花火の向こう側
0
私はふと、手に取った携帯電話のアプリを意味もなく押したり閉じたりしていた。連絡先を押したところで私の手は止まっていた。今まで母の看病に精一杯で関係を切った元恋人たち、連絡を返していなかった友人たち。今さらながら、この中のどれくらいの人たちがこの私の声に耳を貸すだろうか。そんなことを考えながら、ただ漠然と画面をスクロールしていた。そのとき私の目に七年前まで毎日のように見ていた名前が飛び込んできた。
山口零音。
ゴロゴロとベッドの上で横たわっていたはずの私の体はビクリとし、ベッドの上で正座していた。消したはずの彼の名前が私の眼孔に反射した。高校を卒業して以来、無意識にヤ行は避けていた。久しぶりにそのヤ行にいくと、なぜか残っている彼の名前。飲みかけだったコーヒーを一気に飲み干し、重い親指でその名前を恐る恐る押してみた。電話番号が書いてある。一度リビンクに戻り机の周りを一周した。玄関に行き、なぜか鍵がかかっているかを確認した。ソファーに座り、つけたままのテレビを消し、消したテレビに写る夕日を、ボーッと眺めていた。テレビの端のオレンジ色が暗く染まったころ、自動につく玄関のライトも暗くなっていた。
一息つき、もう一度携帯電話を手に取る。やはり電話番号が書いてある。その数字を足したり引いたりしてみる。どうにか0にならないものかと計算する。ならない。なったからといってつながるわけでもない。そんなことを考えているうちに、その0にならない数字の羅列を押していた。
1
中学三年の夏、私は模試を受けていた。高校は、なんとなく親が通っていた高校に私も行くのだろうなと志望校もなにも考えることすらなかった。
周りのみんなは、毎回模試の結果に、喜んだり落ち込んだりしていた。
私はそんな彼らを横目に、高校よりももっと先のことを考えていた。私は何がしたいのだろうか。果たして私のしたいことは、私個人で決めていいのだろうか。入りたいとも思っていない会社に入社し、好きでもない仕事をする毎日でも楽しいのであろうか。幼い頃に父をなくした私には相談する人さえ近くにはいなかった。
父を亡くしたあと、母は私に苦労はかけまいと必死に働き、女手一つで私を育ててくれた。そんな母も、今ではその苦労が積もり、病気で倒れ、入院している。
私は、母の実家で暮らしている。おばあちゃんは優しいので何の不満もない。
ある日の放課後、母の着替えを持って病院に向かった。夏の終わりを感じながら、お気に入りの音楽を聴き、緩やかな流れの川を見ながら橋を渡り、坂を登っていく。
病室に入ると母は誰からかもらったのであろうリンゴを剥いていた。
「瑠璃ちゃん、学校は楽しかった?」
満面の笑みで、リンゴを私に渡しながら、母は言った。
「うん。いつも通り。」
リンゴを食べながら私は答えた。
「瑠璃ちゃん、学校に好きな子いないの?」
母は、満面の笑みから変わり、少しにやけたような顔で聞いてきた。
「いないよ。みんな幼稚だし、模試の結果だけではしゃいでて、全然、先のことも考えてないし。」
私は、病室の窓から見える、半年後には綺麗であろう桜の木を見ながら言った。
「そっか。瑠璃ちゃんは大人なんだね。」
母はにこりと笑って言った。
いつも笑っている母。そんな母の笑顔を見ていると本当に病気なのかなとときどき思う。
「お母さん、好きな人って、いつかできるのかな? 私、将来好きでもない人と結婚するのかな?」
私は、半分冗談っぽく聞いてみた。
「大丈夫。いつかできるわよ。焦る必要もないし、作ろうとするものでもない。自分の感情でコントロールできるものではないから。」
優しい口調で母は言った。
「お母さんは、お父さんのこと好きだった?」
「大好きだったわよ。今でも大好き。」
「どうやってお父さんのこと好きになったの?」
「そうだなー。最初は何とも思ってなかったんだけどね、いつの間にかお父さんのことを目で追っている自分に気づいたのよ。好きなものは何で、嫌いなものは何なんだろうって考えたり。夜、寝る前にベッドの上で、今何してるんだろうって考えたり。気がついたらお父さんのことが頭から離れなくなっていたの。」
母は、少し照れながら言った。
「それに料理を作ってもね、一番美味しいところは、お父さんにあげようと思ったり、お父さんが好きなアイス買っておいたり。自分のことよりお父さんのことが大切になっていたの。」
照れていた母の目は少し潤っていた。
「じゃあ私は、自分のことで精一杯だから好きな人なんてできないかもね。」
本心だからなのか、母の涙を見たくなかったからなのか、私は、少し冗談っぽく笑いながら言った。母も笑った。
「でもね、いろいろ言ったけどね。なんでお父さんのことが好きなのかは、わからないのよ。理由なんてないんだと思う。あるとしたらその程度のことなのよ。」
母は私の目を見て言った。
病院からの帰り道、少し川の流れが早くなっているような気がした。
家に帰った私は、ヘッドホンから流れる音楽のボリュームを下げ、ベッドで横たわっていた。
「私は、将来のことが好きなのかなぁ…。」
ボソッと独り言をつぶやく。
「瑠璃ちゃん、ご飯できたよー」
下からおばあちゃんの声が聞こえる。
「はーい。今いくねー」
ヘッドホンを外し、ボサボサの髪を束ね、下におりていく。
「今日は、瑠璃ちゃんの好きなコロッケだよ。たくさん食べてね。」
さっき見たような笑顔でおばあちゃんは言った。
「お母さん、どうだった?元気そうだったかい?」
「うん。いつも通り笑ってたよ。」
「それはよかった。」
「おばあちゃん、今度冬物の服をもっていくときにね、マフラーを持っていきたいんだけど、それ、自分で編みたいの。私、全然そういうの得意じゃなくて、やり方もわからないから、教えてくれない?」
「ああいいわよ。それは、きっとお母さんも喜ぶね。」
食器を洗い、飲み物をとろうと冷蔵庫を開けると、私の好きなチョコレートが買ってあった。
「おばあちゃん、私のこと好き?」
「突然どうしたの? 好きよ。」
「ううん。何でもない。私も好きだよ。」
飲み物とチョコレートを持って、逃げるように二階に上がった。
次の日からも、学校ではみんなが高校受験に向けて勉強していた。
「瑠璃ちゃんって、高校どこ受けるの?」
後ろの席から聞こえてきた。
「私は、西豪高校かな。親もそこに行ってたし、なんかそこに行くんだろうなって前から思ってた。」
「そうだよねー。瑠璃ちゃん、頭良いし、あそこに行くよねー。私なんか、頭悪すぎて、どこにも行けないよー。模試もほとんど、D判定だし…。ああー、どうしよー。なんで、瑠璃ちゃんは、そんなに頭がいいの? 勉強教えてー。」
「私は、みんなと違って、部活に入ってなかったしね。時間があったから、勉強してたんだよ。」
「そっかぁ。じゃあ、もう私遅いじゃん。やっぱ、無理だー。」
「そんなことないよ。今からだって時間あるし、むしろ私みたいに部活やってなくて勉強してた人の方が珍しいから、他の人だって同じだよ。ほとんどの人は、今から勉強始めるんだよ。」
「そうだよね。頑張ってみようかなぁー。」
学校が終わり、家に帰ると、リビングの机に毛糸が置いてあった。
「はやくはじめないと、冬が終わっちゃうからね。」
おばあちゃんは、笑いながら言った。
秋が終わり、辺りの家からは、カラフルの光が輝いていた。
「もうすぐ、クリスマスかぁー。」
白い息とともに、ベランダで音楽を聞いていた私はつぶやいた。
夜空に輝く星たちをよく見ていると、星によって微妙に色が違う。まるで輝き方は人それぞれと言われているみたいだった。ただ私は、綺麗な星たちよりも、なぜか真っ暗な夜空の方が気になった。この星たちはみんな綺麗だけれど、夜空がないと輝けない。
『夜空は、星のことが好きで、自分より星のことが大切だから、自分が暗くなって星が輝けるように支えているのかなぁー』
声に出したかどうかは定かではないが、確かにこのとき、そんな考えが私の頭をよぎった。
「できたー!」
「どうしたの瑠璃ちゃん。朝から大きな声出して。」
「ごめん、おばあちゃん。でも、見て見てー。」
満面の笑みの私の手にある真っ赤なマフラー。ゆらゆら揺らしながら、見せつけていた。
「すごいじゃない瑠璃ちゃん。上手にできたね。お母さん、きっとビックリするよ。」
「うん! お母さんへのクリスマスプレゼントにするのー。」
嬉しくて、マフラーを頬でスリスリしていた。
「そうね。そろそろお母さんに冬物の服も持っていってあげないとね。」
「うん。今度持っていくとき、これも一緒に渡そっと。」
「はい。じゃあ、朝ご飯食べて、終業式行ってきなさい。明日から冬休みでしょ。」
「そっかぁ! 今日、土曜日だから学校ないと思ってた。」
「今日で、今年の学校最後なんだから、しっかり食べて、着替えていってらっしゃい。」
「はーい。あっ、そういえば、おばあちゃんってさ、好きな食べ物なんなのー?」
「んー。栗きんとんかな。どうしたの急に?」
「別にー、なんでもなーい。」
私はにやけながら二階に上がり、制服に着替えた。
「いってきまーす。」
私は、勢いよく玄関を出て行った。
「いってらっしゃーい。」
後ろからかすかに、おばあちゃんの声が聞こえる。私は、ヘッドホンをつけ、最近の自分の中でのお気に入りの曲を流した。もう、すっかり冬になっていて、外はとても寒かった。学校に行く途中に見える紅葉もすっかり枯れ落ちていた。 終業式が終わり、ホームルームでは毎年同じセリフのような注意を聞く。
「大丈夫だよ、先生。俺らもうすぐ受験だから、冬休みっていっても、ほとんど塾の冬期講習とか勉強ばっかりで遊ぶ暇なんてないからさ。」
クラスの男子が少し頭を抱えながら言った。
「そうだな。じゃあ、風邪を引かないように。みんな暖かくして勉強するんだぞ。」
先生がそう言い終えると、ちょうどチャイムが鳴った。
私は家に帰る前に、和菓子が売っているお店に寄った。
「いらっしゃい。」
「すみません、栗きんとんってありますか?」
「あるよ。どれにする?」
何種類かあった。値段を見ると意外に高い。私は、財布の中を確認した。
「これでお願いします。」
私は、一番安いものを指差した。
「ありがとうございます。また来てね。」
手渡された栗きんとんを持ち、私は外に出た。なんとなく、さっきより暖かく感じた。
家に帰ると、すぐに二階に上がり、さっき買った栗きんとんを机の引き出しに隠した。そのまま机に向かい、西豪高校の過去問を解き始めた。
「みんなは冬期講習かぁー。私は模試だけ受けようかな。」
私はわかっていた。お母さんもおばあちゃんも何も言わないけど、うちに冬期講習に行けるような余裕もない。模試を受けさせてくれるだけで、十分ありがたかった。
その日の夕食中、
「瑠璃ちゃん、勉強の方はどうなの? もうすぐ受験だね。」
「大丈夫だよ。一応、志望校はA判定だから。」
「A判定っていうのは、どういうことなんだい?」
「このまま勉強すれば、志望校に行けるよって意味だよ。」
「そうかい、それはよかった。瑠璃ちゃんは頭が良いからね。お母さんもそれを聞くと安心だろうね。」
「うん。そうだね。今から、もう少し勉強して寝るね。」
そう言いながら、食器を洗い、二階に上がった。過去問をもう一度解き終え、ベッドに寝転んだ。
「冬休みかぁー、なにしよっかなぁー。」
そう言いながらも、自分にとっては、それほど今までの日々と変わらないことがわかっていた。そして、そのまま眠りについた。
お昼前、私は、自分で編んだ真っ赤なマフラーを紙で包み、リボンをつけた。お昼ご飯を食べて、冬物の服を持ち病院に向かった。
ガラガラガラー。
「お母さん、冬物の服もってきたよー。」
「ありがとう。重かったでしょ。わざわざごめんね。」
「ううん、全然平気だよ。あとね…、これ! クリスマスプレゼント!」
「あらっ、お母さん、もう子供じゃないのに、こんなに可愛いサンタさんが来てくれたの? 開けていい?」
「うん!開けて開けて!」
「うわあ!マフラーじゃない。お母さん、ちょうどマフラーが欲しかったのよ。嬉しいわ。ありがとうね。」
「よかったー。それにね、このマフラー自分で編んだんだよ。おばあちゃんに編み方習ったの。」
「すごいじゃない。よくできてる。それに瑠璃ちゃんの愛情がこもってるから、すごく暖かいわ。本当にありがとうね。」
お母さんは、その真っ赤なマフラーを巻きながら言った。
その後も母は、何度も何度もマフラーを触りながら、暖かいと言った。
「それじゃあ、瑠璃ちゃん、今度はお母さんからクリスマスプレゼント。」
お母さんは、私に真っ白な箱を渡す。中を開けると、ケーキが入っていた。
「これどうしたの?」
「ナースの人たちが、入院してる子供たちにケーキ作るって言ってたのを聞いて、私も参加させてもらったの。」
「えっ! じゃあ、これお母さんの手作りなの?」
私は、思わず大きな声を出した。それは、体調が悪いのに、無理をして作ってくれた母への感謝と、母の手作りのものが、久しぶりに食べられるという喜びからであった。
「美味しいかわからないけど、食べてみてね。」
少し照れながら、母は言った。
「今食べていい? 一緒に食べよっ。」
私は我慢できず、すぐに箱を開け、ケーキを取り出した。それは、真っ白に輝くショートケーキだった。一口食べると、私は泣いていた。美味しかった。嬉しかった。寂しかった。いろいろな感情がぐちゃぐちゃに混ざり、涙で前が見えなかった。
「どうしたの。瑠璃ちゃん?」
「美味しいー。」
私は、ただそれだけしか言えなかった。
「あらあら、大袈裟ね。」
母は、にこりと笑いながら、私を抱きしめた。まだ少し口の中に残っていた甘いはずのショートケーキは、すごくしょっぱくなっていた。
その後も、学校のことや受験のこと、家のことなどをいろいろ話し、気づけば外は暗くなっていた。
「もう暗くなったから、家に帰りなさい。」
「うん。じゃあ、お母さん、また来るね。メリークリスマス!」
「メリークリスマス。気をつけて帰るのよ。」
「はーい。」
そう言いながら、私はコートを着て、病室から出た。外に出ると、雪が降っていた。お母さんが作ってくれたショートケーキのように、真っ白で綺麗だった。帰り道、その真っ白な氷の結晶に囲まれ、私の体もだんだんと白くなっていく。私もこのまま綺麗になっていかないかな、などとおとぎ話のようなことを考えていた。
家に帰ると、おばあちゃんが夕食の用意をしていた。
「ただいまー。寒かったー。」
「先にお風呂に入って、温まっておいで。お風呂から上がったころにはご飯ができてるから。
「はーい。」
私は、服を脱ぎ、お風呂に向かった。浴槽に入ると、寒さから熱く感じるであろうお湯が、いつもより少しぬるく感じた。お風呂から上がり、体を拭いて、寝間着を着た。鏡を見ると少し目が赤くなっている。目をこすり、リビングに行と、机に夕食が並べられていた。いつもより豪華だが、いわゆる世間一般でいうところの、クリスマス料理ではない。
「ごめんね。おばあちゃん、クリスマスでも、いつも和食だったから、こんなものだけど…。」
「ううん。私、和食の方が好きだから、こっちの方が嬉しいよ。」
そのとき、和という言葉で思い出す。二階に駆け上がった。机の引き出しを開け、中の箱を持ち、下に行こうとすると、ある数字が目に入った。賞味期限が書かれていた。
………二日前?
