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僕と先に死ぬ飼い主たち

作者: 茶々

いわし雲が浮かぶ青く澄み渡る空。3基等間隔に並んだ灰色の煙突。真ん中の煙突から黒い煙が吐き出され、青と白の斑模様の空に靄をかけ、やがて無色透明となり消えていく。初老の女性に抱きかかえられた彼は、彼女の頬から流れ落ちる涙を懸命になめていた。普段は明るく賑やかな彼女の夫、長女と次女も、声を押し殺しながら涙を流している。


1時間ほど経った頃、綺麗な女性職員が待合室へとやってきた。彼は初老の女性に再び抱きかかえられ、待合室から外へと出る。沢山の花や大好きなおもちゃとおやつに囲まれ寝ていた彼の母親の姿はなく、白い骨が丁寧に並べられていた。黄金色に輝く彼の母親の長い尾は、10個に満たない小さな細長い1-2cmの骨片に。40-50cmはあった彼の母親は、白と薄いオレンジ、そして薄灰色の骨となり、白く10cm四方の陶器に納められた。次女は小さな尾骨を1つだけ小さな銀のカプセルにいれ、強く握りしめた。白い陶器の前には、彼の母親の写真が並べられ、線香が焚かれていた。線香から立ち上る白い煙もまた、空へと消えていった。


2ヶ月ほど前に遡るが、彼も彼の母親の様子がおかしいことは分かっていた。夜は彼よりも早く眠りにつき、寝息を聞くこともよくあったが、寝息ではなく咳をすることが多くなった。彼の母親は肺がんだった。それからというもの、咳はだんだんと酷くなり、痰が絡むと呼吸が安定しなくなり、飼い主達が心配して駆けつけるようになった。小型犬だが特徴的な長い胴を座布団に目一杯横たわらせ、一日中眠るようになった。


2日前から彼の母親は寝ることすらできなくなってしまった。咳は酷くなり、自分の咳で目を覚ましてしまうようだった。彼の母親だけでなく、彼自身も、また飼い主たちも一晩中心配そうに見守っていた。彼の母親は飼い主が用意した酸素ハウスを偉く嫌っていたが、積極的に自分から入るようになった。それどころか酸素ハウスから出てこなくなってしまった。あまりに症状が酷くなってきたため、彼の母親を座布団に乗せたまま慎重に病院に連れて行く道中で、彼の母親は静かに息を引き取った。沢山の愛情を受け大切にされていたお陰か、最後は苦しむこともなかった。家に戻ってきた彼の母親は、まるで死んでいるのが嘘のような、いつもと変わらぬ優しい顔をしていた。


目を覚ますと、彼は見たことのない檻の中で横たわっていた。体に力が入らず、立ち上がることができずにいた。頭がボーッとするが、少しずつ記憶が思い出されていく。


彼の母親が死んでから数ヶ月。飼い主の車で連れてこられたのは、いつも通っている動物病院とは違う大きな病院だった。広大な敷地には芝生が敷き詰められ、噴水が大きく水しぶきをあげている。しかし、どことなく殺風景な景色であった。長い胴体を駆使して、車の窓からその景色を眺めているうちに、病院前の駐車場へと到着し、彼は飼い主に抱きかかえられ病院へと入っていった。


中に入ると、受付には沢山の犬・猫とその飼い主たちが順番を静かに待っていた。緑が多く、暖かな場所だ。しかし、飼い主は彼を抱えたまま、待合室を通りぬけ、奥へと進んでいく。一度、病院から出て外廊下を進み、先ほどとは違った無機質な病棟へと入っていく。先ほど通った受付よりも遥かに小さな空間に置かれた2人がけのベンチに飼い主は彼を置くと、備え付けの電話で電話をし始めた。電話が終わると、飼い主もベンチに腰掛け、彼を抱きかかえ、大切そうにキスをした。

