第四十六話 帝国過去編1 覚醒
現帝国領ロランツ州(元ロランツ王国)王都、一番街。
下半身のみを隠す小汚い布を巻き、鎖に繋がれたボクは変わり果てた店の外に広がる市場を見渡す。
ほんの数か月前までは、他国から仕入れた数々の珍しい交易品を売り買いしていたが、今はどの店も一様に同じ商品を手掛けている。
「どうです、この娘は? 元は名のある貴族の娘でね。この通り見た目もいいし、夜の方もちゃんと仕込んでありますぜ」
スリをするための狩場なので、ボクもよくここを訪れていた。以前は、何でも買える国一番の市場と呼ばれていたのが嘘のように、今は奴隷しか買うことができない。
市場を訪れたお客が奴隷を吟味できるように、店の前には奴隷を立たせる台があちこちに並んでいる。
労働用の需要が高い男性の奴隷は腰だけ布で巻いた服装をさせられて、女性の奴隷は、傷の有無をすぐに調べられるようにするためか、薄い衣を身に纏っていた。
とても惨めな光景だった。
この場所は、元々ボク達の国だったのに。笑顔と活気溢れる場所だったはずなのに。
ボクが住んでいた国、大陸南部にある小国ロランツ王国は、強大な軍事力を持つ大国バイキング帝国との戦争に負け土地も、財産も、名誉も全て奪われ、王族は皆殺しにされ国民は奴隷となった。
奴隷を売る商人は、バイキング帝国の商人、お客は帝国の貴族や軍人。そして彼らが売り買いする商品は、征服したこの国の民だ。
戦う前から帝国に寝返っていた一部の商人や貴族は例外だが、それ以外の国民は奴隷狩りに捕まった者から、身分に関係なく帝国の所有物と化した。
父や息子は、戦場の最前線で戦う兵士や過酷な鉱山で働く労働力代わりに、母や娘は娼館や貴族の慰み者として、奴隷が山ほどいるせいか、野菜や肉と同じ値段で売られていった。
あちこちから、大切な家族を引き裂かれた悲痛の叫び声が何度も響くが、奴隷商人が鞭を打つとピタリと止んだ。
ボクは幼い頃に山賊に家族を殺され王都のスラム街をネズミのように生きてきて、失う物がないので、他の奴隷のように嘆き悲しむようなことはなかった。
それでも、周囲の状況を見れば、自分が、どんな人に買われて、どこに連れて行かれるのかという不安はある。
だが、幸いなことにボクを買ってくれた人は、他のお客に比べるとかなりマシな部類に入る人だった。
「こ、これは、これは、よくぞお越しくださいました」
普段は、威張り散らしながら奴隷に鞭打つ店主がやってきたお客にペコペコ頭を下げていた。
そのお客は、店主と会話を済ますと、真っすぐにボクの方に近づいてきた。
「これは悪くない、中々の魔力を秘めている。近頃は奴隷を磨くという言葉も流行っている。よし、コレにしよう。名はあるか?」
特徴的な白銀の髪をした男だ。
その佇まいと煌びやかな服装から一目で身分の高い人だとボクでも分かる。
名を尋ねられたが、ボクはこの店で一番安い商品で、店主から一日一回しか食事を与えられていなかったため、すぐに声は出なかったが、それでも懸命に声を振り絞った。
「ネ、ネオ」
孤児だったボクは自分の家名は知らない。
どこの国の平民でも持つ家名がない時点で、ボクは奴隷商人に捕まる前から奴隷だったかもしれない。しかし、銀髪の男は優しく微笑んでくれた。
「ネオ……。いい名前だ。私の名前はシド・カルスタン。今日から君の主人になる男の名前だ。覚えておきなさい」
建国から二百年、バイキング帝国は第十二代皇帝キショウの治世で、繁栄の絶頂期に迎えていた。
その最大の立役者こそが、皇帝キショウの学友にして、ユグド王国であれば近衛騎士団長の地位に相当する帝国主席魔法官を務める名門貴族カルスタン伯爵家の現当主、シド・カルスタンである。
今の彼は、皇帝に次ぐ権力者にまで登り詰めたが、その人生は決して順風満帆ではなかった。
というのも、シド・カルスタンは、帝国有数の魔法使いの名門貴族の嫡男でありながら、一般的な魔法使いよりは上だが、その魔法の才能は、世界最強と恐れられた母シギンや、共和国に亡命した妹ロズウェルと比べると大きく劣っていた。
故に、幼少期から、彼がカルスタンの出来損ないと周囲から蔑まれたのは必然だった。
しかし、彼は魔法の才は乏しくとも、それ以外の政治や軍事面では類まれな才能を持ち合わせていた。
一軍の将として、戦場で活躍し数多の国を滅ぼし、魔法使いの実力ではなく、戦場で挙げた実績を持って栄光ある主席魔法官の職を掴んだ。