私はなんて馬鹿なんだ。ちゃんと見ておけばよかった。栗きんとんはこんなに早く駄目なるのか。
「瑠璃ちゃん、どうしたのー?」
下からおばあちゃんの声が聞こえる。
私は、落ち込みながら、下に降りた。
「おばあちゃん、ごめん。私、おばあちゃんにクリスマスプレゼントあげようと思って、栗きんとん買ったんだけど、もうこれ、賞味期限すぎちゃってる。本当にごめんね。」
私は、泣きそうになりながら言った。
「瑠璃ちゃん、ありがとう。おばあちゃんはね、栗きんとんをもらうということより、瑠璃ちゃんが、おばあちゃんの好きなものをわざわざ買いに行ってくれて、おばあちゃんにプレゼントしようって思ってくれたことが、すごく嬉しいよ。中身が腐っていようと、なんであろうと、おばあちゃんにとっては、世界で一番嬉しいプレゼントだよ。」
おばあちゃんは。優しい顔で言った。
「それにね、おばあちゃん、クリスマスプレゼントってもの、はじめてもらったよ。おばあちゃんが小さいころはクリスマスプレゼントなんてもらえなかったからね。」
私は、また、目の前が滲んで見えた。
夕食を食べ終わると、おばあちゃんから、真っ白のものを手渡された。
「これは、おばあちゃんからのクリスマスプレゼントだよ。」
おばあちゃんは、笑顔で言った。見ると、真っ白で分厚いくつ下だった。
「えっ!おばあちゃん、もしかして、これ作ったの?」
「受験勉強するのに、足が冷えるでしょう。」
「ありがとう、おばあちゃん! 毎日履くね!」
さっそく履いてみると、すごく暖かかった。足だけでなく、全身が包み込まれているようだ。その夜は、そのくつ下を履いて勉強した。
それから毎日、家に帰ると、そのくつ下を履いて勉強した。
そのおかげか、私は、西豪高校に合格した。
2
キーンコーンカーンコーン。
「今日は、入学式だけだからこれで帰っていいぞ。気をつけてな。」
担任の先生が言った。校門には、おばあちゃんが立っていた。
「一緒に写真撮ろう。」
そう言いながら、私は、はじめて買ってもらった携帯電話を出した。
カシャッ。
私たちの後ろに見える桜の木。
「よく撮れるのね、この機械。」
おばあちゃんは、驚いたように言った。
「うん。綺麗だね。私、一旦家に帰ったあと、これを見せにお母さんのところに行ってくるね。」
周りの若いお母さんやお父さんたちの嬉しそうな声を聞きながら、私は、おばあちゃんを連れスタスタと家に帰った。
家に帰ると、ベッドに置いてあったヘッドホンを取り、制服のまま病院に向かった。橋を渡っていると、いくつかの桜の花びらが、川に落ち、流れていた。坂を登っていると、風に吹かれて、桜の花びらが舞っていた。桜って、咲いているときはもちろん綺麗だけど、落ちてからの方が、自由に生き生きとしているように、私は思えた。
病室につくと、もう春なのに、真っ赤なマフラーをしているお母さん。
「お母さん、もう暖かくなってきたんだから、マフラーなんていらないでしょ。」
「だってこれ、暖かくて気持ちいいんだもん。」
子供のような無邪気な笑顔でお母さんは言った。
「それより、瑠璃ちゃん、大人になったねー。制服姿も可愛いわ。その制服、ずっと変わらないんだね。昔のこと思い出しちゃうわ。」
窓の外を見るお母さん。
「それより、入学、おめでとう。よく頑張ったね。」
「うん。ありがとう。それでね、さっきおばあちゃんと写真撮ってきたの。見て見てー。」
携帯電話を取り出し、母に見せる。
「あらっ、すてきな写真じゃない。おばあちゃんも嬉しそうな表情ね。」
「うん。今度はお母さんとっ!」
お母さんの袖をギュッと引き、顔を近づけて言った。
カシャッ。
「良い写真だね!」
私は笑顔で言った。
「瑠璃ちゃん、窓際でもう一度撮ろう。」
珍しく、少し悲しそうな顔で母は言った。写真を撮り終えると、今度は、いつものように、笑顔になっている母。
「そういえば、入学式だったけど、かっこいい子いた?」
にやにやとしながら聞いてくる母。
「そんな人いないよー。何よ急に。」
「瑠璃ちゃんだって、もう高校生なんだから。」
「だって、みんなまだ青いもん。」
「でも、山奥に一本だけ生えてる桜だってあるよ。周りはみんな青いのに。見つけにくいけどね、でもその分、その辺の桜よりずっと綺麗よ。まあ、少し遅れて咲く桜だってあるから、ゆっくり探してみたら?」
なんだか嬉しそうな母。
「私は、勉強で大変だからいいのー。」
「あらそう。」
お母さんは、いたずらっ子のように微笑んでいた。そして、突然、屋上に行きたいと言いだした。私は、車いすにゆっくりと母を乗せ、屋上に向かった。屋上に出ると、空は真っ青で、所々に見える桜が綺麗だった。母は、目をつぶっていた。久しぶりに見える違う景色をなぜ見ないのだろうか。こんなに綺麗なのに。
「瑠璃ちゃん、目をつぶってごらん。」
「なんでよー。せっかくこんなに綺麗なのにー。」
「いいから、少しつぶってみて。」
私は、しぶしぶ目をつぶった。
「どう?」
「どう? って、なにが?」
「聴こえる? 鳥たちの鳴き声。風の音。川の音。」
「うん。かすかに。」
「じゃあ、感じる? 木のにおいや花のにおい。それに、太陽の暖かさ。」
「うん。少し。」
「目で見なくても、綺麗だなって思わない? 目で見ると意外に気づかないことってあるのよ。目だけに頼りすぎちゃって。それにね、それらはかすかなの。少しなの。だから、中にいるだけじゃなくて、外に出てみないとわからないの。自分から少し近づかないと感じられないの。」
私は、母が何を言っているのか、このときはよくわからなかった。
病室に戻ると、ナースのお姉さんがいた。
「あら、瑠璃ちゃん、こんにちは。高校生になったの? 可愛い制服ね。よく似合ってるわ。」
「えへへ、ありがと。今日、入学式だったの。お姉さんもナースの格好、よく似合ってるよ。」
病室には、笑い声が広がった。
「じゃあ、そろそろ帰りなさい。明日からは、午後まで授業があるんでしょ。」
「はーい。じゃあ、また来るね。お姉さんもまたねー。」
お母さんと、ナースのお姉さんに手を振って、私は病室を出た。病院を出ると、空がオレンジ色になっていた。家に戻り、制服を着替えて、リビングに向かうと、夕食の準備ができていた。
「お母さんは、どうだった? 喜んでたろう? 瑠璃ちゃんの新しい制服姿見れて。」
「うん。お母さんもナースのお姉さんも、喜んでくれたよ。」
「そうかい。それはよかった。瑠璃ちゃんは、人気者だね。」
そんな会話をしながら、夕食を食べ終え、明日の準備をする。ベッドに横たわり、壁にかかっている新しい制服をみながら、これが最後の制服なのかなと、もう先のことを考えていた。
「いってきまーす。」
「いってらっしゃーい。」
私は、学校に向かった。教室につくと、昨日と同じように、出席番号順に決められた席に着く。
「みんな、おはよう。昨日は時間があまりなくてできなかったから、今から、一人ずつ自己紹介をしてもらう。みんな、名前と出身中学、あと、なぜこの高校を選んだか、順番に立って言うように。」
体育会系のような担任の先生が言った。
「それじゃあ、最初は、相田。立って、みんなに聞こえるように大きな声でな。」
「はい。相田一哉、豪南中学校出身です。この学校を選んだ理由は、県内でもトップクラスの進学校であり、スポーツにも力を入れ、自分にはぴったりだなと思ったからです。」
すごく真面目そうな男子だった。
「はーい。みんな拍手。」
みんな力一杯、拍手する。
「それじゃあ、次は、青木。」
「はい。青木しおりです。出身中学は、………。」
「………。次、坂本。」
「はい。坂本瑠璃です。西欧中学校出身です。この高校を選んだ理由は、親もこの高校の出身で、この高校の良さを聞いていたので、自分も通ってみたいと思ったからです。」
「そうか、親御さんもここの出身なのか。はい。みんな拍手。」
パチパチパチパチ。
「………。はい、次は最後だな。山口。」
ガラッ。いすの大きな音。立ち上がると長身だった。周りの女子がなにやら騒いでいる。
「山口零音。英南中出身。選んだのは、家が近いから。」
「それだけか? もっと理由はないのか?」
先生がそう聞いたときには、彼は、もう座っていた。
「まあいい。これでみんな名前もわかったな。仲良くするように。次の時間は、オリエンテーションだから、学級委員長に立候補したいやつは、考えておいてな。それじゃあ、十分休憩。」
ガラガラガラ。先生が職員室に戻って行った。
それにしてもなんだ、あのやる気のない男子は。山口零音。私もどうしてもここに入りたくて入った訳じゃないけど、それにしても、もっと言い方とかあるでしょ。そんなことを考えていると、
「ねえねえ、坂本さん? 瑠璃って可愛い名前だね。瑠璃ちゃんって呼んでいい?」
隣の女の子が話しかけてきた。
「ありがとう。うん。いいよ。えっと、……」
「私は、田中理沙。理沙って呼んでね。」
「うん。よろしくね、理沙ちゃん。」
理沙ちゃんは、スカートを短くし、派手なカーディガンを着て、クラスの中でも目立っていた。
「理沙ちゃんは、お姉さんもここの出身で、そのお姉さんに憧れて、この高校を選んだんだっけ?」
「まあ、さっきはそう言ったけど、本当は、ただここの制服が可愛かったからさ、この制服で登校したかったんだよね。ただそれだけ。」
理沙ちゃんは、嬉しそうに言っていた。
「瑠璃ちゃんは、親がここ出身だったからだっけ?」
「うん。でも私も別にそんなに理由なんてないんだ。小さいころから、ここに行くんだろうなーって思ってたから。別に小学校や中学校と変わらないよ。ただ受験しないと入れなかっただけで。」
「へー、じゃあ、頭良いんだ。私なんて、この制服着るために、普段しない勉強どんだけやったことか。」
「あっ、いや、ごめん。そういうつもりで言ったんじゃなくて。ただ自分で入りたいと思って入った訳じゃないというか。勉強は、私部活とかもやってなかったから、時間あったし。」
「なるほどねー。まあ、いいじゃん。せっかく、同じクラスの隣同士になったんだしさ、仲良くしようよ。」
高校ではじめてできた友達。なんだか嬉しかった。そんな話をしていると、先生が戻ってきた。
「それじゃあ、今から学級委員長を決めるぞ。席に着けー。」
みんなが席に着いている間に、先生は、黒板に学級委員長と書いた。
「まず、立候補したいやつはいるか?」
「はい!」
一人の男子が手を挙げた。相田一哉だった。さっき話してたこともすごく真面目だったけど、本当に真面目な人なんだなと思った。
「よし! じゃあ、男子は相田で決定だな。みんな拍手。」
教室中に拍手が鳴り響く。
「女子はいないかー、誰か立候補したいやつ。」
キョロキョロと人を見たり、下を向いたりする人ばかりで、誰も手を挙げなかった。
「しょうがないなー。じゃあ、とりあえず、今回は出席番号で決めるか。青木、やってくれないか?」
みんなの視線が青木さんに集中する。
「はい。わかりました。」
「おお、やってくれるか。ありがとう。それじゃあ、みんな青木に拍手。」
みんな自分がやらずに済んだ安堵からか、適任だなと思ったからか、相田くんのときより大きな拍手が起こった。
その日のお昼、理沙ちゃんに一緒にご飯を食べようと誘われた。理沙ちゃんは、中学校のときの友達が二組にいるから、その子も呼んで、三人で食べようと言ってきた。私は、友達も増えるし良いかなと思い、理沙ちゃんについて行った。
「しっほー! 昼飯一緒に食おうぜ。」
二組につくと、理沙ちゃんは叫んだ。
「シッーー! 理沙! うるせーよ。恥ずいだろっ!」
理沙ちゃんと同じように、スカートを短くし、派手なカーディガンを着た女子が、人差し指を口の前に立て、急いでやってきた。
「なんだよ、しほ。連れねーなー。」
理沙ちゃんは、笑いながら言った。すると、その子と目が合った。
「あっ、はじめまして。坂本瑠璃といいます。」
「はじめまして、末田しほりです。」
意外に丁寧だった。人は見かけによらないなと思った。私たちは、近くの渡り廊下でお昼を食べることにした。
「こいつな、しほりっていうの。しおりじゃないんだよ。変だろ? だからな、面倒くさいから、しほって呼んでんだよ。」
「うるさいなー、人の名前を馬鹿にすんなよ。」
何回同じこと言うんだよ、というような顔でしほりちゃんは、理沙ちゃんをにらむ。
「そうかなー、私は可愛い名前だと思うよ。」
「ありがと。瑠璃ちゃんも可愛い名前だよね。あっ、瑠璃ちゃんって呼んでいいかな? 私は、しほでいいよ。」