「ずっと一緒にいようね。大丈夫だからね。」

彼女は涙を流しながら、何度もその言葉をつぶやいていた。彼はその涙を舐めることしかできなかった。


暫くすると白衣を着た長身の男性が迎えにきた。その後、眩しいライトが照らされる台の上にのせられ、沢山の機械を取り付けられ、麻酔により彼は眠りについた。


体の自由がきくようになり、水が飲めるようになった頃、飼い主が迎えにきた。また涙を流しながら、抱きかかえ顔を寄せてくるので、彼は懸命に彼女の涙をなめた。何があったのかは分からない。彼自身、体調が悪いと思ったことは一度もなかったが、何かの病気があったのだろう。白衣を着た長身の男性が、見覚えのある男性と一緒にやってきた。分子医療の権威でもある飼い主の旦那さんだった。彼もまた白衣を着ていた。家以外の場所で会うと思っていなかった彼は驚きながらも、尻尾を大きく沢山振って、白衣を着た飼い主の旦那さんの元へ走り寄った。飼い主の旦那さんもまた、大事そうに彼を抱え上げ、優しく抱きしめた。


彼らに見送られながら、病院を後にする。来たときとはうってかわって、外は真っ暗だった。車に乗り込むと、安心からか彼はお腹がすいてきた。一吠えし、尻尾を振ると、おやつをもらうことができた。満たされた彼は、来たときと同じように、真っ暗闇ではあるが窓の外の景色を静かに眺めながら家へと帰った。


その日は突然やってきた。


飼い主夫妻、そして飼い主の娘である次女が1日ぶりに帰ってきた。彼から見ても分かるほど落ち込んでおり、疲れきっていた。お腹が空いていたので、空の銀の器を舐めていると、飼い主が食事を持ってきてくれた。飼い主は笑顔で話しかけてきたが、目は真っ赤に腫れていた。


その夜は珍しく、次女も一緒に夫妻のベッドで眠った。彼は、いつも夫妻に挟まれて寝ていたが、この日は次女と飼い主の旦那さんに挟まれる形で眠ることになった。飼い主に抱きつき寝ている次女の背中は小刻みに震えていた。何か悲しいことがあったことは一目瞭然だった。


翌朝から家の中は慌ただしくなった。飼い主たちは常に誰かと会話をしていた。かまってもらうことはほとんどなく、陽が当たる窓際でほとんどの時間を寝て過ごした。更に翌日、ようやく外に連れだされたが、またすぐに6畳ほどの小さな部屋に入れられてしまった。飼い主たちは皆、黒い服に身を包むと、小さな部屋を出て行った。


何時間位経っただろう。ようやく飼い主が戻ってきた。抱きかかえられて入った大きな部屋には、小さな箱のなかに横たわる頬がコケた長女の姿があった。長女の周りには沢山の花が添えられていた。この2-3ヶ月、姿を見せなかった長女を見つけ、彼は尾を大きく振りとても喜んだ。しかしいつものように大好きなおやつをくれるわけでもなく、ただただ静かに目を閉じ眠っていた。すぐに事態を理解した彼は、悲しくなり鼻を鳴らした。


茜色に染まり始めた空に、クラクションの音が大きく響く。沢山の黒い鳥達が一斉に飛び立つ。次女が運転する車に乗り、飼い主夫妻と長女が入る大きな箱を載せた大きな真っ黒な車を追いかけた。暫く走った後、車は止められ、彼を残し次女は車を降りていった。1時間後、次女の代わりに飼い主が現れ、彼を抱きかかえ車の外に出した。夕日は地平線に沈み、あたり一面が青い光に照らされているようにみえた。澄み切った空に大きな一本の煙突から吐かれる煙が消えていく。飼い主の頬から落ちる涙を頭に受け、いつかみた景色に似ていることを彼は思い出していた。長女はその日から家に帰ってくることはなかった。彼自身、長女が二度と家に戻ってこないことを理解していた。


それから数カ月後、次女もまた1ヶ月近く姿を見せなくなった。しかし、やせ細った姿で次女は家へと戻ってきた。尾を大きく振り走って迎えに行くと、抱きかかえ、撫でてくれた。次女は長女の時とは異なり、沢山のおやつを彼に渡してくれた。いつもと同じ優しい次女だったが、飼い主夫妻が次女に話しかけても、一言も話さなくなったことだけは変わってしまった。長女もいた頃に比べ、家の雰囲気はとても気まずく重くなり、彼自身も飼い主夫妻や次女の顔色をうかがいながら過ごすことが多くなった。


長女が亡くなり、30年という月日が経った。彼の飼い主夫妻は長寿を全うし、亡くなっていた。最後まで、次女と飼い主夫妻はギスギスした関係のままだった。次女発信で、口論になっている姿を見ることもしばしばあった。彼は次女と二人で同じ家に住んでいるが、飼い主夫妻が亡くなってからは、次女も落ち着きを取り戻し、穏やかな時間を過ごせていた。