そして、シド・カルスタンが、帝国軍中将と主席魔法官を兼任した時から、帝国の躍進が始まる。
シドは、次の皇帝の治世でも採用され続けた帝国軍の編成の基礎となる方面軍体制を定め、いくつもの革新的な訓練を取り入れて、軍の刷新を図ると、中小諸国への侵略を開始した。
その勢いに多くの国が呑まれた。共和国やユグド王国のような三強ですら、一時は下手なちょっかいを出すことすら、ためらうほどの怒涛の快進撃だった。
このまま、帝国が世界征服を成し得てしまうのではないのか?と大陸中が恐怖を覚えた。
だが、帝国の領土が、古豪のユグド王国を超えた頃、当時の皇帝キショウが突然病に倒れた。
シド・カルスタンの目覚ましい活躍ぶりにより、当時のカルスタン家の影響力は、良くも悪くも、完全に伯爵家の範疇を超えており、シドや、カルスタン伯爵家の事を、よく思っていない貴族や軍人は帝国内にも多数存在していた。
そのため、シド・カルスタンの後ろ盾になっていた皇帝が病に倒れたと聞いて、そういった人々は、これでようやくカルスタン家が好き勝手にできる時代は終わったと舞い上がった。
そのような空気の中、遠征先の異国の地から急遽帝都に帰還したシド・カルスタンは皇帝の居室に向かう。
「随分と衰えたな、キショウ」
部屋には二人以外誰もいない。旧友を前にシドは身分の壁を捨て、やせ細ってしまった友に言葉を投げかけた。
「ああ、全くだ。最近では食欲も沸かん。昔は、美しい女を見ればすぐに抱きたくなったが、今はそんな気も全く起きん」
宮廷医師の見解では直ちに命に別状があるわけではないが、今のまま、食事を取らない状態が続けば、遠からず死ぬと警告を発していた。
己の死期を悟った皇帝は、自分の代わりに戦場で戦っている友を呼び寄せて、あることを告げる決意を固めていた。
「シドよ。学生の頃、余と共に誓ったことを覚えているか?」
「勿論だ。その誓いを果たすために、俺は今日まで戦ってきた」
二人はかつて誓った。大陸を平定して争いのない世界を作ると。
キショウは玉座から国を導き、シドは戦場で皇帝の覇道を妨げるものを打ち倒すと。
シドはその理想のためにその身を捧げてきた。そのことは国の誰もが認めている。だがしかし、もう一人の盟友は……。
「なあ、シド。もう止めないか? 戦いは止めにしよう」
「何だと?!」
かつて同じ夢を共有した友が夢を諦めろと言ってきた。シドは大きなショックを受け、問いただそうとするが、それよりも先にベットに横たわっていた皇帝が起き上がって泣き叫んだ。
「もう無理だ。余には耐えられない! 今日まで帝国がいくつの国を滅ぼしてその国の民を奴隷にしてきた?! お前は知っておるか?! 今では奴隷の方が帝国人よりも多いのだぞ! 帝国に憎悪している奴隷共が反乱を起こせば余も帝国もあっという間に滅び去る!!!」
征服した国の民を奴隷に落として、目覚ましい功績を挙げた奴隷は名誉帝国人として扱う。それが、労働力を奴隷に依存している帝国が奴隷に送る飴と鞭だ。
四代皇帝の頃から始まったこの国策は、近年、次々と他国を滅ぼすシドの活躍により、帝国を代表する法として国の内外に広く知れ渡っている。
その結果、急激な領土拡大により、元来の帝国人だけでは国を維持できなくなり、今では、奴隷無しでは帝国そのものが成り立たなくなってしまっている。
シドも当然、自国の現状は理解している。が、皇帝ほど深刻には捉えていなかった。
「今日まで大規模な奴隷の反乱は起きていない! 心配し過ぎだ」
彼は、優しく宥めるつもりだったが、皇帝の震えは止まらない。
「そうだ! その通りだ! 帝国軍は強い。負け知らずの帝国を相手に反乱を起こす馬鹿はいない」
皇帝が叫ぶように、帝国は建国以来、連戦連勝。
ユグド王国や共和国などの、他の三強に黒星を付けられたことはあるが、国の屋台骨を揺るがすような大敗はなくささいな国境の小競り合い程度だ。そして、それ以外の中小諸国に、戦争で負けたことなど一度としてなかった。
今の帝国の国力から考えれば、中小諸国を相手に遅れを取る可能性は非常に低かったが、それでも何が起きるか分からないのが戦争だ。
そのたった一度の敗北から生じる国の崩壊を、皇帝は非常に恐れた。その理由を彼は語る。
「シド。君は、奴隷市場に足を運んだことはあるか? 余は、最近、お忍びで行った。そこで見た。使い捨て前提の道具のような扱いを受けている奴隷共は、従順な顔をしつつも帝国の崩壊を切に願っておる!」