「ありがとう。うん。いいよ。じゃあ、しほちゃんって呼ぶね。」
私は、ただ呼び方を決めるという、そんな会話でさえ嬉しかった。
「三組の担任はどう?」
「うーん、なんか体育会系って感じ。」
理沙ちゃんが応えた。理沙ちゃんも私と同じこと思ってたんだと、クスッとした。
「なんだよ瑠璃。何笑ってんの?」
いつの間にか呼び捨てになっていることが、なんだか嬉しかった。
「いや、理沙ちゃんもそう思ってたんだなと思って。私もそう思ってたから。」
「だよね。あんな黒くて、あれ、日サロ行ってるでしょ、絶対。」
二人で笑っていた。
「いいなぁー、うちの担任なんて、おばさんでさ、服装のことで朝から、いろいろ言われたよ。」
しほちゃんが、ため息をつきながら言った。
「まじかよ。そりゃ、めんどくさいな。よかったー、二組じゃなくて。」
理沙ちゃんは、そう言うと、唐揚げを口に入れた。
「てかさ、二組、全然かっこいい男子いないんだけど、三組はどうよ?」
私の頭の中に、山口零音の顔が思い浮かんでいた。
「いたよ、一人。王子みたいなのが。背も高いし、綺麗な顔してた。周りの女子も騒いでたし。」
理沙ちゃんは、お弁当を食べながら言った。
「えっ!だれだれ? 名前は?」
「確か、山口零音だったかな。」
私はドキッとした。また理沙ちゃんと同じことを思っていたからではない。なぜだかわかないけど、麦茶を一気に飲んだ。
「なあ、瑠璃、かっこよかったよな?」
「えっ! え、えっと、顔はかっこよかったけど、なんか性格悪そうかな。」
少しこぼれた麦茶をふきながら、私は応えた。
「ははは。確かにちょっとすかしてたしな。」
「まあ顔がかっこよけりゃ、そうなるんじゃない?」
口をもぐもぐさせながら、しほちゃんは言った。
「まあ、なんでもいいよ。かっこいいとは思うけど、私のタイプじゃないし。」
理沙ちゃんは、面倒くさそうに言った。
お昼休みが終わり、教室に戻ると、何人もの違うクラスの女子たちが、三組のドアの前に集まっていた。
「ほんとだぁー! かっこいい!」
「超イケメンじゃん!」
「うわぁー、私も三組が良かったー。」
何人もの女子が、キャーキャー言いながら、話していた。彼女らの視線の先には、窓際の席から、どこか遠くを眺めている山口零音がいた。
「おいおい、もうこんなに人気なのかよ。」
理沙ちゃんがあきれながら言う。
「こんなに、たくさんの人が思ってたんだね。」
私は、驚いた。女子の何人かは、はやくもアドレスをゲットして騒いでいた。
「あっ! そういえばさ、瑠璃、携帯持ってる?」
「うん。この前買ってもらった。」
「じゃあ、メアド交換しよ!」
お母さんと家の連絡先しか入っていなかった私は、とても嬉しかった。
「うん!」
そういうと、赤外線というやり方で、理沙ちゃんが勝手にやってくれた。
「あとで、しほの連絡先も送っとくよ。」
「うん! ありがとう!」
放課後、理沙ちゃんと、しほちゃんと少し話して、家に帰った。
それからも、毎日、お昼は渡り廊下に行き、三人で食べた。食べながらいろんな話をし、家に帰ってはおばあちゃんに、病院に行ってはお母さんに、二人のことをいっぱい話した。
夏休み前、一週間前に受けたテストが返ってきた。
「瑠璃、どうだったー?」
「普通だったよ。」
「瑠璃は、頭良いからなぁー。普通がだいぶ高いんだろうなぁ。」
「そんなことないよ。理沙ちゃんはどうだったの?」
「……聞くな、聞かないでくれー。」
「ははは。まだ、はじめてのテストだったし、大丈夫だよ。」
「瑠璃は、優しいな。てか、それよりさ、夏休み何すんの?」
切り替えはやいな。
「んー、私は部活も入ってないから、何も決めてないよ。」
「じゃあさ、どっか旅行行こうよ。」
「お母さんが許してくれないと思うから、また今度にしよ。」
私は、お母さんがダメと言うところは想像できなかったが、そんな余裕はうちにはないことは知っている。
「そっかぁー。じゃあ、暇なときうちに泊まりにおいでよ! しほも呼んでさ、ガールズトークしようぜ。」
家に泊まりに行くなら、大丈夫かなと、私は大きくうなずいた。
夏休みに入ると、私は前々から思っていたことを、おばあちゃんに相談した。
「おばあちゃん、私、バイト始めようかなと思ってるんだよね。」
「そんな若いうちから働かなくてもいいよ。うちのことは心配しなくていいから。」
「違うの。そうじゃなくて。私も高校生だから欲しいものとかあるの。」
本当は、欲しいものなどなかった。ただ。おばあちゃんのことが心配だったし、迷惑をかけたくなかったからだ。おばあちゃんは、お母さんが入院してから、私たちのために、一度退職した縫製工場にお願いして、再び働かせてもらっている。
「そうかい? 何するの?」
「んー、まだ決めてない。でも、お母さんには内緒ね。」
おばあちゃんは知らないけど、西豪高校は、校則でバイトが禁止である。だから、ずっと迷っていた。でも、これ以上は迷惑をかけられない。お母さんは、バイトが禁止なことを知っている。お母さんに言うと、絶対に許してくれないことはわかっていた。悪いなとは思ったけど、黙っておくことにした。
バイトを探し始めて一週間が経過したころ、お母さんが入院している病院の近くのコンビニにバイト募集と書かれた紙が貼ってあるのを見つけた。ここなら、学校からも遠いし、少し分かりにくい場所にあるのでいいかなと思った。
次の日、さっそく履歴書を持って行ってみた。
「いらっしゃいませ。」
眼鏡をかけた男性が言う。
「あ、あの、すみません。バイト募集の紙を見て来たんですけど…。」
「ああー! それは助かる。来てきて。」
レジの横の控え室のような場所に通された。
「前からバイトは募集してたんだけどね、ほらここ、ちょっと分かりにくい場所にあるだろ? だから、全然受けにきてくれる人がいなくて…。いつから働ける?」
「え、あっ、明日からでも大丈夫です。」
「じゃあ、明日の朝九時に来れるかな?」
「はい。大丈夫ですけど…。私は、ここで働かせてもらえるということでしょうか?」
「そうだよ。働きたくてきたんでしょ?」
その男性は笑いながら言った。
「はい。ありがとうございます。あ、一応これ履歴書です。」
「西豪高校か。頭良いんだね。じゃあ、仕事もすぐ覚えられそうだ。夏休みが終わったら、午後のシフトにすれば大丈夫かな?」
「はい。大丈夫です。ただ、週三日か四日でも大丈夫ですか?」
私は、母が入院していて、お見舞いに行くからとは言わなかった。
「全然大丈夫だよ。働いてくれるだけで助かるよ。あ、店長の大木です。店長っていっても、今は一人なんだけどね。明日からよろしくね……、坂本さん。」
店長は、履歴書を見ながら言った。うちの高校がバイト禁止なことは知らないらしい。騙しているみたいで胸が痛かった。でも、それ以上に、あの歳で毎日私たちのために働いてくれているおばあちゃんを見ているほうが、ずっと胸が痛かった。
「はい。よろしくお願いします。」
家に帰り、おばあちゃんにバイトが決まったことを報告した。おばあちゃんは、笑顔だったが、少し寂しそうだった。
次の日から、私はバイトをはじめた。店長は優しく、仕事も徐々に覚えていき、私の夏休みは終わろうとしていた。そんなある日、携帯電話が鳴る。
「瑠璃! お久っ! 理沙だけど! 元気ー? あのさ、もうすぐ夏休み終わるじゃん? だからさ、明後日うちに泊まりにおいでよ。しほも呼んで、三人で夏休み最後に楽しもうぜ。」
「理沙ちゃん、久しぶり。うん! 行きたい! お母さんに確認してみるね。」
「おっけー。じゃあ、確認したら連絡してよ。しほにも言っとくから。」
「うん、わかった。ありがとう。」
「瑠璃ー、こっちこっちー。」
理沙ちゃんが手を振っていた。今日は理沙ちゃんの家で、お泊まり会だ。お母さんとおばあちゃんも快く承諾してくれた。
「しほちゃんは、もう来てる?」
「あいつは、少し遅れてくるって。」
玄関を上がると、綺麗なリビングにつながっていた。
「こんにちは。瑠璃ちゃんね。その辺適当に座っていいからね。荷物も適当に置いときな。」
理沙ちゃんのお母さんだった。話し方が理沙ちゃんみたいだった。夕食の前に、しほちゃんも合流し、夕食は、理沙ちゃんの弟も加わって、五人で食べた。なんだか、こんなにわいわい賑やかに食事したのは、はじめてだった。夕食のあと、三人でお風呂に入り、理沙ちゃんの部屋にお布団を引いて、三人で川の字になって、寝転んだ。二人の夏休み中の出来事などいろんな話を聞いた。
「そういやさ、山口零音。あいつ夏休み前のテスト、クラス一位だったらしいよ。しかも、サッカー部じゃ、一年なのにもう三年の試合出てて、選抜にまで選ばれてるんだって!」
突然、理沙ちゃんが話題を変えた。これが、ガールズトークなのかなと私は思った。
「まじ? あの顔で頭良くてスポーツもできるって、なんなの。」
「ほんとだよな。もう体臭めっちゃ臭いとかじゃないと、割にあわなくね?」
理沙ちゃんと、しほちゃんは二人で大笑いしていた。
「てか、なんで理沙がそんなこと知ってんの?」
「いや、夏休みから、野球部のマネージャーになったって言ったじゃん? それで、夏休み学校のグラウンドに行ってたんだけど、サッカー部もいてさ、三組のやつがサッカー部のマネージャーだったから、いろいろ聞いたんだよ。しかもあいつ、先輩たちからもめっちゃ人気らしいよ。」
「まあなー、あの顔じゃ、モテるだろうな。」
「そういや、瑠璃は好きなやつとかいねぇの?」
突然理沙ちゃんが聞いてきた。
「わ、わたしはいないよ。あんまりそういうの興味ないし。」
なぜか少したどたどしかった。
「なんだよつまんねーなー。」
理沙ちゃんとしほちゃんは二人で言った。
「そういう二人は、好きな人とかいるの?」
私は、恐る恐る聞いた。
「いるよ。サッカー部のやつなんだけど、かわいいんだよ。」
さっきより理沙ちゃんが女の子っぽく言った。
「えーー! そうなの? だれ?」
しほちゃんは飛び起きて聞いた。私もびっくりして、飛び起きた。
「五組の益田翔。」
「あー、あの小さい子。理沙って、ほんとかわいい子好きだよね。」
「まあな。」
「ま、男っぽいからかわいい子にモテるしな。でも、野球部にかわいい子がいたから、マネージャーめんどくさいけど、引き受けたんじゃなかったっけ?」
「あー、いたんだけどさ、サッカー部が横で練習してるの見てたら、なんかね。それによく見ると意外にかっこいいんだよ。」
「なんだよそれ。」
私は二人が会話しているのを聞いてはいたが、どの人のことを言っているのかわからないでいた。
「しほちゃんはいないのー?」
「こいつはな、中学んときから付き合ってるやつがいるんだよ。」
「おい、さらっというな。」
しほちゃんが理沙ちゃんをにらむ。
「いーじゃねぇか。瑠璃には言ったって。」
「まあ、瑠璃ちゃんならいいけど…。」
なんだか、秘密を共有してるみたいで嬉しかった。そんなことを話しているといつの間にか寝ていた。
「じゃあまた、学校でなー。」
次の日、私は家に戻った。
高校一年の十二月。
「瑠璃!」
理沙ちゃんとしほちゃんは一緒に登校してきた。
「ちょっときて!」
なぜか理沙ちゃんは教室に入らず、私を呼んだ。そのまま理沙ちゃんは何も話さず、三人で渡り廊下に行った。
「瑠璃、あのな、しほにはさっき言ったんだけど、昨日、翔に告られて、付き合うことになりましたー!」
「えっ! 翔くんってあのサッカー部のかわいいって言ってた人?」
「うん、やっと、告ってきたよ。ずっと好きアピールしてたから、もっとはやく告ってほしかったんだけどな。」
笑いながら理沙ちゃんは言った。
「よかったね! 私も嬉しいよ!」
私は自分のことのように嬉しかった。
「あとは、瑠璃だけだな。」
二人でにやにやしながら私に言った。
「いや、私は好きな人とかもいないし…。」
「そっかー。じゃあ、好きな子できたら、すぐ教えてな!」
「うん…。」
なんか友達っていいなとしみじみした。その日の放課後、お母さんに会いに行った。
病室に入ると、お母さんが先生と話している。
「瑠璃ちゃん! ちょうどいいところに来たね。お母さんね、今先生に許可もらって、今年のクリスマスは家に帰れることになったの。」
「え! ほんと!?」
私は嬉しくて泣き出しそうだった。久しぶりにお母さんとクリスマスを過ごせる。
「でも、あんまり無理はしないで下さいね。」
先生が言った。