次女が起きる頃、彼も目を覚まし、共にベッドを出る。次女のお手洗いが終わるのを扉の前で待ち、昔は一人で降りることの出来なかった階段だが、今では次女を先導するように自ら降りていく。朝食を共に取り、朝食後は庭を散歩する。庭にまかれた米粒を食べにくるすずめ達を追いかける。仕事へ向かう次女を窓から見送った後は、お気に入りの窓際で惰眠をむさぼる。窓からは太陽が見えなくなった頃、大きな笑い声と共に歩く子どもたちが家の横の道を通りかかるので、吠えて挨拶をする。日が落ち、暗くなってきた頃、聞き覚えのある足音に目を覚まし、玄関へと走る。次女と夕食を共にし、お風呂場から出てくる次女を洗面所で待ち、静かに本を読む次女のふくらはぎに顔を乗せる。涼しくなった頃、次女とともに庭へ出て、用をたす。昔は一人で登ることの出来なかった階段を登り、次女より先にベッドへ入る。次女の寝息を確認し、彼もまた眠りに就く。変わらない幸せで穏やかな毎日。58歳になった次女、そして39歳になった彼もまた、不思議な事に30年前から何一つ変わらない若々しい見た目のままだった。


そうして、また何も変わらない、本当に何も変わることのない1日が始まる。何も疑うことなく、彼は勢い良くベッドを出る。


それから141年の長い歳月が経った。80年前に古くなった家を捨て、次女と彼は今の家に住み移った。透明度は高くないが、吸い込まれそうな濃紺の海。海から少し離れた急斜面を30分ほど登った小高い山の上に、彼と次女の家はある。いつもと同じように次女が起きる少し前に彼は目を覚ます。次女が起きると、彼はベッドから出て、玄関にて彼女を待つ。シルクの寝間着にカーディガンを羽織った彼女と、家の近くを歩く。ここは100年以上も前に、別荘地として栄えた場所だが、今では誰も住んでいない。草木が生い茂った豪邸とその庭で草を食べる野生の鹿達を横目にしながら、いつもと変わらぬ道をゆく。コンクリートで舗装されているおけがか、道路の上だけは草木が生い茂ることなく、歩くことが出来る。家に戻ると、いつもより多くの荷物が届いていた。明日は次女の200歳の誕生日である。荷物を家へと運びこむ。171年前から相変わらず全く見た目が変わっていない次女は、筋力も衰えておらず、沢山の荷物を一度に運ぶ。彼もまた、自分の大好きなおやつが入った小さな袋を口に加えて運べるようになっていた。いつもより重い小さな袋を見ると、見たことのない美味しそうなおやつが入っていた。彼は次女の誕生日が好きだった。代わり映えしない毎日とは違う、ご飯やおやつが待っているからだ。昔は何人かの人が集まり、祝ってくれたからもっと沢山のおやつをもらえたが、ここ70-80年は次女と彼だけで誕生日を祝っている。それでも次女と過ごす毎日は幸せだった。


オーブンからほのかに甘い匂いが立ち込める。誕生日ケーキのスポンジだ。次女と彼の分、2つの小さなスポンジがオーブンから取り出される。大好きなおやつの一つだ。その後も彼女はゆっくりといつもよりも手間をかけて料理をつくる。誕生日前の恒例行事だ。包丁が落ちてくると危ないからと、料理中、彼は次女が見える暖炉横のソファに連れて行かれる。ファンが静かに回る音と、包丁の小気味良い音に包まれ、彼は眠りに落ちていった。


目を覚ますと、彼の横には本を読む次女の姿があった。窓の外に目をやると、夕日が空と海、幾つかの島をオレンジ色に染めていた。次女は本を閉じると、彼を抱きかかえ、浴場へと向かった。決して大きくないが、透き通った黄土色の温泉が彼は大好きだった。オレンジ色の世界は、やがて闇に飲み込まれ、代わりに星々が空に輝きはじめる。次女はこの景色が好きなのか、一緒に湯船に入るときは長い間、外を眺めている。彼の体を丁寧に拭き、ドライヤーで乾かした後も、彼女は珍しく湯船に戻っていき、しばらくしてから、顔を真っ赤にしてリビングへと戻ってきた。