勿論、シドも奴隷市場にはよく赴き、奴隷達に反骨心があるのは知っていたし、帝国が征服した国にしたことを考えれば当然だろうと考えている。
だが、この世は所詮、弱肉強食の世界だ。
シドは帝国が勝ち続ける限り、奴隷達が反旗を翻すことはありえないと信じていたし、仮に奴隷が反乱を起こしても、帝国軍が負けるなどありえないと思っている。
それに対し、皇帝の方は、シドほど精神的には強くなかった。
昔は、今のシド以上に、勝者は何をしても良いと考え、奴隷同士を殺し合わせる見世物を開き直々に鑑賞していたほど好き勝手やっていた。当然、奴隷の心など微塵も考えてこなかった。
そんな、奴隷など道具以下と信じて疑って来なかった男が、今や、帝国人に数で勝る奴隷達に恐怖していた。
「そうだ!奴隷制度を廃止にしよう。征服した土地も返して、対等な同盟を結ぼう! 彼らの憎悪の火が収まるまで、謝罪と贖罪を繰り返すのだ!」
「そんな事できるわけないだろう。もはや帝国は奴隷なくして成り立たない。奴隷を解放すれば一瞬で国が亡ぶぞ。それに、我々がどれだけ謝罪しても、虐げられてきた奴隷達が我々を許す日は来ない!!」
現実的に考えて奴隷解放など不可能だ。
目を覚ませと旧友の提案に異を唱えようとしたが、これはもう無理だと、シドはすぐに止め、覚悟を決めて杖を皇帝に向けた。
「な、何を?!」
突然杖を突きつけられて、青ざめる友に、シドは冷たく言い放った。
「安心しろ。あの日の夢は必ず成し遂げる。だから、もう休め」
閃光が走り、皇帝は息絶えた。
残りの人生を皇宮で怯えて過ごすよりは、今ここで死んだ方が楽だろうという情けもあるが、それ以上に今の状況下で、国のトップが奴隷廃止や各国との融和を叫ぶ事を危惧したシドは、自らの手で友人に引導を渡した。
「次の皇帝は、些細な事に捉われない、人形のような者にしなくてはな」
シドは宮中の人間の口止め工作を考えながら、そんな言葉を漏らした。
翌日、皇帝の崩御が発表された。
元々、病に倒れたと公表されただけに突然の崩御に疑問を抱く者はいなかったが、反シド派の人間は素直に喜ぶことはできなかった。
何故なら皇帝は遺書を残していた。
その中には、シド・カルスタンを帝国軍総司令官である元帥にすることと、次期皇帝を自分の末娘にすることが明記してあった。
シドの元帥昇進は時間の問題と思われていたので、それほど反対の声は上がらなかったが、もう一つの末娘を次期皇帝にするという点には多くの者が反対した。
理由は様々あったが、一番の理由は、当時、七歳の小娘に国を任せることはできないという不安だった。
しかし、自分にとって都合の良いように遺書の中身を改ざんしたシドは、強引に新皇帝の即位を押し進める。
それほどまでに、この時のシドの権威は誰も止められないほど増大していた。
こうして、新たな皇帝が誕生した。
帝国中が、シド・カルスタンの言うことを承認するだけの傀儡皇帝が生まれたと、上辺だけの祝福をした。
一部では、早くもお人形皇帝と揶揄する声も上がっていた。
普通に考えれば、皇帝になるのは不可能だった少女。
第十三代バイキング皇帝、カリン・シンドウ・バイキングが歴史の表舞台に立った瞬間だった。
シド様に買われてから、数年が経過した。
最初は不安もあったが、ボクには魔法の才能があり、シド様や魔法に秀でたカルスタン家の皆様の指導の甲斐あって、今では一人前の魔法使いを名乗れるほどに強くなった。
それどころか、もし今、魔法使いの力を失ったとしても他所でやっていけるほど、きちんとした教育を受ける機会さえ頂いた。
地獄から救い出してくれたシド様と、奴隷では絶対に受けることが叶わない高度な教育を施してくれたカルスタン伯爵家の皆様には生涯頭が上がらないだろう。
この恩義に報いるために、ボクは懸命に戦った。
帝国軍総司令官であるシド様直属の魔法使いとして、数多の中小諸国の敵将の首を獲った。
残念ながら、強敵と見なされるユグド王国のフェンリル傭兵団や近衛騎士団、共和国の精鋭部隊など、勝てない敵はまだまだいるが、いつの日か、彼らの首もシド様に捧げたい。
シド様には、本当に本当に心の底から感謝している。
だけども、現状に不満がないかと言われると嘘になる。
戦場に限った話ではないが、帝国のために目覚ましい功績を出した奴隷は名誉帝国人になれる制度があり、功績を認められた今のボクも、名誉帝国人の仲間入りを果たしていた。