クリスマス、私はお母さんを迎えにいった。真っ赤なマフラーを巻いたお母さんはすごく目立っていた。家に戻ると、おかあさんもおばあちゃんも、とても嬉しそうだった。私は、おばあちゃんが夕食の準備をしていたので、お手伝いした。夕食が出来上がり、久しぶりにみんなで机を囲んだ。みんなが似たような笑顔でいろんな話をした。このまま時が止まってくれないかなと、私は思った。
年が明け、何度目かの席替えをした。みんながくじを引き、席が分かると移動した。私は、前日のバイトが夜のシフトだったので、あまり寝ておらず、新しい席に移動すると、机に伏せて、いつの間にか目を閉じていた。
イイニオイ
夢の中なのか、すごく良いにおいがした。
「そこ、俺の席なんだけど、」
ヒクイコエ、ナンダカアンシンスルオト
夢の中って、なんだか気持ちいい。
「なあ、そこ、俺の席なんだけど。」
パッと目を開けると、誰かが立っている。
山口零音。
「ここ、俺の席なんだけど。」
「えっ、ご、ごめんなさい。」
「瑠璃! 瑠璃は、ひとつ後ろの席だよ。」
理沙ちゃんが小声で言った。私は、荷物を持ち、理沙ちゃんに、ありがとうと小声で言って、ひとつ後ろの席に座った。
「瑠璃どうしたの? 寝ぼけてんの?」
斜め後ろの席の理沙ちゃんが言った。
「昨日あんまり寝てなくて…」
昼休み、三人でお弁当を食べながら、理沙ちゃんがしほちゃんに、席を間違えたことを笑いながら話していた。
「………、そしたらさ、そこが山口零音の席でさ、………
めっちゃ笑えるのこらえたよ。なあ? 瑠璃。」
「………」
「なあ、聞いてる? おーい、瑠璃!」
「えっ? ご、ごめん。ぼーっとしてた。」
「なんだよ、なんかあったのか?」
「いや、なんでもないよ。」
「瑠璃ちゃん、なんかあったの? ご飯も全然食べてないけど。」
「ううん。なんでもない。」
「女のなんでもないは、なんかあるってことだぞ。」
理沙ちゃんが、意地悪そうに言った。
「まあいいや。午後の授業は五組と合同で体育だからな。しっかり食べないと動けねぇぞ。五組のやつらには負けられねぇからな。」
「うん…。」
イタッ!
「瑠璃どこ見てんだよ。せっかい良いトスあげたのに。あれアタックしたら絶対決まってたぞ。五組のやつら全然動けてねぇし…。」
「ごめん。」
「男子は、サッカーやってんだな。」
そう、私はサッカーを見ていた。山口零音。なんで。なんで。なんで目が彼の方に動くの。
「やっぱ、あいつ上手いんだな。それに比べて、翔は、……。」
「翔くんも上手だよ。」
私は、翔くんを今見たばかりで、正直上手いのかわからなかった。
放課後、しほちゃんが、ちょっとカフェに行こうと言ってきた。学校の近くのカフェに行った。
「理沙はああ見えて、案外真面目だから、もうしっかりマネージャーだね。」
「うん。」
「…ねえ瑠璃ちゃん。山口零音のこと好きなんでしょ?」
ガタンッ
私は飲んでいた、抹茶オレをこぼした。
「な、なに言ってんのしほちゃん。そんなわけないよ。授業中も寝てばかりだし、起きてるとおもったら、教科書に落書きばっかりしてるし、サッカーしてるときも、上手いのはわかるけど、全然パス出さないし、それに、…」
「よく見てんだね。」
「えっ?」
「山口零音のこと。よく見てんだね。」
「えっ、いや、そんなことないよ。ただ最近、席が近くになったから。」
「へぇー、でも、体育に席はないでしょ。」
しほちゃんは、にやにやしながら嬉しそうに言った。
「…そ、それは、たまたま目に入っただけで…。」
「そっか。すいませーん、お会計お願いしまーす。」
しほちゃんが店員さんを呼んだ。
「しほちゃん、……私、好きなのかな…。」
「それは、瑠璃にしかわかんないでしょ。ま、自分ですらわかんないときもあるけどね。でも、好きな人のことって、自然に目で追ってるんだよ。私も中学のとき今の彼氏と付き合う前は、彼の行動けっこう知ってたよ。勝手に見てたんだろうね。」
「そうなんだー。」
「まあ、明日理沙にも話してみれば? 昼休み三人で話そうよ。」
「うん…。」
「ええええええ! そうなのか! 全然気づかなかったわ!」
「やっぱ、理沙わかってなかったのね。あんなに分かりやすかったのに。そんなに近くにいて。」
あきれながらしほちゃんは言った。
「んー、よくわかんないんだけど、気にはなってるんだと思う。気づいたら目で追ってるから。」
私は、照れながら言う。
「でも、昨日翔から聞いたけど、あいつ、最近彼女できたらしいぞ。」
「おいっ! 理沙、こんなときに言うなよそんなこと!」
しほちゃんが珍しく少し怒っていた。
「ごめん、でも、今言わなくてもいずれわかるだろ。」
「まあ、そうだけど…。で、相手は誰なの?」
「二年の白井先輩。」
「えっ! 白井って、学校で一番可愛いって言われてる、あの白井空?」
「うん。」
二人は黙って下を向いた。
「でも、私好きってわけじゃないと思うから、いいんじゃない? それに、その二人ならお似合いだと思うし。」
私は、何の感情も入れずに言った。
放課後、病院に行った。
「瑠璃ちゃん、最近学校はどう?」
「別に。」
私は、なぜか冷たい態度をとっていた。はじめてだった。はじめてこんな感情になり、少しイライラした。自分から病院に行ったのに、すぐ家に戻った。部屋に入って、ベッドに横たわる。なんで? 何にイライラしてるの? なんか私じゃないみたい。お母さんに、あんな態度をとってしまったことを反省していた。ごめんなさい、お母さん。心の中で何度もそう言った。
次の日、学校に行くと、校門の近くに、綺麗な人がいた。白井先輩だった。スタイルも良く、ロングヘアーの綺麗な髪。スカートは短いのに、なぜだかいやらしくない。カーディガンは派手なのに、なぜだかあまり目立ってない。そんなことを考えながら、教室に行くと、突然めまいがした。壁にもたれていると、理沙ちゃんが気づいて助けてくれた。
「大丈夫か瑠璃? すごい熱じゃないか。」
理沙ちゃんは、私のおでこに手を当てながらいった。
「さ、さむい。」
私はなんだか寒気もした。すると、理沙ちゃんは、自分が着ていたカーディガンを脱いで、私に着させてくれた。そのまま私は保健室に行った。熱を測り、保健室のベッドで寝た。それからどれくらい寝ただろうか。
目を開けると目の前には理沙ちゃんの顔。
「うわぁっ!」
私はびっくりした。理沙ちゃんとしほちゃんが心配してきてくれていた。
「ごめんごめん。でも、前から思ってたんだけどさ、瑠璃って、よく見るとけっこう可愛い顔してるよな。」
「そんなことないよ。」
私は立って、鏡に映る自分を見た。あれ? そうか、理沙ちゃんのカーディガン着てるのか。ピンクの派手なカーディガン。
「似合ってんじゃん、そのカーディガン。ついでに、ちょっと、スカートも短くしようぜ。」
そう言って、理沙ちゃんは私のスカートを短くした。
「かわいいー!」
理沙ちゃんだけでなく、しほちゃんもそう言ってくれた。嬉しかった。でも、恥ずかしくなり、すぐに元に戻して、カーディガンも理沙ちゃんに返した。その日は、そのまま早退した。夜、理沙ちゃんから電話がかかってきた。
「もしもしー、体調どう?」
「まだちょっと、熱があるかな。でも、もう平気だよ。今日はありがとうね。」
「そっか。明日は休んだほうが良いだろ。」
「うん。そうしようかな。」
「あとさ、さっきしほと話したんだけどさ、今週の土曜日、買い物行こうぜ。」
「え、あ、うん。いいけど。」
「おっけー。じゃあ、決まりな。とりあえず今日はゆっくり休めよ。またなー。」
「ありがとう。またね。」
急にどうしたんだろう、買い物って。
土曜日、お待たせーと言いながら理沙ちゃんとしほちゃんが待ち合わせ場所にやってきた。と同時に、二人は行き先も言わず、私の両腕を持ち、ひっぱっていった。
「え、どこ行くの?」
「なーいしょ。」
二人は、にやにやしながら言った。目的の場所に着いたのか、二人は手を離してくれた。
「よっしゃー、瑠璃。何色にする?」
そう言われ、振り向くと目の前には、たくさんのカーディガンが並んでいた。
「え、どういうこと?」
「だって、この前貸したとき、めっちゃ可愛かったからさ。」
「うん。確かに可愛かったな。」
しほちゃんも続けて言う。そして、山口零音と先輩のことを知ったからか、最近自分がよくわからなくなったからか、何かを新しくしたかった。それにバイトで貯めたお金もあった。
「んー、二人がそんなに言ってくれるなら、買っちゃおっかなー。」
私は、少し二人のような口調で言ってみた。
「よっしゃ! そうこなくっちゃ。」
理沙ちゃんは、なぜか一番張り切っていた。しほちゃんは横で、うなずいていた。いろんな色があって迷ったけど、私は、キャメルにした。
次の日から、そのキャメルのカーディガンを着て、ついでに、理沙ちゃんたちから言われて、スカートも短くして学校に行くようになった。
3
高二の夏休み前、服装が派手になったせいか、自分の気持ちに気づきたくなかったせいか、言葉遣いまで理沙ちゃんたちのようになっていた。
「瑠璃、テストどうだったー?」
二年になって、クラスが別れた理沙ちゃんが廊下であって聞いてきた。
「んー、微妙って感じ。」
「ははは、あの成績優秀だった瑠璃ちゃんはどこに行っちゃったのかねー。」
理沙ちゃんが笑いながら言う。
「さあね。」
「ちなみに、山口零音は、うちのクラスで一番だったよ。」
「へぇー。てかさ、夏休みなにすんの?」
「なんだよ、そっけないなー。夏休みは野球部が合宿とか、練習試合ばっかでさ、それについていかされるんだよ。」
「そっか、マネージャーも大変だな。」
「まあねー、それじゃ、そのマネージャーの仕事しに行ってきますわ。」
理沙ちゃんは、グラウンドに向かった。私はヘッドホンをつけ、音楽を聞きながら、母の病院に向かった。
「やっほー」
「あら瑠璃ちゃん、。テストはどうだったー?」
「まあまあだよ。それよりさ、このリンゴ食べていい?」
私は、母の返事を待たずに、剥いてあったリンゴを食べた。
「最近、瑠璃ちゃん派手になったねー。スカートも短くしちゃって。言葉遣いも変わったし…。」
「いいじゃん。可愛いでしょ?」
私は、スカートをひらりとさせながら言った。その後も、私は最近のことなどいろいろと話したが、母は前より笑う回数が減っていた。
夏休みになると、私はバイトばかりやっていた。最近、おばあちゃんが仕事を減らされているのを知っていたからだ。午前は、母のお見舞いに行き、午後はバイトに行く。そんな日々を送りながら、私の夏休みは終わった。
久しぶりに、理沙ちゃんとしほちゃんに会う。
「瑠璃ー、久しぶり! 元気だった?」
理沙ちゃんとしほちゃんが校門の前で抱きついてきた。
「まあねー、そっちはー?」
「マネージャーの仕事で忙しかったよー。ごめんねー、あまり連絡取れなくてー。」
「いいよ。私もやることあったし。しほちゃんは何してたの?」
「彼氏と会ったりかなー、学校違うから、夏休みは一緒にいたいって言われてさ。」
「ラブラブだねー。」
「あっ、そういえばさ、翔と別れたから。」
突然、理沙ちゃんが言った。
「ええええええ、なんで? てか、さらっと言いすぎでしょ。」
私としほちゃんは驚いた。
「いや、なんかさ、野球部のマネージャーの仕事に忙しくてさ、あんま会えなかったし。」
「そっかー。向こうもサッカーで忙しいもんな。」
「ま、でもいいんだよ。もう新しい彼氏いるし。」
理沙ちゃんは、髪を指でくるくるさせながら言った。
「はーーーーーー!? はやっ! だれ!?」
私としほちゃんはまた驚いた。
「んーとねー、野球部の後輩?」
なぜか、少し疑問系で理沙ちゃんは言う。
「まじかよ、やっぱ弟系好きだよねー、理沙は。」
「ほんとほんと、理沙ちゃん年下にモテるしね。」
休み時間に、その後輩の人を見に行き、その日は、その話題で持ちきりだった。その日の放課後、保健室の前にある花壇や鉢の花に水をあげていた。前に熱で保健室のベッドで寝てたとき、綺麗だなと思いながら見ていた。その日以来、暇なときはいつも放課後水をあげていた。すると、帰ろうとしている後輩たちの声が聞こえてきた。
「あの先輩たちなんか怖くない?」
「うん。別になにかされたわけじゃないけど、あの三人、服も派手だし、怖いよね。」
「田中先輩と末田先輩と坂本先輩でしょ?」
「そうそう! 学校でけっこう目立ってるよねー。」
そんな声が私の鼓膜を揺らした。私は驚いた。何も悪いことしてないのに、ただ格好だけで怖がられるの?
