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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

僕が人を殺すまで

作者: ゴリラくん

「全ての命は等しく尊い」


 昔、誰かがそんなことを言った。信じて疑わなかった。どんな人間にもどんな生命にも価値はあり、無駄になる命などひとつもないのだと、息をするように当然のこととして受け入れていた。


 だけど、本当にそうなのだろうか。

 大学の講義室、その最後列で僕は人知れずそんな思いにふける。講義の内容などまるで頭にない。マイクを持った初老の男性が何かを語っていることはわかるが、音として認識されるだけで言葉としては処理できない。


 上の空だ。それは周囲の学生も同じだろう、右手に携えた文明の利器を注視するばかりで教授になど目も向けない学生、唾を撒き散らしながら隣席の者と話す学生。後列にいるのはそんな輩ばかり。形は違えど誰もが共通して、与えられた学習の機会から目を背けている。


 地獄のような光景だ。

 何故教授は何も言わないのだろうか。


 前列では黒髪の学生たちが教授の話に頷きながら必死でペンを走らせている。きっとこれまで努力してきたのだろう、心なしか教授の言葉は彼らにのみ向けて放たれているように思える。一方、僕の隣では金髪の学生が誰々とヤッただの、次の飲み会はいつにするだの、そんな話ばかりをしている。悪目立ちする頭髪とは裏腹に、その学生たちは教授の眼中にないようだ。


 こうした場所に居合わせると、つくづく思う。命の、ひいては人の価値は平等などではないのだと。

努力を積み重ねてきた者と、本能に支配され、楽な方へ楽な方へと流されてきた者。その命の価値が同等なはずがないし、同じであっていいはずがない。


 これは何も大学に限った話ではない。

 人を殺した犯罪者と、人を救った聖者。

 嘘をつき他人を欺く者と、裏表のない清らかな人間。


 どちらが善でどちらが悪か、どちらがより価値ある存在なのかなど小学生にでもわかることだ。

 しかしながら、こうした考えを重ねていくうちに、僕はどちらもどうでもいいことであると思うようになった。それは思考停止ではなく、単に気が付いたからだ、善も悪も、命の価値も、所詮人が定めた一方的な価値観でしかないのだと。


 簡単な話だ、地球という惑星に住む生物はみな生きるため、子孫を残すため活動をしている。それは人も例外ではない。そこにあるのは「生きるか死ぬか」だけであり、善悪や無益有益の判断は人が後天的に定めたもの。間違ってもこの世に現れた神が「この世界では人を殺すのは罪です」などと地球のルールを語ったわけではない。


 であれば、前列で真面目に講義を受ける者も後列で欲に溺れる者も本質的には何も変わらない。そこにあるのはただ生きているという事実だけ。善も悪も無益有益もない。


 命の価値が平等と言うのなら、それは等しく無価値という意味での平等だろう。断じて全ての命は尊い、という意味ではない。


 所詮人が決めたルールであり、人が決めた価値観。そう考えると自分が何のために産まれてきたのか、何をすべきなのかがわからなくなってくる。


 たとえば、僕が誰もが憧れる大金持ちになったとしよう。多くの人間を救い、社会に貢献し、もしかしたら歴史に名を残す人間になるかもしれない。


 でも、そうなったとして何だと言うのか。


 逆に歴史に名を残す大犯罪者になったとしよう。それでもきっと、僕は「だから何なのだ」と口にする。


 何故ならば、どうあっても最後には死ぬさだめなのだから。善も悪も、価値もなく、何を残しても関係がない。産まれてきたことにも意味はない。


 そこに意味を見出すのが人生だ、と言う人間がいるが、死ねばその意味すらも自分の中には残らない。永遠の無になってしまう。


「うーし、帰るかぁ〜!」


 やがて横から飛び込んできた声が僕の思考を吹き飛ばした。周りを見れば学生たちが荷物を持って立ち上がっている光景が目に入る。あぁ、講義が終わったのかと、その時になってようやく理解した。益体もない無駄な思考は、どうやら講義の終わりに気付かないほど深みにハマっていたらしい。金髪の彼らでさえ気が付いたというのに、どうやらこの空間で誰よりも人の話を聞いていないのは僕だったようだ。


 急ぎ荷物をまとめて僕もまた講義室を立ち去る。あまりランクの高い大学ではないとはいえ、都内に位置するだけあってひとたびキャンパスを出ればそれなりに賑やかな街並が目に入る。


 蟻のように交差点に群がる人、派手な光を撒き散らすビルのスクリーン。路上ライブの音は近場のゲームセンターから漏れる騒音と混ざっている。あまりにも賑やかで、どこに行っても何かがある世界。街を歩く若者たちの表情はとても活き活きとしている。


 けれど、僕にはその何もかもが無意味で色のない退屈なものに見えた。

 歌っている彼も、働き盛りのサラリーマンも、所詮は無価値に存在しいつかは消えてなくなる存在なのだから。


 何を必死に生きているのだろうと、冷めた目で見下してしまう自分がいる。達観したところで僕もまた彼らと何も変わらない無価値な存在だというのに。

 ああ、何もない。

 僕は空っぽだ。

 夢も希望も目標も、日々を彩るものすらない。

 なんとなく生きて、なんとなく勉強して、とりあえず就職に有利だからというだけで大学に進学した。そのくせ、やりたい仕事なんてひとつもない。自分が何に興味を持っているかすらわからない。