名誉帝国人になると、形式上は、奴隷の身分から解放され帝国人と同等に扱われて、裁判を起こす権利や、福祉サービスを受けられる。それどころか、数は極めて少ないが、将軍になった者や貴族の爵位を貰った者もいる。
だが、あくまで奴隷と区別されないだけで、差別は受ける。
「おい、どうして奴隷が軍議の場にいる!」
シド様がいる軍議でそんなことをいう将校はいないが、後ろ盾であるシド様がいなければ、どれだけ活躍しても仲間とは思ってくれない。
「申し訳ありません、お客様。あちらのお客様が、奴隷と同じ部屋でお食事はしたくないと申しておりまして」
休日に一人足を運んだ帝都の高級レストランでは、そんな言葉を投げ掛けられて店を追い出された。
帝国のために頑張って名誉帝国人になっても、奴隷は奴隷。どうあっても絶対に対等には扱われない。
それは、シド様を含めたカルスタン家の皆様も同様だ。
近年、帝国では奴隷を磨くという言葉が流行している。
帝国に負けた国の人間は、帝国人よりも劣った人間。ゴミ屑のような存在だ。そんな連中をどれだけ立派な人間にできるか競うという最近流行りの帝国貴族の娯楽から生まれたらしい。
そう、シド様も教育を施してくれたカルスタン伯爵家の皆様も、この戯れに参加するために、ボクを鍛えてくれたに過ぎない。
なので、ボクが差別を受けているという話を耳にしても何もしてくれない。
彼らは、犬や猫に芸を覚えさせる感覚で、ボクに良くしてくれるだろう。
そのことに対して、怒りがないと言えば、嘘になるけど、賃金も貰えずに、奴隷としてどこかの戦場で肉壁のように扱われたり、炭鉱で休みもなく働かされるよりは遥かにマシだ。
だから、差別されることを受け入れるつもりだった。しかし、それから更に数年後、ボクは賢者の加護を得て、その考えを改めることになった。
当然だろう。魔王を倒すために女神に選ばれた七人の使徒になったのだ。
女神のお墨付きをもらった以上、元奴隷という恥ずべき過去も全部帳消しだ。
当然、差別もなくなるとだろうと信じ切っていた。
しかし、一族自体が魔法に秀でて、初代当主が賢者だったと言い伝えが残るカルスタン伯爵家の人間は、ボクが賢者の加護を得たと判明すると、蔑視に加えて敵視までするようになった。
賢者の血筋でありながら、自分達は女神に選ばれず、飼っていた奴隷が女神に選ばれたことへの当てつけだった。
一族の長老であるシギン婆様を始め、年配の人は、親の仇のように睨んでくる。
それならば、若い人はどうだろうか?
ボクよりも、五つくらい年下のシド様の娘であるエシャル様に尋ねた。
次期当主筆頭である彼女はより高度な英才教育を受けているが、魔法の講義の時だけは共に学んだ仲だ。魔法の腕前はボクの方が上だったので、時折、凄いと尊敬の眼差しを向けてくれる可愛いお姫様だ。
「エシャル様。ボクと結婚してくれませんか?」
まさか、拒否されることはないだろうと自信たっぷりに言った。
エシャル様との仲は良好だし、彼女も賢者の力の価値をきちんと理解できる頭脳があるとても冴えた子だ。こちらは奴隷だが、賢者になったおかげで、カルスタン伯爵家の人間と同等かそれ以上になっているので、きっと了承してくれるはず。
仮に、一族の人間が反対しても、当人同士が相思相愛ならば、まあいいだろうと容認する風潮が漂うだろう。
そう考えていただけに、エシャル様の言葉には耳を疑った。
「申し訳ありませんが、お断りさせて頂きます」
「ど、どうして!」
「私はカルスタン伯爵家の次期当主です。私には自由の恋愛は認められません。私一人の意志で結婚相手を決めることなどできません」
「ならば、シギン様やシド様がお認めになられた場合は?」
「その時は、ネオ様と生涯を共にする覚悟を決めましょう」
この場では断れたが、言質は取ったとばかりに、ボクは真っ先に同じ屋敷に住むシギン様の下へ向かった。
これまでの経緯を話して、シギン様の判断を待つつもりだったが、シギン様はボクの言葉を聞き、一切悩むことなくすぐに激怒した。
「ふざけるな!! 貴様のような奴隷に大切な孫娘をやれるか!! 元奴隷を次期当主の婚約者にするなど、他家が知ったら、国中の笑い者になるわ」
「で、ですが、ボクは賢者なのですよ」
「ふん。奴隷の分際で賢者に選ばれただけで、我らと対等と思ったか。そもそも、お主如きが賢者に選ばれたこと自体が何かの間違いじゃ」
シギン様にとって、ボクは息子のシド様が戯れに買ったペット。カルスタン伯爵家にとっても、流行に乗り遅れないように、芸を仕込んでいただけだった。