次の日から、意識しだしたからか、常に周りからの視線を感じる。放課後ぼーっとしていると、ひとりの女子が先生にロッカーの掃除を頼まれていた。その女子は、はい。と先生には言いながらも、少し嫌そうだった。先生が行くと、近くの女子たちに、用事があるから代わってもらえないかと頼んでいた。でも、誰も代わってはくれなかった。
「ねえ、代わろうか?」
私はその女子に声をかけた。
「え、あ、大丈夫です…。」
「でも、なんか用事あるんだろ?」
「あ、はい…。」
「だから、代わろうか?」
「…、あ、ありがとうございます。」
「うん、いいけど、なんで敬語なの?」
「いや、なんと…なく。」
その女子は、まったく私と目を合わせない。
「まあ、いいや。私がやっとくから、はやく行きなよ。」
やっぱりみんな私のこと怖いと思っているのかなと思った。一年のときも何度か同じようなことがあったが、そのときは、みんなよく私に頼んできた。そのときも引き受けたが態度が全然違う。
そんなことを考えながら、それからも毎日のように三人で騒いでいた。最初は気になっていた視線も、いつの間にか気にならなくなっていた。
クリスマス前、お母さんに会いに病院に行くと、今年も真っ赤なマフラーをつけていた。近くで見ると糸はほどけ、ボロボロになっていた。少し世間話をした後、沈黙が続いた。その後、私は重い口を開いた。
「実はさ、内緒にしてたんだけど、私バイトしてるんだ。」
私は、ずっと黙っていたが、やっぱりお母さんに隠し事をするのは胸が痛く、ついに言ってしまった。
「知ってたわよ。」
「え、なんで?」
「お母さんは、瑠璃ちゃんのこと何でも知ってるのよ。」
「怒らないの?」
「んー、本当はダメだけど、瑠璃ちゃんおばあちゃんのためにやってるんでしょ? そんな優しい子、お母さんは怒れないわ。それにね、全部お母さんのせいだから…。」
「お母さんは、悪くないよ。仕方ないもん。」
このときだけは、前の話し方で話していた。私は泣きそうになった。
「もうこのマフラー、ボロボロじゃん。今度のクリスマスに新しいの買ってあげようか?」
泣くのを我慢するためか、話題を変え、話し方も戻した。
「お母さんは、このマフラーが好きなの。こんなに暖かいマフラー他にないもの。だから他のはいらないわ。」
母は、マフラーを頬でスリスリしながら言った。
「でも、それ、下手だし。生地だって、そんなに良いものじゃないから、もっと良いやつ買ってあげるよ。私、もうすぐ給料もらえるし。」
「生地の問題じゃないのよ。それにお金をかけてもらうより、瑠璃ちゃんが一生懸命、お母さんのことを思いながら作ってくれたもののほうが全然良いわ。」
我慢したはずの涙が、今にもこぼれ落ちそうだったので、私はそっか、とだけ言って、病室を出た。病室を出ると、ナースのお姉さんがいた。
「瑠璃ちゃんのお母さんね、夏でも寝るときは、あのマフラーつけてるのよ。」
「そうなの? だから、あんなにボロボロなんだ。でも、夏とか絶対暑いじゃん。」
私はあきれたように言いながらも、涙が頬をつたわっているのを感じた。
クリスマス。おばあちゃんに習いながら、ケーキを作った。半分をおばあちゃんにあげ、半分をお母さんにもっていった。お母さんも、ケーキを作ってくれていたので、半分を二人で食べて、半分をおばあちゃんに持って帰った。
年が明け、学校でいつものように三人でお昼を食べていた。
「もうすぐ、三年かー。」
理沙ちゃんが、空を見ながら言った。
「そうだなー、受験かー、大学どうしようかなー。」
しほちゃんも空を見ながら言った。
「瑠璃は、大学どうすんのー?」
「んー、大学かー、私は別にいいかなー。」
「いいかなーってどういうことだよ。瑠璃大学いかねぇの?」
「んー、どうだろうねー。」
私は、二人にも親のことを言ってない。信用していないわけではない。ただなんとなく、言わなかった。
「瑠璃、最近は微妙だけど、もともと頭良いんだから、絶対行ったほうがいいよ。」
「んー、考えとくわー。」
そう言って、私たちはまた普段のようにくだらない話に戻った。
ある日の放課後、私はバイト先のコンビニで雑誌の入れ替えをしていた。
ウィーン
扉の開く音。
「いらっしゃいませー。」
と言い終えたか、言い終えなかったか覚えてはいないが、私は心臓が止まりそうになった。入ってきたのは一人の男性。山口零音だった。
「あれ? 確か一年のときに同じクラスだった、坂本さん?」
私はドキッとした。名前覚えてくれてたんだ。
「え、あ、まあ。」
私は、おどおどしながらこたえた。
「うちの学校って、バイト禁止じゃなかったっけ?」
私はドキッとした。さっきのやつとは違う種類のものだった。
「………」
「別に誰にも言わないよ。でもさ、バレたらヤバいのに、なんでバイトしてんの?」
「え、いや…、これが欲しくて。」
私はとっさに、持っていた雑誌の女性がつけていたヘッドホンを指差した。別にそれが欲しかったわけではない。今持っているやつで十分だった。ただ、お母さんやおばあちゃんのためとは言いたくなかった。
「…ヘッドホン? へぇー、まあいいや。」
それ以上は何も言わず、炭酸飲料だけ買って、帰っていった。
それから三日後、また山口零音が来た。山口零音は話しかけてくるが、私は、恥ずかしくてあまり話せなかった。その後、何度か来て、私たちは学校の話などいろいろと話すようになっていった。私は、気持ちが気づかれるのを恐れてか、恥ずかしくてか、理沙ちゃんたちと話すときのように話していた。
ウィーン
「また来たの?」
「まあな、サボらずちゃんと働いてるかなーと思ってな。」
「働いてるわ。そっちこそ、部活サボってないでちゃんと行ったら?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 俺、そこの病院に通ってんだよ。」
お母さんと、同じ病院だった。
「え、なんで?」
「試合中に腰けがしちゃってさ、リハビリってか、なんていうか、そんな感じのことやってんの。まあ、そんなに大したけがじゃないんだけどな。」
「そうなんだ。」
「あのさ、前から思ってたんだけどさ…」
私はドキッとした。
「なによ?」
「いや、俺別に、外見とかで人を判断するタイプじゃないからさ、いいんだけどさ、損だと思うよ?」
「な、なにが?」
「いや、学校でも派手な格好でさ、言葉遣いもそんなんじゃん? せっかく内面良いのに、損するんじゃないかと思って。」
「は?」
「人は外見で判断するなって言うけどさ、はじめて会ってすぐ、その人の内面なんてわかんないんだから、外見や言葉遣いである程度は判断するしかないんだよ。その後に、だんだん内面も知っていくんじゃない? だから、そんな感じじゃ、せっかく性格良いのに、内面見られる前に、周りの人から誤解されるよって言ってんの。」
「別に、私性格良くないし。」
「良いよ。だって、人が嫌がることとか率先してやるし、掃除と代わってあげたり、花に水とかもやってるじゃん。」
「なんでそんなこと知ってんのよ? ストーカー?」
私は気持ち悪そうに言ったが、本当は少し嬉しかった。山口くんが私のこと見ててくれたんだ。そう思うと嬉しくてたまらなかった。
「ストーカーじゃねぇよ。たまたま近くにいたから。」
「あっそー。でもさ、山口くんに言われたくないんだけど、そっちだって、一年のはじめ、自己紹介したときとか、めっちゃ感じ悪かったじゃん。」
「俺は、恥ずかしいと、ちょっとあんな感じになるんだよ。」
一緒だ。この人私と少し似てる。
「そんなの知らないよ。恥ずかしがってるとか相手はわかんないじゃん。」
「う、うん。それはそうだけど………、じゃあさ、俺と一緒になおそうよ。俺も恥ずかしとき感じ悪くなるのなおすからさ、坂本さんもなおそうよ。」
「え、なんでよ。」
「わかったよ。じゃあ、服装は良いとしても、話し方なおそうよ。」
「だから、なんでよ。一人でなおせばいいじゃん。」
「いや、一緒になおすほうがおもしろいじゃん。」
「は? 意味分かんないんですけど。」
「意味はわかるだろ。日本語話せないのかよ。」
「日本語話せなかったら、私と会話できないでしょ。」
「もういいよ。めんどくさいな。」
「そっちがめんどくさいんじゃん。」
「でも、もう決定したから。一緒になおすの。」
「は? なんで勝手に決定すんの?」
「俺が決定したからだよ。」
「なんなのそれ。」
なんだか、私は話しながら楽しかった。山口くんは、一方的に言って、帰っていった。
その日の夜、ベッドで寝転びながら、山口くんに言われたことを考えた。
「だから、何もしてなくても、みんなに怖がられてたのかなー。」
私は、天井を見ながらつぶやいた。
次に日からも私は、普通に理沙ちゃんとしほちゃんと話していた。本当はすぐに話し方をなおそうかなと思った。ただ、すぐになおすと、山口くんは彼女がいるからと押さえていた私の気持ちが、溢れ出しそうだった。だから、すぐにはなおせなかった。
それから、何日か経って、バイト先に新しい男子が入った。
「はじめまして。今日から働くことになりました、宮川由樹です。よろしくお願いします。」
「はじめまして。坂本瑠璃です。よろしくお願いします。」
「瑠璃さん、でいいですか?」
「あ、はい。なんでも。」
「僕は、由樹でいいんで。」
「由樹くんは、高校生?」
「はい。星北高校です。今一年でもうすぐ二年になります。」
「そうなんだ。じゃあ、私のひとつ下なんだね。」
「そうなんですね。どこの高校ですか?」
「せい……、さあーねー。どこでしょう。」
私は、言おうとしたが、バイトが禁止なことを知っていたら困るので、言わないことにした。
「えーー、なんでですか。どこの高校かくらいいいじゃないですかー。」
少し馴れ馴れしい子なんだなと思った。
「どこでもいいでしょ。」
私は、馴れ馴れしかったから、いつもの口調で言った。
「瑠璃さん、こっわー。」
由樹くんは、冗談っぽく言った。また怖いと思われた。やっぱり、みんなそう思うのかと思いながら、それからも、由樹くんが馴れ馴れしいせいか、バイト中もよく話すようになっていった。
そんなある日、バイト先で由樹くんと、いつものようにおかしな話をしながら、笑っていると、山口くんがやってきた。山口くんは、雑誌コーナーに行き、雑誌をぱらぱらとめくっていた。何かをすぐに買う様子もなかったので、私はそのまま由樹くんと話していた。そして、少し時間が経ち、山口くんがスポーツドリンクをもって、レジに来た。
「あのさ、仕事中にしゃべりすぎじゃない?」
「は? 山口くんだって、前はよく話しかけてきてたじゃん。」
「俺はいいんだよ。」
「なにそれ。」
私は、お会計を済ませたスポーツドリンクを渡した。山口くんはそのまま何も言わずに帰っていった。
「なにあれ。むかつく。」
それから、山口くんはあまりバイト先に来なくなった。
学校では、今までは女子にキャーキャー言われても、素っ気ない態度をとっていた山口くんが、少し女子たちと話すようになっていた。一年前のような感情。なぜだろう、服装や言葉遣いで包んでいた感情が、飛び出したいとうずいてるいる。
放課後、お母さんに会いに行った。病室から出て、帰ろうとすると、病院内で山口くんに会った。
