼隊。
「な、なんで……」
そんなはずない。彼が……彼らが、こんなところにいるはずがない。
必死にそう否定するが、外の喧騒はますます激しくなり、やがて剣戟の音や男達の雄叫びまで聞こえ始める。
と、その時、馬車のすぐ外に馬の足音が近付き、馬車の扉が外から開かれた。
そして、ぬっと伸びてきた腕が私の襟首を掴むと同時に、私の首元に剣の切っ先が突き付けられる。
「貴様らぁ!! 今すぐ武器を捨てろぉ!! 王女がどうなってもいいのかぁ!!」
そのまま背後に向かってそう叫ぶ男の側頭部に、私は半ば反射的に手枷の角を思いっ切り叩き込んだ。
「お、ごっ!?」
真横から予期せぬ痛打を食らった男は、元々無理な体勢を取っていたこともあり、ぐらりと体を揺らすとそのまま落馬してしまった。
だが、私もまた無理に両腕を振り抜いたせいで、体勢を崩してしまった。勢い余って、馬車の外に転げ落ちそうになる。
「っ!!」
咄嗟に踏ん張ろうとするが、足枷のせいで足を開けない。
掴まるものもなく、そのまま馬車の外に投げ出され──
「きゃ──」
「おっと」
一瞬の浮遊感。直後、聴き慣れた声と共にお腹に腕が回され、力強く引っ張り上げられる。
「よかった、無事みたいだな」
「ジ、ジンク様!?」
「っと、失礼。ちょっと動くなよ」
ヒュヒュッと風切り音が2つ。直後、手枷と足枷が音もなく両断され、地面に落下した。
「王女を奪われたぞ!!」
「取り返せ! 絶対に逃すな!!」
私達に気付いた敵兵が、次々と近付いてくる。
だが、私という荷物を抱えながらも、ジンク様に焦りはない。
ヒュッ ヒュン
また、軽い風切り音。
響いた音はたったそれだけ。それだけなのに、次の瞬間近付いてきた2人の敵兵の首が冗談のように飛んだ。
その後も、戦闘とも呼べない静かな殺戮が続く。
剣戟の音も、鎧がひしゃげる音も、断末魔の絶叫もない。
ジンク様の握る異様に薄い細身の長剣が閃く度に、ただ静かに命が刈り取られていく。
これが死神。西方方面軍最強の英雄である、死神将軍の戦い。
「む、無理だ! こんなヤツ勝てるわけねぇ!!」
「ひ、ひぃ! 化け物ぉ!」
敵兵が戦意を喪失するまで、そう長くは掛からなかった。
逃げ散り始める敵兵を、黒翼の旗を掲げた兵士達が追撃する。
「ど、どうして……」
そこでようやくそう呟いた私に、ジンク様はなんでもないことのように言う。
「ん? 橋が落とされてたんで、砦の横の山を越えて反対側から奇襲かけてやったんだよ。もう14年前になるか? 俺が初陣飾った戦いで敵が同じことやったからな。俺達にも出来るだろうと思ったんだが、意外とあっさり行けたぞ?」
「そ……そうじゃ、なくて、なんで……ここに?」
なんで、裏切った副官などのためにこんな危険を冒したのか。
一瞬ロゼック達が命令を破ってジンク様に私の真意を告げたのかとも思ったが、それにしても早過ぎる。そして、事実ジンク様の口から語られたのは、全く見当違いな言葉だった。
「なんでって……仲間割れに見せかけて後方に戦力を集め、敵が油断したところを奇襲する作戦だったんだろ?」
「なっ……ち、ちが……っ、わ、私は……」
思わず一瞬呆然としてしまってから、反射的に否定の言葉を発してしまう。
しまったと思うが、一度決壊した言葉は止まらない。
「私は、ただ! 貴方に、もう戦って欲しくなかった! ただ、生きていて、欲しかった……っ!!」
顔を伏せ、幼子のように感情のままに喚く。
「なんで! 助けに来たのですか! 裏切った私のことなんて忘れて、どこかの村で穏やかに暮らせばよかったじゃないですか!! 貴方が穏やかに、幸せに、生きていてくれれば! 私は、それでよかったのに!!」
やめろ、それ以上は言うな。頭の片隅で冷静な自分がそう叫ぶが、言葉は止まらなかった。
「もう、つらいのです! 耐えられないのです! 貴方が苦しむのを、側で見続けるのは!!」
ああ、そうだ。今、自分で言って気が付いた。
私が彼を貶め、追い出したのは、彼のことを思ってのことだけではなかった。
単純に、私が耐えられなかったのだ。彼が苦しむ様を側で見るのに。消え入りそうなその背を抱き締め、その苦しみに寄り添うことすら出来ない自分自身に。
ああ、本当に。なんて身勝手な女だろうか。こんな女が、彼の隣に立つに相応しいはずがない。
「……じゃあ、シスはどうしたい?」
その静かな問い掛けに、遂に言葉が止まる。
私の最後の理性が、その問い掛けに対して答えを返すことを拒否した。
だが、俯いたまま頑なに口を閉ざす私の顎を、ジンク様の指がそっと持ち上げた。
「言ってくれ。ちゃんと聞くから」
その真っ直ぐな瞳に、最後の理性が溶かされる。
気付けば私は、枯れたはずの涙を再び溢れさせながら、口を開いていた。