つまり、どれだけ芸を覚えても、大切な孫娘を犬畜生にあげるつもりは毛頭なかった。
それに、カルスタン伯爵家の人間を差し置いて、賢者に選ばれたことに強い怒りを抱いていたことを改めて思い知った。
すぐに部屋を追い出されて、屋敷の使用人達に笑われる羽目にあった。
その翌日、屋敷にシド様が来て、ボクに告げた。
「悪いが、母上がお前の顔を見たくないとおっしゃっている。すぐにカルスタン家から追い出せとも言っている。お前の新しい職は用意した。今すぐにそちらに行ってくれ」
さっさと出て行け、暗にそう告げるシド様に対して、一縷の望みを掛けて尋ねた。
「あ、あのエシャル様との結婚の方は?」
あの時の必死になって怒りを堪えているシド様の顔は一生忘れることはないだろう。
「ああ、話は聞いた。失望したよ。賢者に選ばれて調子に乗ったのか? 君がそこまで愚かな男だったとは思わなかったよ。しかし、君にはまだ利用価値はある、これからも帝国のために職務に励んでくれ」
シド様が用意してくれた新しい役職は、帝国魔法官と呼ばれる、皇帝を守る大変名誉ある組織の一員だった。
トップが主席魔法官であるシド様でなければ、賢者といえど、名誉帝国人であるボクでは就くことの叶わぬ役職だが、周囲から賢者を放り投げたという見方をされずに、首輪をつけたままカルスタン家から距離を置かせるには適した地位だ。
魔法官の主な仕事は、皇宮と皇帝の警護だ。
執政のほとんどをシド様の派閥が牛耳っているとはいえ、皇帝が認可しなければ、帝国の各機関は動かない。
幼い皇帝は毎日一回、玉座の間で、大臣達が持ってくる書類に目を通し説明を聞いた上で、「よきに計らえ」と一言いう。
それだけが、この小さな少女に与えられた仕事だが、お飾りでも、皇帝はこの国に必要不可欠な存在なのだ。
ここはどういうことか?と質問することもないし、これは認められないと却下することもない。
彼女は、ただひたすら、シド様の野望の実現のために、大臣たちが持ってきた国の方針や政策を承認するだけである。
これでは、傀儡皇帝だの、シド・カルスタンのお人形と揶揄されても仕方がないことだなと納得してしまう。
シド様も、主席魔法官でありながら、皇宮に一切立ち寄らず、元帥として働いているところから分かるように、彼女は死ぬまでシド様の野望を叶えるための道具として、生き続けるのだろう。そう考えると、この幼き少女に、少しだけ憐みを覚えた。
しかし、ある日、帝国軍が武器を購入している共和国最大の商会ゼラシード商会からの使者がやって来た日から、お人形と蔑まれていた皇帝が少しだけ変わった気がした。
一か月後、夜遅くに、ボクは使用人に案内され皇帝の寝所に赴いた。
魔法官とはいえ、未婚の皇帝が男性を自分の寝所に呼びつけるなど、本来、絶対にあってはならない事態だ。
何事かと緊張して部屋に入る。
皇帝に相応しい調度品が並ぶ豪勢な寝室だったが、今の皇帝の現状を踏まえると、さしずめ、鳥かごのようにも思える。
少しだけ、甘い匂いが漂うのを感じながら、ソファーに座るように指示され対面した。
謁見の間で、職務中の皇帝は、少しでも品位を出そうと何枚もの衣装を着ているが、今は年端もいかない子供が着る寝間着にしては生地が薄い衣を身に着けている。
変に着飾っていないので、お人形のように見えず、歳相応の小娘に見える。
こんな子供に、情欲を駆り立てられることはないだろうが、部屋には現在、ボクと幼い皇帝しかいないので、粗相をしないのように十分に注意を払う。
思えば、魔法官になってから皇帝と直接会話するのは、これが初めてだった。
「一体どのような御用でしょうか?」
ボクの問いに対し、皇帝は無言のまま、一冊の本をボクに手渡した。
「少し読んでみるのじゃ」
普段とは違う口調に少し驚きつつも、言われるがままに表紙を開き、中身を読んでみた。
数分後、一通り、目を通したボクは、率直な感想を述べた。
「これは帝国の機密文書か何かですか?」
本には、現在の帝国の経済状況。各貴族の資産。軍の予算配分。貴族の性癖や置かれている立場や弱みなど、表には公表できないような機密情報が、可愛らしい動物の挿絵と共に、子供でも理解できるように、分かりやすく丁寧にまとめられていた。
パッと見は絵本の部類に入るが、この本の内容を公開すれば何人かの大臣の首が飛ぶくらいには重要な事が記されている。
もしくは、帝王学一環なのだろうか?