「あれ? 坂本さん? なにしてんの?」
「え、いや、別に。 そっちこそなにしてんの?」
「俺は、リハビリ。」
「瑠璃ちゃーん、携帯、お母さんの病室に忘れてたよ。お母さんに届けてって言われて。」
突然、後ろからナースのお姉さんのに言われた。
「あ、ほんとだ。ありがと。」
私は、小声で言った。
「お母さん、入院してんの?」
ナースのお姉さんが戻ると、山口くんが言った。
「関係ないでしょ!」
「ああ、ごめん。でも、前にも言ったけど、その話し方やめたら? お母さんが入院してるなら、お母さんにまで迷惑かけるでしょ。」
「え…。」
「だって、娘がそんな話し方してたら、お母さんの評価も落ちるでしょ。」
自分だけだと思っていた。自分だけが怖いと思われ、別に気にしていなかった。でも、お母さんにまで迷惑をかけていたのか。すごく申し訳ない気持ちになった。やめよう。そう思った。
「うん。そうだね。じゃあ、そっちもなおしなよ?」
「え、俺、今も頑張ってるんだけど…、まだ、感じ悪い?」
「え、いや、別に感じ悪くはないけど。」
「ならよかった。」
そう言うと、山口くんは少し笑った。
4
高校三年生。山口零音と同じクラスになった。私は、二年生の終わりから、だんだんと話し方をなおしていた。
「最近、瑠璃、話し方もどったよな。」
休み時間に三人で集まっていると、理沙ちゃんが言った。
「うん。変かな?」
「いや、いいんじゃない? 瑠璃らしいし。それに、話し方がどうであっても瑠璃は瑠璃だろ。」
「そうそう、私たちはもう瑠璃の内面知ってるからね。どんな話し方でも瑠璃ちゃんだよ。」
嬉しかった。嫌われるかなと思っていた。でも、それどころかこんなに嬉しいことを言ってくれるなんて…
「二人と友達になれて、幸せだな。」
「なんだよ急に。」
三人で照れながら笑った。
それから、綺麗だった桜も少しずつ散っていったころ。私は、朝からバイトしていた。あともう少しでバイトが終わるな、と時計を見ていると、山口くんがやってきた。炭酸飲料だけ手に取り、すぐにレジに来た。
「なあ、今日バイト何時に終わる?」
いきなり山口くんは聞いてきた。
「え、もう少しで終わるけど。」
「じゃあ、外で待ってるから。」
「なんで?」
私は、うん。と言えばいいだけだったのに、嬉しさからか、理由もすぐに知りたくて聞いてみた。
「いいから。待ってるから。」
そのまま、山口くんは出て行った。
バイトが終わり、着替えて外に出ると、山口くんが待っていた。
「あのさ、ちょっとつきあってくれない?」
「どうしたの?」
「そこの公園に行こう。」
なんで? と言いたかったが、理由は聞かずついていった。バイト先からは近かったが、家とは反対側だったので、行ったことはなかった公園。行ってみると、海が見えて綺麗な公園だった。二人でベンチに座り、何も話さず、ただ海を見ていた。自分から呼び出しといて、なんで黙ってるんだろう。そう思いながらも私は、何も言えないでいた。
「ごんね、急に呼び出して。」
沈黙を破り、山口くんが言った。
「ううん。別にいいけど、どうしたの?」
「いや、ちょっと誰かと話したくて。」
「なにそれ。可愛い彼女の先輩と話せばいいじゃん。」
私は、なにを言ってるんだ。そんな余計なこと言わなくていいのに。素直になればいいのに。そう思った。
「別れたよ。」
「え、そうなの…、……なんかごめん。」
私は、前に山口くんが別れたときのことを、夜ベッドで寝転びながら考えたことがある。ものすごく嬉しかった。嬉しくてそのときは別れてもないのに、ガッツポーズをしていた。でも、今は違っていた。なぜだろう。嬉しいはずなのに、喜べない。むしろ山口くんのことが心配で、悲しい気持ちにさえなった。
「でも、なんで別れちゃったの?」
黙っている山口くんに私は言った。
「向こうは、大学で県外に行ったからね。遠距離になったし。」
「そっか…。大丈夫?」
「まあ、二年の終わりのほうから、向こうは受験勉強で忙しくて、なかなか連絡も取れなかったし、いつかこうなるんだろうなって思ってたから。別に大丈夫だよ。それに、今日話したかったのは、そのことじゃないしね。」
「え、そうなの? どのこと?」
「………、いや、あのさ、前に今腰けがしてリハビリみたいなのしてるって言ったじゃん?」
「うん。でも、大したけがじゃないんでしょ?」
「あのときはそう言ったけどさ。本当は、そうじゃないんだ。はじめてあのコンビニで坂本さんに会った日、その前に病院に行って、先生に、もうサッカーができないかもしれないって言われたんだ。それでも、あきらめきれなくて、どうにかまたサッカーができるようにならないかって、次の日も病院に行ってお願いしたんだ。そしたら、腹筋と背筋を鍛えて腰を守れば、どうにかなるかもしれないって言われて。それから、部活を休部して、ジムに通って、たまに病院にも通ってたんだ。」
「うん。」
私はところどころで、少しの相づちをうつくらいであとは何も言えなかった。
「それで、俺たち三年は、大学受験があるから、もう少しで高校最後の試合なんだ。だから、そろそろ部活に戻って、練習しないと間に合わないからって、三年になってから少しずつ部活に行って軽いメニューから始めてたんだ。それで、この前練習試合があってさ、試合勘も取り戻さないとと思って、少し出たんだ。久しぶりにめっちゃ楽しくて、気づいたら思いっきりプレーしてて、それでシュート打つとき、思いっきり打とうとしたら……」
山口くんの足下がポツン、ポツンと濡れていった。
「無理しなくていいよ。」
「………」
「あっ、夕日。綺麗だね。」
はじめて見る山口くんの弱気。私は、どうしたらいいかわからず、話題を変えた。山口くんは黙ったままだった。夕日が沈みそうになったとき、
「…もう脚を思いっきり振れなくて。さっき病院に行ったら、もうサッカーは無理だって。」
「そっか……。」
私はそれだけ言い、あとは何も言えなかった。
「ごめんな。こんな話して。もう暗くなったから帰ろう。送ってくよ。」
そう言って山口くんは立ち上がり、歩き出す。私はただついていった。なんで何も言ってあげられないんだろう。励ましてあげないと。でも、なんて言ったらいいんだろう。そんなことを考えていると家に着いた。帰り道、二人は一言も話さなかった。
「じゃあね。」
それだけ言って、山口くんは帰っていった。
次の日、山口くんは学校に来なかった。
学校に来るようになってからも、どことなく元気がなかった。授業中も窓の外をみてばかりで、休み時間も寝ているだけだった。私は、声をかけてあげないと、と思いながらも、なんて声をかければいいか分からず、何も言えなかった。そんななか、たまたま、帰ろうとして靴を履き替えていると、山口くんとばったり会った。
「最近元気ないけど、大丈夫?」
「………」
「山口くんは、頭も良いし、別にサッカーができなくなっても大丈夫だよ。他にもできることはいろいろあるし。」
「お前に何が分かる。」
そのまま山口くんは帰った。え、なんで。ただ、励まそうとしただけなのに。家に帰って、ヘッドホンをつけ、ベッドに横たわる。山口くんにとってサッカーってそんなに大事なものだったのかな。だとしたら私、ひどいこと言っちゃったよね。そんなことを考えていたが、どうすればいいかわからなかったので、お母さんに聞いてみようと思った。病院に行き、お母さんにそのことを話した。
「そっかー、その子も悩んでるのね。なんか、青春しててうらやましいな。」
お母さんは笑いながら言った。
「笑ってる場合じゃないよ、お母さん。でもさ、だからって、あんな言い方しなくてもいいと思わない?」
「そうね。でも、桜の木だって、一緒なのよ。」
お母さんは、窓から、もう花びらが全て散った桜の木を見ながら言った。
「意味分かんないよ。どういうこと?」
「桜だって、春はすごく綺麗でしょ? みんなが見に来て、ちやほやされて、でもね、散っていくと、毛虫がつくのよ。またその綺麗な桜を見たいなら、誰かがその毛虫をとってあげなくちゃ。完璧な人間なんていないんだから。」
「私、とれるかな?」
「でも、瑠璃ちゃんの毛虫は、その子がとってくれたんでしょ? 最近、話し方も前みたいに戻ったじゃない。次は瑠璃ちゃんの番なんじゃない?」
母は、嬉しそうに言った。
「でも、どうすればいいの?」
「どうすればいいんだろうねー。」
「えー、それじゃ何もできないよ。」
私はどうにかしてあげないけど、どうすればいいかまったくわからず、お母さんのベッドに顔をうずめた。
「何もしなくてもいいのかもしれないよ? 毛虫だって、そばに何かいるって思うだけで、逃げていくんじゃない? だから、ただそばにいてあげたら?」
お母さんは笑顔で言った。そっか、絶対に何かをしてあげないといけないわけではないのか。そばにいてあげるだけでかわるのかな? そう思うと自分にもできるかもしれないと思った。でも、本当に近くにいるだけでなおるのだろうか?
「でも、もしそれだけじゃだめだったら?」
「そのあとは、自分で考えなさい。自分で考えることも必要よ。」
母は、笑いながら言った。
「そんなこと言われたってー。」
私は手足をバタバタさせながら言った。
「必要なのは、ほんの数秒の勇気よ。」
「なにそれ、どういうことー。」
母はそれ以上は何も言わず、ただただ笑っているだけだった。
次の日から、私は、山口くんのそばにいようした。でも、そばにいるって、意外に難しい。窓の外を眺めている山口くんを見ながら、私は思った。変に近づいてもおかしいし、どうしたらいいんだろう。一緒に帰るのも変かな。すごい気がある人みたいだし。どうしたらいいんだろう。でも、そんなことを考えていても意味がない。私は帰ろうとしている山口くんを呼び止めた。
「あ、あの、山口くん。………一緒に帰らない?」
「なんで?」
「え、いや、なんとなく。」
「用もないのに、一緒に帰らなくていいだろ。」
私は、何も言えなかった。そのまま山口くんは帰ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って、じゃあ、連絡先だけでも教えてくれない?」
私は勇気を振り絞って言った。
「別にいいけど。」
嬉しかった。私たちは連絡先を交換した。これで何か、辛いときは山口くんも連絡してきてくれるんじゃないかと思った。その日の夜、携帯電話を握りしめながら、ベッドに寝転んでいた。次の日の夜も、携帯電話を握りしめていた。すると、突然着信音が鳴った。すぐに出ると、ずっと待ってたかのように思われるのが恥ずかしかったので、すこし経ってから出た。
「も、もしもし?」
「あー、瑠璃。あのさ、………」
理沙ちゃんだった。
「なんだ、理沙ちゃんか。」
「なんだってなによ。なんだって。」
「あ、ごめんごめん。」
「どうしたの?」
「いや、最近元気ないからさ。大丈夫かなと思ってさ。」
「大丈夫だよ。それでわざわざ連絡してきてくれたの?」
「まあな、最近クラスも違って、一緒にいるの昼休みくらいだからさ。でも、なんかあったらいつでも言ってきなよ?」
「うん。ありがとう。理沙ちゃんは優しいね。」
「いやいや。あまり会えなくても、心はそばにいるからな!」
理沙ちゃんは、恥ずかしいセリフをさらっと言った。そうか! そうなんだ!