夕食をともに取り終わり、彼女はソファで本を読む。本を読んでいる間、彼女のふくらはぎに顔を乗せ、虫の音を聞きながら、時を過ごす。日付が変わる前に、彼女はリビングの電気を全て消し、冷蔵庫から水を取り出し薬のような何かを口にすると、彼と共にベッドへと向かった。いつもと何も変わらない一日が今日も終わる。彼女の寝息を聞く前に、彼は眠りについた。

誕生日の朝、雨音でいつもより早く彼は目を覚ました。この様子だと外には出ることができない。そう悟った彼は、リビングにあるトイレで用を足し、勝手口から見える外の様子を眺める。雨の日は頻繁に鹿以外の動物たちを見ることができる。彼は次女以外の生き物に会えることを密かに楽しみにしていた。


しばらく雨の中の動物探しに夢中になっていたが、次女がなかなか起きてこない。お腹も空いてきたので、次女の布団を引っ張って、起こそうとする。しかし、次女の布団をベッドから引きずり落としても次女は起きてこなかった。ベッドへとよじ登り異変に気づく。息をしていない。顔をなめるが冷たくなっている。次女の耳元で吠えるが、微動たりしない。


彼は直感的に、次女が居なくなってしまうことを悟った。そうならないように、家中を走り回り、あらゆるところで吠え続けた。雨音に負けないように、誰かが気づいて助けてくれるように、吠え続けた。何度も勝手口の下にある小さな網戸を突き破り、外に出ようと試みた。彼の自慢の長い鼻の先は擦れ、血が出ていた。床や扉には彼の血がいたるところに飛び散っていた。しかし、網戸は破ることができず、彼は最後まで外に出ることはできなかった。


次女が冷たくなって1日が経った。雨は未だに振り続けている。皮肉なことに腹はすいた。キッチンへと飛び移り、2つの小さなケーキスポンジを食べる。1つは砂糖たっぷりの甘いスポンジ。もう一つは砂糖が入っていない香ばしいスポンジ。一口だけ食べた砂糖たっぷりの甘いスポンジをくわえ、次女のベッドへと運ぶ。冷たく青紫色になった次女の顔元に置くが、次女は動かない。決して温まることはないが、その日1日中彼は次女の足元に顔を寄せて1日を過ごした。


雨は振り続けたまま、更に1日が経った。腹が減った彼は、彼女の顔元に置いた甘いスポンジケーキを食べることにした。あっという間にスポンジケーキは彼の胃袋へと消えていった。小さく彼は彼女に向かって吠えた。勿論、彼女が反応することはなかった。


その翌日の朝。定期的に荷物を届けてくれる配達人が家へやってきた。いつも吠えることのない配達人に向かって吠え続けることで彼は異変を伝え、次女は病院へと運ばれた。そして、二度と彼の前に次女は姿を現すことはなかった。


次女は随分前から200歳の誕生日を迎えるこの日に向け準備をしていたようだった。唯一の家族であった彼の処遇に関しては特にしっかりと準備をしており、彼の次の飼い主を見つける条件付きで、全財産を里親募集団体と次の飼い主に相続することを遺書として残していた。


里親募集団体の事務所は、次女と長い間共に過ごした家からそう遠くない場所にあった。そのため、次の飼い主が見つかるまでの間、毎日朝と夕、一人の女性職員が面倒を見に来てくれた。女性勝因は、ここ数年、唯一出来た次女の友人でもあった。彼も、どこか懐かしい匂いが女性職員からしており、親近感を感じていた。今思えば、そのときから次女はこの計画を考えていたのかもしれない。それだけ死を欲していたのだ。里親募集団体の事務所で他の犬・猫達と共同生活を送らず、次女の家で静かに過ごすことができることは、彼にとってとてもありがたかった。毎日、次女と眠ったベッドの上で朝を迎え、日中はソファに移動し、夕方には掛け流されている温泉の入り口までいき沈む夕日を眺め、夜はベッドに戻る。いつか次女が戻ってくる、沢山撫でてくれる、いつもと同じ場所にいればそう思うことができ、彼は少しだけ幸せな気分になれた。