「私、と……逃げて、ください。どこか、遠くへ」
そして、胸を震わせたまま、涙声で告げる。
「あ、いして、います……っ!」
もう、滅茶苦茶だ。本当にヒドイ。あんな夢を見たせいで、全部滅茶苦茶になってしまった。
言うつもりなんかなかったのに。なんだこれは。涙声で、みっともない。
こんな私は、見せたくなかった。こんな、情けなくてみっともない私は。
「そうか」
「っ!」
あまりの惨めさと恥ずかしさに、弾かれたように顔を背ける。
ジンク様は、そんな私の肩に手を添え……
「分かった、じゃあそうしよう」
「え──」
風切り音。
ヒュッという音がすぐ後ろで響いたと思った瞬間、私の長い髪が肩口で切り落とされた。
そして、ジンク様は切り落とした私の髪と自分自身の剣を鞘ごと近くにいた隊員に押し付けると、口元に笑みを浮かべて叫んだ。
「悪い! 王女は奪還に失敗して死亡、死神は責任を取って自刃したってことにしといてくれ!」
「え? え?」
「た、隊長?」
戸惑う隊員達に、ジンク様は少し申し訳なさそうに笑いながら、ぐっと私の肩を引き寄せた。
「悪いな、お前ら以上に守りたいものが出来ちまった。だから俺、軍辞めるわ」
その宣言に、頭と体が同時に停止する。
次の瞬間、ジンク様の腕の中でただ硬直する私の周囲で、凄まじい歓声が沸き上がった。
「うおおおぉぉぉーーー!!」
「おめでとうございます!! 将軍! 副官殿!」
「おいお前ら!! 我らが隊長と副官殿の結婚祝いだ!! このまま国境超えて敵の砦まで突っ込むぞ!!」
「長いこと好き放題攻めてくれたんだ! この機会に今までの分全部お返ししてやれ! あぁ!? 攻め入る許可? んなもん将軍閣下の最期の命令ってことにしとけばいいんだよ!!」
「それじゃあ隊長、副官殿! お元気で!!」
「おう、お前らもな!!」
周囲の仲間に別れを告げると、ジンク様は1人馬首を返し、反対方向へと駆け出す。
そうして遂に隊員達の姿が完全に後方へと消えたところで、私はようやく硬直が解けた。
「あ、あの……」
「ん?」
「っ、その……いいの、ですか?」
頭の中がぐちゃぐちゃで、そのくせ胸がいっぱいで、辛うじて絞り出した質問は、あまりにも漠然としたものだった。
だが、ジンク様はそれだけで全てを察したように、晴れ晴れとした声で言った。
「ああ、もういいんだ」
そう言って、ジンク様は心からの笑みを浮かべた。
「ずっと、死に場所を探してた。仲間達を守りたいって思いながら、心のどこかで早く死んだ奴らのところに行きたいって思ってた。戦場から離れても、何かが足りないってずっと思ってた。でも、もう大丈夫だ。こうして──」
そして、私を抱く腕に力を込めると、どこまでも嬉しそうな顔で私を見下ろした。
「死んでも守りたいって思うものを見付けられた。だから、俺はもういいんだ」
その言葉に、私はもう何も言えなくなってしまった。
そんな、夢見たよりもずっと素敵な笑顔で、ずっと素敵な告白をされてしまっては、もう駄目だ。
私は、もう何も言うことなく、ただその胸に体を預け、静かに目を閉じた。
ああ……本当に、なんと浅ましく恥ずかしい……幸福な女だ。
その後、隣国の砦まで一気に攻め入った黒翼隊は、突然の襲撃に混乱する砦をわずか半日で落とし、周辺諸国に衝撃を与えた。指揮官とその副官を失い、怒りを通り越して狂気の笑みを浮かべながら襲い掛かって来るその姿に、砦を守る守備軍は大いに恐怖し、死してなお黒翼隊には死神が宿っているということを心身に刻み込むこととなった。
隣国の侵攻軍並びに東方守備軍が壊滅したことを受け、北方の国と南方の国は停戦協定を破棄、即時宣戦布告し、その2年後には周辺3か国に併呑される形で1つの国が地図から消えた。
長く続いたこの戦争を終わらせるきっかけを作り、危機に瀕した王国を救った2人の若き英雄。死神将軍ジンクと、その副官たる第二王女システィーナ・レイ・ノジバイトは、英霊碑にその名を刻まれ、2人の偉業は永く語り継がれることとなった。
そうして平和が訪れたノジバイト王国の片隅にある、とある小さな村では。
「お~い、今日はウサギが罠に掛かってたぞ」
「あら、立派なウサギね」
「いやぁよかった。3日ぶりの獲物だ」
「罠に頼らず、自分で狩りに行けばいくらでも獲れるでしょうに……」
「その分時間が掛かるじゃないか。その間にお前に何かあったら困る」
「何もないわよ……仮にあったとしても、野盗程度に負けたりしないわ」
「お前はもっと自分の身を気遣え。もう自分1人の体じゃないんだから」
「もう、心配性なんだから」
やたらと腕っぷしが強くて過保護な猟師と、やたらと立ち居振る舞いが上品で貞淑なその妻が、穏やかな暮らしを送っていた。