 つまらない。面白くない。


「お兄さんお兄さん」


 適当に通りすぎた店の前で作り物の笑顔を貼り付けた男が声をかけてきた。


「なんでしょうか」

「今うちの店でこういうフェアをーー」

「すみません、興味ないです」


 すぐに立ち去った。

 この街を歩いていればよくあることだ。客引き、詐欺、ナンパ、何もかもが横行する街。


 でもやはり、僕にはそれらが無機質に見える。

 僕は何のために生きているのだろう。

 まるで灰色だ、全てがつまらない灰色のように見えてしまう。


 きっと僕はこのまま生きて、人生に意味を見いだせずに死んでいくのだろう。

 なんとつまらない、なんとくだらない人生。


 ーーそう思っていた時だった。


 遠くから女性のものと思わしき悲鳴が聞こえてきた。

 その悲鳴すら僕には退屈な灰色ではあったが、特に理由もなく流されるように声の方向へ足を運んだ。


 やがてたどり着いたそこは交差点の中心で、見物に来た人間が距離をとりつつも壁のように「何か」の周りを囲っていた。


 灰色の壁たちが邪魔でその何かが見えない。どのみち僕にとっては別にどうでもいいことではある。しかしながらどうでもいいが故に、理由もなく壁に阻まれたそれを見たくなった。野次馬精神、というやつだろうか。


 灰色の人々を押し退け、僕はようやく隠れて見えなかったそれを目にした。

 そこにはーー血の海が広がっていた。

 灰色だった世界に、その色はあまりにも刺激が強かった。


 あまりにも赤く、あまりにも凄惨。全てのものがつまらない灰色に見える僕ですら眉をしかめるほどの赤。


 見ればその赤色は横たわる男の腹部から絶えず漏れ出ていることがわかった。そのすぐ傍には血塗られた刃物を握った女の姿が。


 一体女は何を思い何を考えこの凶行に及んだのだろうか。僕は刃物から腕、腕から肩へと徐々に視線をすべらせ女の表情を窺う。


 女は、笑っていた。


 返り血のついた頬を愛おしげに指でなぞり、それから手に持っていた刃物を再び突き下ろした。何度も、何度も。

繰り返されるたびに僕の視界は鮮烈な赤で染まっていく。


 それは、退屈な灰色などではなかった。

 灰色の人間たちの中で、その女性だけは他の何よりも鮮やかで、誰よりも幸せそうだった。


 やがて訪れた警察によって女性は取り押さえられ、ざわつきを残しながらもすぐに事態は沈静化した。

 家に帰った僕の心臓はまるで早送りでもしたかのように高鳴っていた。目を閉じればあの時の光景が鮮明に蘇る。


 あの女性の、あの幸せそうな表情が頭から離れない。

 あれはそう、まるで「それをするために生きてきた」かのような表情。飢えた動物が餌に辿り着いた時と同じだ。あの女性はそれをするため、餌を貪り食うためだけに体を動かじていたのだ。全てが無意味に見える僕とは違う、あの女性は間違いなく、あの行為に意味を見出していた。


……わからない。


 僕にはまるでわからない領域、別の世界の出来事のようにも思える。

 全てが灰色に見える僕と、真っ赤な彼女。

 この差は一体何なのだろう。どこで、どんな差がついたのだろうか。


 どうすれば、僕の世界にも彼女のような鮮やかな色が出せるだろうか。

 考え込んでいると、自室のドアを叩く音がした。


「もうすぐご飯できるよ」


 母だ。開いたドアの向こうから流れてくる空気は母特性カレーの香りを帯びている。

 ああ、しかし、灰色の匂いだ。


「わかった」


 母に言われるがままリビングに赴くと、台所に置かれた包丁が目に入った。

 ーー高鳴っていた心臓が、より勢いを増したのがわかった。


「もうすぐできるから、待ってて」


 そう言って台所に戻る母の腹部を僕は凝視していた。あの中にはきっと、色鮮やかな赤が詰まっているのだろう。

 心臓の鼓動はますます加速していく。


 あの女性が男を刺したまでの過程も、何故恍惚の笑みを浮かべていたのかは僕にも、誰にもわからない。彼女のみぞ知ることだ。

 ひとつだけわかるのは、彼女はまぎれもなく色のある世界にいるということ。


……そうだ、そうじゃないか。


 たったひとつだけ、彼女の気持ちを理解する方法があるじゃないか。この世界に色をつける方法があるじゃないか。


「母さん、今日は僕も手伝うよ」


僕は台所に入ると、母の代わりに包丁を手に取った。


「あら珍しい。ありがとうね」


 息子からの久しぶりの親孝行に頬を緩めただろう母を見て、僕は心底うんざりした。灰色だ。つまらない。

 しかし同時に、好奇心が湧き上がってきた。


 注視するは母の腹部。決して外さないよう、確実に行えるよう幾度か脳内でその瞬間を想像する。

 ああ、灰色だった頭の中に色が広がっていく。


 まぶたを閉じるとまたあの時の光景が脳裏をよぎった。好奇心が収まらない。こんなにもわくわくしたのはいつぶりだろうか。


「さようなら」


 僕は、力強く刃物を握りしめた。

 ――その瞬間、脳裏に浮かぶ女性が僕に笑いかけたような、そんな気がした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 退屈な日常から一転、狂気に満ちたラストにゾクリとしました。 この物語の「僕」に限らず、ほんの些細なきっかけで人は変わるものなのかもしれませんね。 それにしても、流れるような美しい文章が読書…
[良い点] ゾッとしました!
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