次女が亡くなって2ヶ月ほどして、職員の女性とともに新しい飼い主が迎えにきた。正確にいえば、彼が新しい飼い主たちを迎えることになった。白髪の温和そうな男性と女性の夫婦が、次女と彼が過ごした家に住むことになったのである。彼がこの家に住み続けられるように、というのは次女の強い願いでもあった。ひと目のつかないこの家で、ひっそりと幸せに暮らして欲しかったのである。


こうして彼は、新しい飼い主たちと、次女との思い出で溢れる家で暮らすことになった。


新しい飼い主たちはとても優しかった。毎日一度は手作りでご飯を作ってくれた。手でほぐしてくれる鶏肉が入った茹で野菜ご飯は、本当に美味しかった。時々、海辺まで降りて、海沿いを一緒に散歩してくれた。文句は何もなかった。それでも彼はなかなか心をひらくことをしなかった。またいつの日か、彼の周りから誰もいなくなってしまうことが怖かった。夜は決まって次女のベッドで眠った。彼しかいない次女のベッドはいつもひんやりしていた。風で窓のきしむ音が聞こえる日は決まって目を覚ましていたが、そのたびにベッドの寒さが身にしみた。


新しい飼い主達との生活が始まり数十年が経った頃、突然新しい飼い主たちは新しい家族を連れてきた。彼と同じ犬種の女の子だった。最初はおどおどしていた彼女だったが、少しずつ馴れ馴れしくなってきた。何があっても怒らない彼だったが、次女との寝室にだけは入らせないように威嚇し、追い払っていた。それでもいつの間にか、風で窓がきしむ音で目を覚ますと、彼女は彼に寄り添うように眠るようになっていた。寒かったベッドはもう寒くなかった。


彼と彼女の間に子どもたちができるのに、そう長い時間はかからなかった。次女との寝室はすっかり、彼の家族の寝室となっていた。夜は決まって彼女と子どもたちとベッドの上に登り身を寄せあって眠った。不思議と窓がきしむ音で起きることもなくなった。朝は先に目が覚めた子どもたちに起こされることが多かった。リビングにいくと、銀の器が6つ並べられていて、新しい飼い主お手製の美味しい暖かなご飯が用意されていた。食事が終わると、新しい飼い主たち・妻・子どもたちと散歩へ出かける。子どもたちは空き家の庭にいる鹿達に興味津々で、新しい飼い主たちをどんどん引っ張っていく。日中はソファを占領して、全員で昼寝をした。時々、夕暮れ時には、みんなで温泉に入り、夕日が沈むのを眺める。そうして1日が終わっていく。長く退屈に感じていた灰色の1日が、毎日短く暖かく感じられるようになっていた。


子どもたちも彼と同じくらい大きくなり、落ち着きが出てきた頃、妻である彼女は眠っている時間が多くなり、子どもたちが起こそうとしてもなかなか起きてこなくなった。美味しいご飯が入れられた銀の器も、一つだけご飯が残されることが多くなった。散歩も家の周りだけ歩いて帰りたがるようになった。温泉にも入ろうとせず、脱衣所で眠って待つようになった。黄金色のふさふさした毛の中にも、白い毛が占める割合が増えてきた。次女のベッドにも登れなくなり、彼女専用の小さな階段が飼い主たちによって用意された。

まもなくして彼女は死んでしまった。ベッドの上で、子どもたちに囲まれ、眠るように息を引き取った。


時は過ぎ、時期は違えど、同じようにベッドの上で眠る家族は少しずつ減っていった。そのたびに、ベッドの上へは寒くなった。窓のきしむ音で起きることも少しずつ増えていった。そして遂に、十数年前のときと同じように、次女のベッドの上で眠るのは彼だけとなった。食事もろくにとらなくなり少しずつ彼自身も弱っていった。


新しい飼い主たちは、ようやく彼が遺伝子を再プログラミングした老化抑止体であることに気づいた。次女から預かっていた彼の年齢は7歳と書かれていたが、それは老化抑止をしたときの年齢であることを悟った。老化抑止体に出会ったこと自体が初めてであった新しい飼い主たちは、気づいた当初こそとまどったが、すぐに何事もなかったかのように彼にいつもどおり接し始めた。新しい飼い主たちは彼を自分たちのベッドに連れていき、一緒に眠るようになった。とても暖かいベッドの中で、新しい飼い主たちは泣きながら彼を撫でてくれた。何故泣いているかは彼には分からなかったが、久しぶりの暖かなベッドは彼を十分に幸せにしてくれた。