「理沙ちゃん! ありがとう! また学校でね!」
そばにいるって、距離だけじゃないんだ。心がそばにいればいいんだ。
それからも、山口くんから連絡がくることはなかった。夜、私はベッドに正座して、山口くんの電話番号を眺めていた。数秒の勇気。私は、電話をかけた。
プルルルルル…
「もしもし。」
「あ、もしもし、山口くん?」
「うん。なに?」
「え、あ、いや、元気かなと思って。」
「元気だけど。」
「そっか、なんか辛いことあったら、いつでも言ってね?」
「なんで?」
「なんでっていうか。」
「なんで、坂本さんに言わなきゃいけないの?」
「え、いや、わかんないけど。…ごめん。じゃあ、また学校でね。」
私は、耐えきれず切ってしまった。そっか、なんで、私に言わないといけないのだろう。私に言う理由なんてないよね。私は、あーっと言いながら、髪をぐしゃぐしゃにした。
次の日、お母さんに会いに行き、いろいろ話した。
「やっぱ、私には無理だよー。」
「ははは。なかなか手強いね。」
母は笑いながら言った。
「だから、笑い事じゃないって。」
「ごめんごめん。でも、相手のこと知りたかったら、まず自分のこと話してみたら? 何もわからないと、相手だって心開かないんじゃない?」
そうか。山口くんはまだ、私のこと全然知らない。
「そうだよね。ありがとう、お母さん。」
「瑠璃ちゃん、その子のこと好きなのね。」
「べ、別にそんなんじゃないよ。じゃあ、また来るから、じゃあねー。」
私は逃げるように病室を出ていった。
次の日、帰ろうとしている山口くんをまた呼び止めた。
「あの、山口くん。ちょっと話あるんだけど、いいかな?」
「ごめん。俺、用事あるから。」
山口くんは、一瞬立ち止まったが、またすぐに歩き始めた。
「私、お父さんいないの!」
後ろ姿の山口くんに、私は叫んだ。
「は? 何の話?」
山口くんは立ち止まって言った。
「私ね、小さいときにお父さん死んじゃって、そのあと、お母さんも病気になって入院して、だから、今はおばあちゃんと暮らしてるの。」
振り向いた山口くんに言う。
「え、うん…、そうなんだ。」
「だからね、たまに、辛いときもあるんだ…。そういうとき、山口くんに電話してもいいかな?」
「別に…、いいけど…。」
「ありがとう! じゃあ、山口くんもなんか辛いことがあったら、電話してね?」
私は、笑顔で言う。
「…うん。」
山口くんは、小さい声でうなずきながら言った。
その日の夜、私はヘッドホンで音楽を聴きながら、ベッドに寝転がっていた。はじめて人に家族のことを話した。別に言いたくなかったわけではないけど、そんな話をすることもなかったので言ったことがなかった。これでよかったのかなー。あんないきなり意味分からない話して、気持ち悪いとか思ってないかなー。そんな不安を抱えながら、ヘッドホンをとり、お風呂に入ろうと立ち上がると、携帯電話が光っていた。開いてみると、着信履歴。
山口零音
そう書かれてあった。私は焦った。えっ、山口くんが電話かけてくれたの? なんで今日にかぎって、携帯電話を握りしめてなかったんだろう。そんな後悔をしていた。かけ直してもいいのかな? 今忙しいかな? ご飯食べてるかな? お風呂入ってるかな? いろんなことを想像した。でも、今かけ直さないと、あとでかける勇気はないと思った。私は今ある勇気を振り絞り、電話をかけた。
プルルルルル、プルルルルル……
「もしもし。」
「あ、山口くん? ごめんね、さっきは電話に出られなくて…。今大丈夫?」
「いいよ。うん、大丈夫。」
「どうしたの?」
「え、いや、なんとなく。」
「そっか。元気?」
私は何を言ってるんだろう。久しぶりに話すわけでもないのに、なんで元気? なんて聞いてるんだろう。
「まあ、元気だけど…。」
「そっか、ならよかった。」
「………、いや、元気じゃないかも。」
「どうしたの? なにかあった?」
「いや、ちょっとサッカーのこととかで悩んでてさ、……この前は、ごめんね。せっかく俺のこと励まそうとしてくれたのに、ひどいこと言って…。」
「全然いいよ。むしろ、私の方こそごめんね。何も知らないのに、あんなこと言って。」
「いや、嬉しかったよ。口ではあんなこと言ったけど、なんか、こんなどうしようもない俺のそばにいてくれる人もいるんだなって、ちょっと、……嬉しかった。」
「えー、ちょっとだけ?」
私は、恥ずかしさを隠すために、少し意地悪く言ってみた。
「え、いや、ちょっとっていうか、なんていうか、………だいぶ。」
「素直でよろしい。」
嬉しくて、なぜか上から言った。
「うるせーなー。」
「え? 感じ悪くない?」
「あ、いや、あの、……うるさいと思います。」
「なにそれー。」
私たちは笑った。
「でも、ほんとにありがとね。…また、電話してもいいかな?」
「いつでも! 辛いこととか、なんかあったら、ひとりで抱え込まず、いつでも、電話してね。」
「うん。ありがと。そっちもね。」
「うん。ありがとう。」
「じゃあ、またね。」
「うん。またね。」
電話を切った瞬間、私は携帯電話を握りしめ、バタバタした。嬉しかった。嬉しくて、体全体で表現せずにはいられなかった。
次の日も電話がかかってきた。
……………
「あのさ、山口くんって、距離感じて嫌なんだけど…。」
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「下の名前でいいけど。」
「下の名前って?」
「だから、零音でいいよ。」
「う、うん。じゃあ、零音くんね…。」
「くんとかいいよ。零音でいいって。」
「え、いきなりはちょっと…」
「いいから、呼んでみて。」
「え、……れ…お……。」
私は、恥ずかしく、電話越しなのに下を向いていた。
「うん。それでいいよ。俺はなんて呼べばいい?」
「なんでもいいけど…」
「なんだよそれ。じゃあ、瑠璃って呼ぶな。」
「え、う、うん。」
……………
それからも、、学校ではあまり話さなかったが、夜はよく電話するようになっていった。そんなある日、バイトから、帰ろうとすると山口くんがいた。山口くんは私を見ながら、手をあげた。
「どうしたの?」
「ちょっと、話があってさ。」
「どうしたの?」
「いや、ちょっとあの公園行かない?」
「うん。いいけど…。」
私は、急にどうしたんだろうと思いながらも、山口くんの後ろについていった。前と同じベンチに座り、海を眺めていた。
「どうしたの?」
私は聞いた。
「あのさ、えーっと、なんていうか……」
「なにー?」
「いや、俺さ、瑠璃のこと好き。俺と付き合ってくれませんか?」
「え、………。」
突然のことで驚いた。でも、なぜか、冷静だった。いろんなことを考えていた。少し間があいた。
「ごめん、迷惑だったかな?」
「いや、そうじゃないの。」
そうじゃない。私は嬉しかったのだから。
「でも、零音、この前先輩と別れたばかりでしょ? だから、なんていうか、その……。」
別れたばかりだからって、零音のことを信用していないわけではない。ただ、少し零音のことも気になって…
「そうだよな。別れてすぐ、他の人に好きとか言うやつ、信用できないよな。」
「いや、そうじゃないけど、………ごめん。」
なぜだろう、私はいろんなことを考えて、断った。
「わかった。でも、俺の気持ちは、本気だから。」
「うん、ありがとう。」
夕日が沈んでいく。私の気持ちはどこに向かっているのだろう…。
そのあとも、零音と私は、何もなかったかのように、電話は続けていた。ただなんとなく、少し近づいたはずの零音と私の距離は、また少し離れたような気がした。
ある日の昼休み、いつものように三人でお昼を食べていた。
「そういえばさ、私たち別れたんだよねー。」
理沙ちゃんが言った。
「え? まじで? なんでよ?」
しほちゃんは驚いて聞いた。私も驚いていた。
「いや、なんかさ、幼稚すぎてさ。私だって、たまには甘えたいけど、なんか、甘えられてばっかで、そう言う雰囲気じゃないし。彼氏彼女っていうか、姉弟みたいでさ。」
「そっかー。でも、理沙ってそういう甘えてくるタイプが好きなんじゃなかったの?」
「そうなんだけどさ、なんか、甘えすぎ。」
「まあ、年下だしねー。」
そんな会話を聞きながら、理沙ちゃんって、自分のいろんなことを私たちに話してくれるなと思った。私も、せっかくいろんなことを心配してくれる理沙ちゃんとしほちゃんに、もっと心開かないと。
「あのさ、こんなときに言うことじゃないのかもしれないけどさ、私、……山口くんに告白されたんだ。」
私は、そのことで少し悩んでいた。ただ、お母さんにそういうことはなかなか言えなかったので、思い切って二人に言ってみた。
『ええええええええええええーーーーー!!!!!!!』
二人同時に反応した。
「まじ? それで? オッケーしたの?」
「いや、それが、………断ったんだよね。」
「なんで? 好きだったんでしょ?」
「好きっていうか、なんていうか、よくわかんない。それに、向こうは別れたばっかりだし。」
「別れたばっかですぐ好きとか言われたから、嫌いになったの?」
「いや、嫌いになったわけじゃないけど……。」
「好きか分からなくなったの?」
しほちゃんが優しく聞いてきた。
「うん…。まだそんなに山口くんのこと知らないし。」」
「そんなの、付き合ってから知ればいいじゃん!」
理沙ちゃんは、当たり前のように言った。
「そういうもんなのかなぁー。」
「そういうもんだよ。今からでもやっぱり好きですって言ってきなよ。」
「おいおい、理沙が勝手に決めるなよ。でも、理沙の言ってることも、半分合ってると思うよ。相手のこと全部知るとか、不可能でしょ。ある程度はわからなくても、付き合ってはじめて、わかることだってあると思うよ。」
「そうだよね…。どうしたらいいんだろ?」
「まあ、でも、ある程度は知りたいっていう瑠璃ちゃんの考えもわかるから、なんか一緒にできることでも探したら?」
「一緒にできることかー。なにがあるだろう…。」
私は考えた。何もできることない。スポーツとかは苦手だし、習い事とかもやってないし…。どうしよう…。
放課後も私は考えていた。その日は暇だったので、考えながら、保健室の前にある花壇や鉢のお花にお水をあげていた。そこにちょうど帰ろうとしている零音がやってきた。
「あ、今日も花に水やってるんだ?」
「う、うん。」
「…、じゃあ、俺帰るから、またね。」
「あ、あのさ、一緒にやらない?」
「え?」
「暇なとき、一緒にお水あげない?」
「え………、まあ、いいけど…。」
「はい。じゃあ、これ。」
私は、二つあった如雨露の満タンの方を零音に渡した。
「あ、うん。」
「なんか、少し落ち着くでしょ?」
「うん。そうだな。」
これなら、話ながらできるし、ちょうどいいんじゃないかと私は思った。
次の日、私は、母の病院に行き、告白されたことは言わなかったが、一緒にお花にお水をやっていることを言った。
「そうなんだ。じゃあ、その子の毛虫はとれてきたのかな?」
母は嬉しそうに言う。
「うん。だいぶ良くなったと思うよ。」
「それはよかった。ところで、どんなお花が植えられてるの?」
「んー、あんまり詳しくないからわからないけど、鉢に咲いてたのは、アンスリムって書かれてた。あとは、日々草っていうのを、この前保健室の先生と一緒に植えたよ。」
「へぇー、恋にもだえる心と楽しい思い出かぁー。」
母はにやにやしながら言う。私はドキッとした。
「なにそれ、どういうこと?」
平然を装いながら聞いた。
「花言葉よ。アンスリウムと日々草はそういう花言葉なのよ。」
「そうなんだ。お母さん、詳しいね。」
「昔、お花屋さんで働いてたことがあるからね。」
「そうなの? 知らなかった。」
「瑠璃ちゃんが産まれる前だったかな。」
母は懐かしそうに言った。
「でも、お花っていいよね。見てるだけで癒されるし。私お花好きだよ。」
「そうね。そのお花の花言葉も知ると、もっと好きになるわよ。」
私はワクワクした。世の中には、数えきれないほどの種類のお花があって、そのお花ひとつひとつに花言葉があるなんて、どんな言葉があるのだろうと、想像するだけで楽しかった。そして、病院からの帰り道、本屋に寄って、花言葉が書かれた本を買った。その日の夜は、ベッドに寝転びながら、ずっとその本を読んでいた。
次の日から、私は教科書と一緒に花言葉が書かれた本も学校に持っていった。
「なにそれー。」
昼休み、お弁当を食べながらその本を読んでいると理沙ちゃんが聞いてきた。
「花言葉の本だよ。花それぞれの花言葉を調べるとすごくおもしろいよ。」
「へぇー、なんで急に花に興味持ちだしたの?」
理沙ちゃんはおにぎりを食べながら言った。
「え、別に…。」
「山口零音だね。」
しほちゃんが言う。
「え、いや、……」
「違うの?」
「違わないけど…」
「なになに? どういうこと?」
理沙ちゃんが、しほちゃんと私を交互に見ながら言った。
「いや、なにか一緒にできることないかなと思って、探してんだけど…、保健室の前に花壇とか鉢があるでしょ? 私、暇なときそこのお花にお水あげてたの。それで、たまたま山口くんに会ったから、一緒にお水あげないかって、誘ったの。」
「あー、そういうことー。」
「いいんじゃない? 花に水あげながら話せるし。」
「そうだよね! 私もそう思ったの!」
「それで? 今ある花の花言葉はなんだったの?」