それならば、随分と手の込んだことをするなと感じるも、傀儡の皇帝とはいえ、目の前の小娘は一応、この国のトップだ。
こういった情報を手元に持っているとしても、何ら不思議ではないと思っていたのだが、ボクの問いに対して、皇帝は予想外のことを言ってきた。
「数日前に、共和国のゼラシード商会の使者が来たじゃろう」
「ええ、確かユーリ・メルクリアとかいう若い男性が代表で、侍女たちが美男子だのと騒いでいましたね」
その日は丁度、非番だったのでボクは直接見ていないが、侍女や、同僚の魔法官達が、他の人間とはオーラが違うなどと言っていたため、ボクも名前だけは記憶に留めていた。
「その本は、そやつが持ってきた献上品の中に紛れておった。しかも妾に献上する共和国産の上質な生地で編まれた下着の中にな」
「何ですと!!」
献上品の中に、危険物がないかチェックするのも魔法官の仕事だが、流石に、皇帝の下着までは確認できない。
そういった物は皇帝の身の周りの世話をする侍女たちの仕事で、偶然、新入りの侍女が、子供向けの絵本が手違いで紛れたんだろうなと判断し、本の中身も見ずに直接、皇帝の元に持ってきたそうだ。
この本を献上してきたユーリ・メルクリアが、確実に皇帝にこの本を見て欲しかったことが伺えるが、そんなことよりも今は重大な問題が浮上していた。
「少しお待ちください。ということは、共和国はここまで帝国の情報を掴んでいるのですか?」
皇帝は小さく頷いた。
「ああ、じゃが、共和国の脅威よりも、妾は重要なことを知った」
ボクとしては、共和国の恐ろしさについて語りたかったが、皇帝の興味は別のところにあった。
国を統べる王として、貴族の子弟以上の高度な教育を受けているといっても、幼い皇帝が今日まで学んできたのものは、貴族社会の作法や、読み書きやダンスの踊り方などがほとんどで、国の政治や経済に関わる内容のことは何一つなかったそうだ。
だからこそ、この本に書かれていた内容は、皇帝の目を覚まさせるに足るものだった。
「妾が世界を何も知らない子供であることは自覚しておる、じゃがこれはない。シド・カルスタンのことは信頼していたが、これでは奴こそがこの国の真の皇帝ではないか」
カルスタン伯爵家でお世話になっているボクは、前から知っていたが、シド様は、カルスタン家を含めた自分の派閥の勢力拡大のために、不正を働く外道貴族と手を組んでいる。
場合によっては、彼らの協力を得るために、不正を黙認するだけに留まらず、加担していることもあった。
信じていた者に裏切られたショックからか、皇帝の面子を損なったためか、あるいは、彼女の中の正義心が傷ついたのか。理由は分からないが、目の前の幼き皇帝が悔しそうにしているのはボクでも分かる。
まあ、彼女がシド様のお人形であることは、この国はおろか、大陸中が知っていることで、知らないのは本人だけだ。
ぶっちゃけ、彼女もまたボクと同じくシド様の奴隷だ。なので、少しだけ同情してしまった。
己の立場を自覚してしまうとは、いっそのこと何も知らないまま生涯を終えた方が、彼女は幸せだったかもしれない。
そんなことを頭の中で考えていると、不意に少女は立ち上がり、何と、ボクの身体に正面から抱き着いてきた。
ふくらみのない、まな板のような胸を押し付けられても何も感じないが、いくらなんでもこれは怖れ多いと慌てて引きはがそうとしたが、そうする前に、涙を流しながら、少女がボクの耳元で囁いた。
「すまない。賢者に選ばれたお主を、こんなに粗雑に扱う我が国の無礼を許してほしい」
その言葉を聞き、思わず身体が硬直してしまった。
「お主のような使徒が現れたということは、魔王は既に目覚めている。本来であれば、使徒を優遇して、国同士の争いも止めて、各国が一致団結して立ち向かわなければならんというのに、シド・カルスタンを始めとした帝国の政治を牛耳っている奴らは、この機会を利用して更なる侵攻を企んでいる」
この事に関しては、何も言い返せない。シド様が、魔王が生み出す混乱さえも利用しようとしているのは誰もが知る事実なのだから。
「カルスタン家にも困ったもんじゃ。初代当主が賢者に選ばれたという栄光を引きずって、奴隷として買ったお主が賢者に選ばれてしまったことを妬んでおる。器の小さい連中じゃ」
だが、次の言葉には思わず声を荒げて反論してしまった。
「それは違う!!」
