第七話 祝福の魔法
ぱんぱんのバッグを前に僕はしまらないジッパーを力任せにいじめ抜いていた。明らかにキャパオーパーで、考え得るポテンシャルを最大限に出し尽くしているのはわかってはいるんだけど、なんとかしまいたい気持ちを抑えられないのだ。右腕にはめた時計をチラ見する。もう行かなければ。仕方なく半開きのバッグを肩に提げてこの部屋に向かって深くお辞儀する。何故だろう、僕はもう二度とこの部屋に住むことはないんだと確信していた。「外れない事を祈るばかりだよ」最後の言葉を部屋に残し、僕は外に出た。
「じゃあ、いくよ」僕の言葉に花奈ちゃんは「なにかあったらいつでも頼ってね。ずっとここにいるから」と返してくれた。小さく手を振る花奈ちゃんを背に、僕は歩き始める。
つまりは引っ越しである。
僕は今日、花奈ちゃんと住んだこの家から卒業したのだ。歩みを進めると、当然の事ながら花奈ちゃんの気配が薄らいでいく。一度だけ振り返ると、遠くではハンカチを目に当てて涙を拭う仕草の花奈ちゃんがいて、それを見た僕は思わずこう叫んだのだった。
「二軒隣のアパートだろ!!」
「花奈さんはやっぱり真白くん大好きなんだね!」テーブルを挟んで向かい側に座り笑うのは水音。「参っちゃうよ。歩いていける距離なんて言葉じゃ誇張しすぎてるくらい近い場所にいるのに」あむ、と肉団子を頬張る僕。「やっぱり、それだけ大事なんだよ。前、花奈さんは感情出さないから心配になるって言ってたよね?大丈夫、愛されてるよ」水音は優しく笑いながら味噌汁をすすった。
愛されている、か。かっこつけでもなんでもなく、僕は自分がつまらない人間だと思っている。趣味もないし、ユーモアもないし、友達もいない。人間的魅力なんて皆無に等しい。でも、それでも、こんな僕を愛してくれる人がいる。それがすごく嬉しいけれど、そんな事恥ずかしくてとても言えない僕は黙々とご飯をかきこむのだった。
そんな僕にも少し知識欲みたいなものが生まれてきている。元々少しばかり興味があった事なのだが、それは僕が……希望ヶ丘真白が何者だったのかという部分で、花奈ちゃんに拾われる前の僕を無性に知りたいのだ。なにかわかったとしても僕の人生が変わるわけでもなし意味はないのだけれど、それでも気になってしまうのが、ああ人は、ああ僕は愚かだなぁと感じるところだったりする。でも、そういう興味そのものが少し嬉しくもあって、誘拐されたり人を狂わせてしまった幼年時代、たまに言われた「おかしい」という言葉。全くもってその通りで特にあの頃はその幼さからか、他人にタガを外させてしまうなにかを僕は持っていたわけだけれど、まあわかってはいたけれど、それでもやっぱり幼心に少しショックで僕の人格形成に少なからず影響していて。だからなんだか小さい事に拘ったりする人間味を帯びた部分に喜びを感じていたりするのだ。
全ての切欠はあの出来事。およそ一年前に体験した過去を巡る旅。月ヶ丘栞里――栞里ちゃんとの遭遇。あれの所為なのは間違いなかった。
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びしびしと亀裂が入り世界が歪む。そのひび割れが軋み僕の視界が砕け散る。その先にあるのは闇。うっすらと目を開けると、僕の前に花奈ちゃんが立っている。そうか、旅から帰ってきたんだ。花奈ちゃんの記憶を巡る旅から。
「誰かは知らないけれど、少し失礼じゃないかな?二度と真白くんに近寄らないで」
栞里ちゃんに向けられる花奈ちゃんの声は刺々しくて、過去これ程まで彼女が怒りを露わにした事はそうそう無く、これはもしかしたら僕も危ないのではと恐怖を感じる程だった。
栞里ちゃんは止せばいいのに花奈ちゃんを煽る。
「真白くんは、あなたの所有物ですか?十九歳は犯罪を犯したら捕まるし、結婚もできます。いつまでも距離感が近いと自立を阻害しちゃいますよ」
花奈ちゃんが手のひらを栞里ちゃんに向ける。まずい!まずい!!僕は咄嗟に花奈ちゃんに抱きついてその腕を上に向けるーーと同時にしゅん!と白い光の玉が劇場の天井に激突して砕け散った。「今のはいけない!今のは殺意だ!花奈ちゃんらしくもない!」怒号が響く。花奈ちゃんは少し落ち着いた様子で「ありがとう」と呟きながら僕の肩に手を乗せた。
「そろそろ映画館も動き出します。色々判ったことだし、暫くお別れです」とそんな事を言いながら栞里ちゃんは立ち上がった。「なにを見たの」花奈ちゃんの言葉に栞里ちゃんは「真白くんの過去……だったはずなのに、何故かあなたの過去を見ました。予定外で、不可抗力です。でも」そこで栞里ちゃんは一拍置いてから「真白くん、このままでいいんですか?」と言い残し、闇に溶けていった。
花奈ちゃんは暫く俯いてから、栞里ちゃんのいた席へ座り込む。僕も自分の席へ着くと同時にスクリーンに光が灯り、映画が始まったのだった。
◇
「真白くんはあれだね、もうちょっと砕けたイメージになった方がいいよね。だからほら、そのメタルフレームよりも、こういったセルフレームの方が断然いいと思うよ」と、中村橋くん。僕が手に取ったチタン製の眼鏡を勝手に却下してアセテート製の太いふちの眼鏡を手渡してきた。