しかし、その幸せも長くは続かなかった。それから数年が経った、黄色の小さな花を無数につけた木々の香りが漂う晴れた日に、新しい飼い主の女性は静かに家の中で息を引き取った。100歳を目前に控えてのことだった。そして、それ以来みるみるうちに元気をなくしていった新しい飼い主の男性は、妻の後を追うように、翌年の同時期に亡くなった。配達員が定期便を届けにやってきたが、次女のときのように新しい飼い主が亡くなったことを知らせようという気持ちは起きなかった。配達員が荷物を玄関の前に置いて帰ったことを確認すると、彼は亡くなった新しい飼い主の男性の側を離れ、数年ぶりに次女の寝室へとむかい、次女のベッドで眠りについた。


それから7日後、玄関から荷物が動いていないことに気づいた配達員によって、新しい飼い主の男性の死と、やせこけ弱りきった彼は発見された。彼は再び里親募集団体に保護され、次女が亡くなった時に一時的に面倒を見てくれていた女性職員が再度面倒を見てくれることになった。


新しい飼い主が亡くなってから約1年が経った。彼は次女の家に住み続けており、職員の女性が朝と晩、食事と散歩、掃除の世話をしてくれていた。老化抑止体であることが判明してしまったからか、彼の新しい飼い主が見つかることはなかった。それでも、次女が遺してくれた財産があるおかげか、職員の女性は毎日欠かさずに次女の家へ足を運んでくれていた。


職員女性は数十年前に初めて会ったときから匂いも見た目も変わっておらず、とても若くみえた。ただ、これまでの飼い主たちや家族とは異なり、必要以上には関わろうとしてこなかった。彼自身、そのほうが余計な気遣いをしなくて済み、とても助かっていた。


別れはいつもこの季節だったせいか、真っ赤に咲き乱れる奇妙な花の群生をみると、これまでの大切な家族たちを思い出してしまう。いつもよりも長く窓の外を眺めていると、いつものように女性職員がやってきた。


女性職員は無言で彼を撫でると、彼と散歩にでかけた。普段は、夕食が先なので戸惑いがあったが、丘から見渡せる夕焼け空と赤く染まった穏やかな海はとても綺麗で、気持ちが落ち着いた。ここ最近は家の周りの簡単な散歩だったが、次女や前の飼い主・家族たちと散歩していたお決まりのコースを歩いた。家に帰ると浴室に連れていかれた。かけ流しの温泉はメンテナンス不足が原因で、半年ほど温泉が止まっていたが、いつの間にか温泉は元通りになっており、浴室をあけると夕日に照らされた湯気が立ち上っていた。久しぶりの温泉にもまた戸惑いがあったが、女性職員と一緒に夕日を眺めながら浴室でゆっくりした。夕食は手作りだった。次女が誕生日のたびに作ってくれていた味のないスポンジケーキと、前飼い主たちが作ってくれていた鶏肉と茹で野菜だった。


リビングのソファで眠ろうとする彼に寄り添うように、体育座りで女性職員は座っていた。虫の音が聞こえる涼しい夜、彼は女性職員の足の甲に顔を乗せ、静かに目を閉じた。久しぶりに暖かな気持ちで眠りにつくことができた。


そして彼は二度と目を覚まさなかった。

最後のあたたかな夕食に混ぜられた薬によって、255年という彼の長い人生はこうして幕を閉じた。


うろこ雲が浮かぶ青く澄み渡る空。3基、天高く伸びる灰色の煙突。煙突から黒い煙が吐き出され、大きく広がる空へと消えていく。火葬場には、心ない飼い主達に捨てられた犬や猫・鶏たちが力強く生きていた。そして女性職員がただひとり、吐き出されては消えゆく煙を、目を細めながら見つめていた。


慣れた手つきで火葬炉のガスを止め、炉内に冷気を送り込む。この仕事も細々と300年以上続けていれば、時計がなくとも問題なく進めることができる。


しばらくしてから、彼の骨をステンレス製の銀の盆に移した。彼の小さな尾骨の一つを崩さないよう真綿で包み、次女から預かっていた彼の母親の骨が入った小さな銀のカプセルに入れる。これで彼は一人じゃない。


死だけは誰にでも平等であってほしい、そう強く思いながら、線香の煙の行く末を目で追い、彼女は静かにつぶやいた。


「おやすみなさい。」

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