Home Town 5
作戦会議を終え、騎士の男が洞穴を出ると、だんだんと空は明るみはじめていた。騎士は空を眺める。雲一つない光景に、あの時もこんなに空がきれいだっただろうかと一人呟く。しばらく歩みを進めると、小川にたどり着いた。川のサイズに見合った小魚たちが悠々自適泳いでいる、底が見えるほど透明な川だ。男は金属のブーツのまま川に足を入れて川岸に腰を掛ける。以外にも深く、足はひざ下まで水の中に消えた。
魚は最初、突然の侵入者に驚いたが、すぐに気にしなくなった。すぐにそのブーツがなくなったからだ。水に浸かっていた騎士のひざ下は水の中に溶けだしていた。騎士は膝の上に肘を乗せ、その手の上に顎を乗せる。やや背中を丸めて、過去の思い出に浸ろうとしていた。
ともに作戦会議をした魔物の熊が言っていた「彼女」はカイナの村に住む可憐な娘であった。そして彼女と出会ったのは、まだ彼が騎士の姿になる前のことだった。彼はスライム状の体を持ち、自由に形を変えることができる魔物だったのだ。
村娘は歌うのが好きだった。幼い頃から森で切り株に座って鳥の囀ずりにコーラスするのが癒しであった。幼馴染みの友人のハーモニカに声を添えるのが楽しみであった。何よりも自分の歌で村人が笑顔になるのが幸せであった。彼女は一通り午前中の仕事を済ませると、午後の仕事に取りかかる前に、村にすぐ近くの山の中腹ほどにある開けたところで歌うのが日課であった。
そんなわけで彼女は今日もお気に入りの切り株の上に座ろうと、木々の間を抜けていた。しかし、切り株を見つけると、ふと足を止めてしまった。その株の上に魔物がいたのである。それは透き通った楕円形のスライム状の魔物だった。彼女は木の裏に身を隠して魔物の様子を伺った。切り株の下にはバイオリンが置いてあった。この魔物は、自由に体を変形させ、伸び縮みすることができた。
彼はそれを利用して、何とかバイオリンを持とうとしていた。まず、体の一方を伸ばして弦を持ち、全身で本体を持とうとする。しかし楽器の方は彼の言うことを上手く聞こうとしなかった。
器用にスライム状の体を滑り落ちたり切り株にコトンと音を立てて落ちる楽器を再び掴むと、今度は強く本体を押さえ込むようにした持った。滑り落ちることはなくなったが今度は弓がびくともせず、音がちっともならなかった。
続く調子で、彼は試行錯誤を続け、彼女はそれを眺めていた。最初は魔物の存在に恐れをなしていたが、だんだんと彼の不器用さに苛立ちと、同時に愛らしさすら感じてきた。この魔物がやっとのことで一番低い単音を鳴らしたところで、突然魔物の姿が視界から消えた。切り株の上には魔物一人いなくなり、静寂に包まれ、逃げた小鳥が様子を伺いに戻りかけていた。彼女は、彼が居なくなったために一瞬安堵し、切り株に近づこうと足を踏み出した。
だが、一歩目を踏み出した瞬間、彼女は背後になにかの視線を感じた。再び恐ろしさが舞い戻ってくる。小鳥達は再び飛び立った。森の開かれたこの間は静かに太陽の光を受け暖かかったが、彼女は太陽の恩恵を受けない日陰で突風に吹かれたときのように鳥肌を立てた。もし兎が背後に虎がいることに気づいたときに感じる寒気と同じだった。
彼女は恐る恐る後ろを振り返った。案の定、あのスライム状の魔物が体を伸ばして彼女をじっと見据えていた。それは彼女の身長よりずっと高く、その一番高い位置にある瞳をぎらぎら光らせていた。近くで見ると、恐怖心が一気に沸き上がってくる。彼女は蛇に睨まれた蛙になり、そのままへたりと座り込んだ。魔物のほうは一つ目の頭をこうべ彼女を眺めた。
「...兵士ではないのか。」
彼女は怯えて声を出せない。魔物は彼女をじっと眺めたあと、彼女を通りこしてバイオリンの元へ戻った。彼女が恐る恐る立ち上がるのも気にせず、魔物は再びバイオリンと悪戦苦闘しはじめた。スライム状の魔物は村娘に見つめられていることも無視して、一心不乱に楽器と向き合っていた。しばらく下手な演奏を聞いていると、彼女に先ほどの愛らしさが戻ってきた。きっと彼は悪い魔物じゃないんだわ。彼女は思い切ってスライム状の魔物に声をかけた。
「ねぇ、貴方バイオリンの弾き方の練習をしているの?」
「そうだ。」
それが初めての会話だった。彼女はスライム状の魔物の体の仕組みを知らなかったので、手本を示してやることで、彼に弾き方を教えた。その日のうちには上達することはなかったが、徐々にこの魔物は楽器の使い方を学んでいった。村娘と魔物は、毎日のようにこっそりと会うようになったのだ。
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