「何が違うというのじゃ。この本にも書いてあったので、密かに妾の手の者にカルスタン家を探らせた。魔法の腕を磨き、幾多の敵将の首を獲り、賢者にも選ばれたが、カルスタン家の人間は一度もお主を認めてこなかったそうじゃな」
確かに事実なので、すぐには言い返せない。それでも、
「でも、シド様以外の者に買われなければ、今日のボクはなかった。あの日、別の人間に買われていたら、魔法の才能を開花する前に戦場や炭鉱に送られて、賢者に選ばれる前にあっけなく死んでいた。それは間違いないはずだ!!」
カルスタン家からすれば、最近流行りをやってみたに過ぎないかもしれないが、その戯れが、今日のボクを作った。
賢者に選ばれても尚、ペット扱いだが、多くの奴隷が使い捨ての道具のような扱いを受けていることを考えれば、ボクは大変恵まれた方だ。
「じゃが、シド・カルスタンは、どれだけ功績を出しても、お主に軍の階級を与えなかった。イェーガー准将を知っておるか? 奴は戦場で名を馳せた元奴隷、名誉帝国人じゃが、正直、彼よりも、お主の方が功績は上だと思うぞ」
「それは……」
イェーガー准将が立派な軍人なのはボクも認めるが、皇帝のいうように、彼よりも僕の方が手柄を立てているという自負はあった。にも関わらず、今日まで未だに一等兵であることに、不満を感じていないというのは嘘になる。
「カルスタン家の人間にとってお主は、他家に見せつける作品じゃ。名誉帝国人になり書類上は解放されても、未来永劫、連中の所有物じゃ。それは、仮にお主が魔王を討ったとしても、変わらんじゃろう」
言い返せなかった。
彼女の言葉には一理あるからだ。
拾ってくれた恩義を返すつもりで今日まで頑張ってきたが、多分、どんなに頑張っても彼らは、ボクのことを同じ人間と見てくれていることはないだろう。
その思考に至り突然、賢者に選ばれておきながら、一生、カルスタン家の奴隷として過ごす未来に恐怖を感じた。
だが、帝国を牛耳るカルスタン家を敵に回して明日はあるのか? 無責任なことを繰り返す皇帝に、怒りをぶつけてしまった。
「では何か? カルスタン家に仕えるのを止めろというつもりか? それとも、アンタならば、カルスタン家やシド様よりも良い待遇を与えるというのか?! お人形の皇帝の分際で一体何ができる!!」
言ってしまった。
傀儡とはいえ、彼女は帝国の象徴。不敬罪で即刻処刑されても文句は言えない。だが、少しだけ気分が晴れたので、ボクは満足だった。
もう悔いはないと思っていると、皇帝は驚きの行動に出た。
「そうじゃな。確かに妾は今、お主を寝返らせようと交渉しておる。じゃが、やはり言葉だけでは、お主の忠誠心の矛先を変えることはできぬようじゃ。かと言って、皇帝でありながら、今の妾にできることはこれくらいしか思いつかぬ」
そう言って、幼き皇帝は、身に着けていた薄い衣の上部を脱ぎ捨てた。
起伏のない胸がさらけ出される。とんでもない状況になったが、歳相応とはいえ、貧相な身体だ。性欲の欠片も沸いてこない。
「皇帝ともあろう者がまるで娼婦だな。そんなみすぼらしい身体では、物好きな下品な貴族しか食いつかんぞ」
権力を奪われた籠の中の鳥とはいえ、皇帝たる者が、安易に色仕掛けに走ったのには、少しだけ失望した。
こんなことしか考えられないようでは、一生シド様の手のひらの中だ。
くだらないと、さっさと退席しようとしたが、当の本人が何も言ってこないことに気が付いて、もう一度、目を向けた。
お人形と揶揄され、権力などないも同然ではあるが、目の前に立つ少女は、大陸三強の一角を占めるバイキング帝国の頂点に君臨する皇帝だ。
また、偉大なる初代皇帝は二百年前に魔王を倒した勇者で、妃は当時の聖女にして、大陸最古の王朝でもあるユグド王国の王女であることを鑑みれば、国の歴史は浅いが、流れる血の尊さは、他国の王家にも引けを取らない。
少なくとも、元奴隷であるボクが、直接姿を拝見することも、ましてや裸体を目にするなどありえないほどの、尊き身分だ。
それほどの人物が、今、元奴隷のボクの前で自らの意志で裸を晒している。
部屋が寒いからではない。恐怖で、身体を小刻みに震えさせながら、その瞳は懇願するようにボクを見つめていた。
例えお飾りでも、皇宮の外の世界に首を突っ込まずに、偉そうに玉座にふんぞり返っていればいい。きっと、奴隷や庶民では考えれないような、満ち足りた毎日が送れるだろう。