というわけで少し目が悪くなり始めている僕は運転用兼二十歳のお祝い眼鏡をここ中村橋眼鏡店に買いにきていた。そこらの安いチェーン店で買っても良かったんだけれど、中村橋くんとは古い付き合いだし、色々アドバイスしてくれるかなと思ったけれどこのおじさん、やたらと僕にイメチェンを勧めてくる。その太い眼鏡をかけて鏡で見てみると、全然見慣れない顔がそこにあって、ううむと唸っているとまた横から中村橋くんが「いいね!いいと思うよ!バランスも取れてるし、今時って感じで親しみやすくなったね」と言ってくる。本当かな?嘘つかれた事はないけど、さらっとは決めにくい。こうやって僕が悩んでいるのに花奈ちゃんと水音は全然違うコーナーで眼鏡を掛けあって遊んでいて、もう少し手伝ってくれよと思う反面、仲良しなのは良い事かなと微笑ましくなるのだ。
眼鏡も決めて僕達はお茶を飲みながら店内で一服する。でもあれだな、全然お客さん入って来ないな。大丈夫なんだろうかこの店。と、聞いてみたら中村橋くんは「案外しぶといよ僕の店は。なにしたら潰れないかわかっているだけの話だよ」と話してくれた。さっぱりわからなかったけれど、中村橋くんも頑張っているようだった。
一週間後。仕上がった眼鏡を受け取りに水音と店にやってきた僕は、栞里ちゃんと再会した。
お互い「こんにちは」と声を掛け合う。栞里ちゃんとは初対面な水音に紹介しようとしたけれど、僕が彼女について知っていることなんて名前くらいで、その名前を紹介するのが精一杯だった。
栞里ちゃんは水音の顔を凝視するなりこう言った。「真白くんと付き合ってるんですね、英断です」英断!?僕と付き合うのってそんな勇敢な行為なの!?「そんなそんな、こんなの大したもんじゃないですよ!」言い方!水音、その言い方!
「眼鏡ですね、私もたまに眼鏡かけますよ、ほら」栞里ちゃんはなんだか生き生きとした様子でバッグから可愛らしい眼鏡を取り出して見せてくれた。どうやら眼鏡好きらしい。「ちょっとだけ目が悪いので……だから見え辛かったり、見えないものを見るのが好きなんですよ。真白くんならわかると思います」と目の前でその眼鏡を掛けてくれた。似合っている。そんな似合っている栞里ちゃんは「お二人とも、お幸せに」と祝ってくれた後に「なにがあってもこの幸せを忘れないで」と言って僕達から離れていく。栞里ちゃんの先には男性が一人。あれは……。
「……法条?」
栞里ちゃんは嬉しそうな仕草で法条の手を握って僕の方へ振り返ると、薄っすらと笑みを浮かべた。法条も僕に気づいたのか手を振っている。
法条栞里。それが月ヶ丘栞里の本名だった。法条の一人娘である彼女の行動理念はシンプル極まりなく、「父親のためになる事」その一点に尽きた。なので彼女は常に父親にリターンされるか否かしか考えていない。つまるところ、彼女が得たものは全てあの男に還元されていくのだ。
僕は、背中にぞわぞわとした、悪寒のようなものを感じていた。その正体がなにかはわからないけれど、世界は世界、僕は僕。生活圏内を脅かされない限り、僕達は今まで通り生活していくのだろう。一般人がテレビで見る戦争に手を出せないのと同じだ。
正義の味方なんてどこにもいやしない。僕も、花奈ちゃんも、水音も、中村橋くんも、桃果さんも、平和は好きでも世界平和のために生きたりはしないのだ。望むべくは手近な範囲。そこに理想を求める。
かつて不特定多数の幸せを願った花奈ちゃんのお母さん。その想いは凄く立派で、誰かのために身を捧げるなんて徳の高い事は僕には到底出来はしない。だけれど、その巨大すぎる願いはやがて呪いへと変わり、彼女の人生を縛り付けてしまった。
僕は、僕にしか作れない幸せを求めていこう。そうだよね、水音。
◇
仕事も終わり、コートを羽織る。店を出ると空には散り散りの星たちが敷き詰められている。白い息が僕の顔をすり抜けていく。
二十二歳の僕は書店の店員になっていた。最近中村橋くんの体力も落ちてきているようで眼鏡屋に転職しないかと勧誘されたりもするけれど、給料はいかがなものかと思って一歩前に足を踏み出せない。そもそも未経験すぎるのも不安だ。
と、ごちゃごちゃ考え事をしていたら段差に躓いた。危ない危ない。それよりも急がなければ。
車もまばらな夜の町。退屈な直線道路をひたすら飛ばした。黄色く点滅する信号機を置き去りにして僕はあの場所を目指す。
そこにはマフラーに口を埋めて寒そうにしている水音がいて、車から降りる僕を見つけるなり嬉しそうに駆け寄ってきてくれる。
人生に節目があるとするならば、それは恐らくここだった。
その場所に入ると、直ぐに下り階段がある。そこを一歩一歩進んでいく。小窓があって、こんこんと二、三回ノックするとそこが開いておじさんが顔を出す。一言話して部屋の中に案内され、二人で中に入った。
おじさんは僕達からその紙を受け取り、にこりと笑ってこう言ってくれた。
「ご結婚、おめでとうございます」
凍てつくような季節でも、静寂がうるさい部屋の中でも、僕達は熱を持って生きている。時にぶつかりながら、時に交わりながら、言葉や魂で触れ合い続ける。
地上に出ると、寒空には雪がちらつき始めていた。でも何故だか寒くない。手のひらで雪を受け止めるとそれはじんわり温かみがあって、まるでなにかの魔法のような……そんな不思議な雪に祝福されながら、僕達はその場所を後にした。
つづく