あえて、汚いものが蔓延る外の世界に足を踏み入れようとするのがボクには理解できない。
「情けないとは思わないのか?」
「思う。思うが、今の妾にできることは、この貧相な身体を差し出すことくらいじゃ。それで賢者が信頼のおける掛け替えのない仲間になってくれるのであれば、文句はない」
小さな身体は恐怖に怯えているが、その瞳だけは、強い覚悟をみなぎらせていた。
前言撤回だ。
シド様の籠の中で飼われる哀れな少女にしか見えなかったが、流石にここまでの、覚悟を見せつけられては、彼女を、お人形と蔑むことはボクにはできない。
元奴隷とはいえ、こちらもそれなりの誠意を示さなければ恥ずかしい。
「……ボクに何をさせるつもりだ?」
「妾もお主と同じように、シド・カルスタンの奴隷じゃ。我が父と奴が学生の頃に誓った世界征服という野望を叶えるための道具に過ぎない。故に、まず奴からこの国を取り戻す。そして、魔王を倒し、夢半ばに散った奴らに代わって、妾達が世界を支配する」
シド様から権力を取り返すのはまだしも、代わりに世界征服を目指すとは……予想以上に大きく出たな。
「奴隷が主人を倒し、主人に代わってその野望を実現するか……」
「どうじゃ? 協力してくれんか?」
敵は強大。こちらは僅か二人。前途多難で壮大過ぎる野望だが、賢者の力に目覚めたボクが挑む夢にしてはちょうど良いスケールだ。
それに、一生報われない忠誠心を示し続けるよりは、こちらの方が何倍も面白い。
だが、その分、失敗した時のリスクも大きい。今の彼女の身体では報酬としては釣り合わない。
ボクは、皇帝が投げ捨てた衣服を、小さな身体に羽織らせて、報酬の釣り上げを要求した。
「残念ながら、今の君の身体を見て、何一つ欲は沸いてこない。身体を差し出すならば、せめて、あと十数年は欲しい」
「未熟な果実よりも、熟した果実がいいわけじゃな」
「ああ、だから、君がボク好みに成長する前に、この世界を征服しよう。世界を統べる女帝の初めてを戴く、それが報酬だ。だから、それまで似合わない色仕掛けはするな」
「!!」
ボクの言葉を聞き、幼き皇帝は一瞬赤面したが、すぐに泣きじゃくる。
その姿を見て、昔ロランツ王国の市場で見かけた迷子の子供が、親と再会した時のことを思い出した。
数分間、彼女は泣き、涙を手で拭いて、改めて決意を固めた。
「ぐすっ……皇帝たる妾が泣くのは、今ので最後じゃ。シド・カルスタンやまだ見ぬ魔王ですら成し得ない世界征服を成し遂げ、妾は世界を統べる帝王になる!! ついて来い、我が最初の配下ネオ!!」
「了解しました。皇帝陛下」
当時はまだゼラシード商会の情報副部長として、雌伏の時を過ごしていた魔王ユーリ・メルクリアは、想定を超える速度で勢力拡大を続ける帝国の動きを少しでも妨害しようと、時の権力者シド・カルスタンの傀儡となり果てていたバイキング皇帝カリンに一冊の本を送った。
そこには、ゼラシード商会が集めた帝国の重要機密が書かれており、皇帝を差し置いて権力を欲しいがままにするシド・カルスタン派の専横が、克明に記されていた。
さすがに、この本を読んだ幼き傀儡皇帝が即刻シド・カルスタンを処断できるとは思わなかったが、本を読んだ皇帝が余計な知恵を付けて、シドに反骨心を抱き、彼の覇業の足を引っ張ることを願ってメルクリアは本を送った。
当時、帝国が破竹の勢いで中小諸国に侵攻できるのは、帝国の内部にシドの派閥に敵対できる勢力が皆無だったのが大きかった。
それだけに、皇帝が反シド派の筆頭として立ち上がるのが、未だに共和国すら掌握していない当時のメルクリアの理想像だったが、流石にそう上手くいくとは思っていない。
確実に皇帝の手元に届くように小細工はしたが、例え幼い皇帝が目を通し周囲が問題にしても、帝国の政治が揺ぎ、少しでも他国への侵攻が遅れれば、御の字程度にしか期待していなかった。
ましてや、一度だけ謁見した実権を何一つ持たないお人形と呼ぶにふさわしい、あの幼帝がシド・カルスタンと対立するまでに、成長してくれるとはこれっぽちも考えていない。
だが、メルクリアの企ては、半分成功し、半分失敗した。
シド・カルスタンに狙いを定めた魔王の贈り物をきっかけに、傀儡の皇帝は、目を覚ますどころか、魔王すら恐れる怪物として覚醒した。