「それはちょっと………」
「なんだよ、教えろよ。」
「………恋にもだえる心。…とか?」
「はははははは、そのまんまじゃねぇか!」
「笑わないでよー。」
お昼は、笑いながら花言葉の話で盛り上がった。
放課後、お花にお水をあげようと、花壇に行くと、零音がいた。
「先に水あげてたわ。」
「うん。ありがとう。」
「ありがとうってなんだよ。」
零音は笑いながら言った。
「いや、なんとなく。あ、そういえばね、花言葉の本買ったの。お花それぞれに花言葉があっておもしろいよ。」
「へぇー、そうなんだ。じゃあ、この花の花言葉はなに?」
鉢に咲いているアンスリウムを指差して、零音は言った。
「え、えっと……、そのお花は、……まだわかんない。」
「なんだよ。じゃあ、今度調べといてな。」
「う、うん…。」
「じゃあ、俺先帰るから。またな。」
「あ、うん。またね。」
零音は帰っていった。
それからも、たまに放課後一緒にお花にお水をあげるようになっていった。私たちは、いろんなお花の花言葉を調べながら話した。ただ、クラスではあまり話さず、会って話すのはその放課後の少しの時間だけで、私は、少し離れた距離が、縮まっているようには思えなかった。
梅雨が明けた頃、昼休み。いつもよくじゃべる理沙ちゃんが、しほちゃんと私が話していてもずっと黙っていた。
「理沙ちゃん、どうしたの? なんかあった?」
「んー……」
「どうしたんだよ理沙、元気ないな。」
「元気がないっていうかさ、ちょっと、今回は本気かも。」
「なにが?」
「本気で好きな人できたかも。」
「え! よかったじゃん。」
私は、喜んだが、じゃあ、今までは本気じゃなかったのかなと思った。
「まじかよ理沙! 誰だよ?」
「森…。」
「え! 森って、理沙と同じクラスの?」
「そう、しかも、今隣の席なんだよね。」
「最高じゃん。なのに、なんで元気ねーの?」
「いや、いろいろやってんだけどさ、全然響かなくて…。」
「なにやったんだよ?」
二人の会話に入っていけず、私は聞いているだけだった。
「えーっと、筆箱忘れたふりして、シャーペン借りたり、一緒に帰りたくて、校門の辺で待ってて、森が来たときに偶然を装って出て、一緒に帰ったり、学校ない日も会いたくて、好きでもない本借りに行ったり、………。」
「けっこうやってんな。」
しほちゃんは笑う。
「だろ? けっこうやってんのに、全然響いてくれないんだよ…。」
「え? それって、森くんに振り向いてもらうためにうそついてるってこと?」
黙って聞いているだけだった私だが、驚いて言った。
「いや、うそってか、努力だよ! 努力!」
「え、でも、うそは……。」
なんか嫌だった。うそついて人に好きになってもらうってどうなんだろう。
「あのな、なにか行動しなきゃダメなんだよ。綺麗にいつの間にか、お互いが惹かれあって付き合うなんてのはな、映画やドラマだけなんだよ。」
うそは嫌だったけど、なにか行動しなきゃいけないのは、そうだなと思った。
「それにな、瑠璃。山口は好きって言ったかもしれないけど、断ったんだろ? じゃあ、今はどうかわかんねぇぞ? そんなうやむやにしてると、他の女子のほうに行くかもしれねぇぞ。」
そうだよね。私断ったしね。今も零音が私のこと好きかどうかなんてわかんないよね。でも、一度好きって言ってくれた人が、他の誰かと一緒にいるのを想像すると、なぜか嫌な気持ちになった。
「まあでも、普通男からなんかしてこいよな? 男らしくねーなぁー。」
「でも、山口くんは、瑠璃ちゃんに告白したじゃん。それが一番の行動でしょ。」
しほちゃんが冷静に言った。
「そりゃそうだけど、もうなにもしてこないじゃん。一回断られたからってめげんなよな。女は、何度も来られると弱いのにな。」
「間違いない。」
理沙ちゃんとしほちゃんは、二人で笑った
それからも、零音とはクラスで会ったり、放課後一緒にお花にお水をあげたりはするものの、これといって、なにも行動を起こせないまま、気づけば、夏休み前になっていた。進学校ということもあり、クラスでは、休み時間も受験勉強をする人たちが増えだした。零音も受験のために、勉強ばかりで、放課後花壇に来る頻度もだんだんと減っていった。私は、迷っていた。親が通っていたからこの高校に入ったが、お母さんやおばあちゃんのこともあり、大学には行かず、働いた方がいいのではないかと思っていた。高校二年生のときも同じようなことを考えていたが、そのときはなんとなく思っていただけだった。でも、今は少し真剣に考えるようになっていた。
風が気持ちいいな。私は母のお見舞いにいった。
「お母さーん、これ、おばあちゃんから! フルーツいっぱいあるよー。」
「あら、瑠璃ちゃんありがとう。おばあちゃんにも、ありがとうって伝えといてね。」
「うん。」
「そういえば瑠璃ちゃん、大学はどうするの? 行きたい大学決まったの?」
「んー、どうしよっかなーって感じ。別にやりたいこととかもないし、大学行かずに就職してもいいかなって思ってる。」
「大学行かないの? 瑠璃ちゃんの人生だから、瑠璃ちゃんが就職したいっていうなら、お母さんは何も言わないけど、もしそれが、お母さんやおばあちゃんのことを考えて言ってるなら、やめた方がいいわよ。」
「うん。就職の方がいいかな。」
大学に行きたくないわけではない。少しは興味ある。でも、やりたいことがなく、行きたい大学がないのも事実だった。それにやっぱり、お母さんとおばあちゃんに迷惑をかけるは本当に嫌だった。
「本当にそれでいいの? 奨学金制度だってあるのよ?」
「うん。まあ、まだわかんないけどね。」
そうは言ったが、ほとんど決まっていた。奨学金制度があるのも知っていたが、就職した方が お母さんもおばあちゃんも楽に暮らせると思った。
「ちゃんと、しっかり考えてね。」
「はーい。」
私は、明るくこたえた。お母さんは、心配そうのな顔をしていたので、話題を変えた。いろんな話をしていると、日が暮れそうになったので、私は家に帰った。家に着くと、良いにおいがしていた。
「ただいまー。」
「おかえり。」
「今日のご飯なにー?」
「今日はカレーだよ。」
「わーい、私、おばあちゃんの作るカレー大好き。」
「じゃあ、手を洗ってきなさい。」
「はーい。」
おばあちゃんって、いつも笑顔だなと私は思った。
夕食中、おばあちゃんと、いつものようにいろいろ話した。おばあちゃんは、いつも笑顔で聞いてくれる。おばあちゃんは私に進路の話などを聞いてきたことがない。就職するって言ったら、心配するかなと思い、私はなにも言わなかった。
夏休みになり、みんなは受験生のため勉強で忙しく、私は誰にも会わず、バイトばかりしていた。私はこれからの人生を考えながら、自分で決断して、なにか行動を起こすのではなく、ただ流れにまかせ、なんとなく進んでいくだけなのだろうなと思っていた。昼間バイトをしているときは、何も考えず働いていたが、夜寝る前にベッドで寝転んでいると、毎日のようにそんなことを考えていた
そうこうしているうちに高校最後の夏休みも終わり、みんな受験勉強で授業などそっちのけの、たいくつな学校がはじまった。理沙ちゃんやしほちゃんとも昼休みに会うだけで、それ以外はほとんど会えなくなっていた。零音とも、クラスで会うだけで話す機械もほとんどなくなっていた。そんなある日、久しぶりに零音が花壇に来た。
「久しぶりだね。やっぱり、受験勉強で忙しい?」
「うん、そうだな…。瑠璃は大学どうするの?」
「え、…、そうだねー、私は、この辺りで就職するかな?」
「え!? ………そっか…。」
零音は、私の家族のことも知っているからか、それ以上は何も言わなかった。
「零音は、どうするの? どこの大学に行くか決めたの?」
「まあ、一応、第一志望は決めたよ。」
「そっか。」
「………東京。」
「え? 東京の大学に行くの?」
そうかなとは思っていた。私は、距離ではなく、なにか別のものが遠くに感じていた。
「うん…。俺、ずっと前からやりたいことがあるんだ。」
「なにがやりたいの?」
「んー、秘密…。」
「なにそれー。そこまで言ったんだから言ってよー。気になる。」
「まあ、いつか言うよ…。」
「そっか、じゃあ待ってる。」
「うん、じゃあ俺は家に帰って、勉強するよ。またね。」
「うん。勉強頑張ってね。またね。」
零音は帰っていった。零音の後ろ姿を見る私の横で、綺麗に咲いた朝顔が私の方を向いてた。
それ以来、零音が放課後花壇にくることはなく、寒さを感じる季節になっていた。外からではなく、内側からも寒さを感じていたある日、携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
「もしもし、今大丈夫?」
「うん、大丈夫だけど、どうしたの?」
「いや、ちょっと勉強に疲れたというか、ちょっと、…声が聞きたかった……のかも…。」
私は頬が赤くなるのを感じた。
「え、……、そっか。」
「そういやさ、最近花壇行けてないけど、どう?」
「うん、いろんなお花が咲いて綺麗だよ。」
「そっか、もう全部花言葉とか、わかったの?」
「まあ、だいたいはね。」
私たちは、そんなお花のことや受験のことなどいろんなことを話した。
……………
「今日は、ありがと。なんか、ちょっと癒されたわ。」
「ほんと? それはよかった。」
「あのさ、……また疲れたときとか、……、電話してもいい?」
「うん、いいよ。また電話しよ。」
「ありがと。じゃあ、またかけるわ。」
「うん、じゃあね。」
それから、零音は、電話をかけてくるようになった。毎日のように電話し、二人でいろんな話をした。クリスマス前、いつものように私の携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
「もしもし。」
「今日も勉強お疲れさま。」
「うん、ありがと。それでさ、ちょっと話があるんだけど、明日、暇?」
「え、あ、…うん。暇だけど…。」
「じゃあ、明日あの公園で会おう。じゃあ、また明日ね。」
「え、…わかった…。また明日ね。」
いきなりどうしたんだろうと私は思った。なにか受験勉強で悩んでるのかな…。そんなことを考えていると、次の日がきた。
「ごめんね。わざわざ公園まで来てもらって…。」
零音は下を向きながら言った。
「全然いいよ。それよりどうしたの?」
「え、いや、……。」
次の瞬間…
「俺、やっぱり瑠璃のことが好き。俺と付き合ってくれませんか?」
下を向いていた零音が、いきなり私の目を見て言った。
「え! えっええっと……、」
「俺、本気だから。」
私は、自分の気持ちがわかっていた。私も零音のことが好き。でも…
「……うん、ありがとう。私も零音のことが好き。」
「えっ!、じゃあ……」
「でも、……ごめんなさい。付き合えない。」
「え!? なんで? 俺のこと好きなんでしょ?」
「う、うん。すき。でも……」
零音は、東京に行く。私は、地元で就職する。………遠距離になる。私は、遠距離になっても、零音とうまくやっていく自信がなかったわけではない。ただ、零音と先輩のことが頭に浮かんだ。……零音たちは、遠距離になって別れた。零音を信じてないわけでもない。こんなに私のことを想ってくれて、すごく嬉しかった。でも、もし付き合って、遠距離になって、零音のことが心配で、零音を束縛するのも嫌だ…。それに、怖い……。友達のままなら、これからもずっと電話できるし、たまには会える。付き合って、別れることになったら、零音を一生失うことになるかもしれない。それが、本当に怖い。
「でも?」
「でも、零音は、東京に行っちゃう………。」
「俺は、遠距離でも全然大丈夫だよ!」
「うん、でも…。」
「もう、別れてすぐでもない。これまでずっと我慢してた。いつになったら、別れたばかりじゃなくなるのかわからなかったから。でも、もう大丈夫だろうと思って、告白した。そしたら、今度は、好きなのに、遠距離になるから!? これじゃあ、俺たち一生付き合えないじゃん。」
零音は、珍しく少し荒げた声で言った。その通りだと思った。だから、私は、なにも言えなかった。そして、零音は、そのまま帰っていった…。なんで、私は先のことばかり考えてしまうのだろう。付き合ってから考えたらいいこともある。今までいろんな人たちから言われた言葉が、私の頭の中で、ぐるぐるとまわっていた。私は、夕日を見ながら、涙を流していた。
家に帰り、夜、寝る前、携帯電話が鳴る。誰だろう……。そう思って携帯電話を見た。
山口零音
そう書かれてあった。私は、どうしたらいいかわからなかった。出た方がいいんだろうか。どうしよう。迷っていたら、電話が切れた。私は、また迷う。かけ直した方がいいのだろうか…。どうしよう。すると、また携帯電話が鳴る。
山口零音
また零音からだった。少し迷ったが、今度は出た。
「もしもし?」
「もしもし、さっきはごめん。急に帰って…。」
「うん、いいよ。」
「あのさ、もうすぐクリスマスじゃん? なんか予定あるの?」
零音は、いきなり聞いてきた。
「えっ!、んーお母さんに会って、おばあちゃんと家で食事するかな、…」
「そっか…、じゃあ、クリスマスイブは?」
「なにもないけど…?」
「じゃあさ、クリスマスイブ、会わない?」
私は、少し迷った。どんな顔で会えばいいんだろう…
「え、でも……」
「大丈夫。ただ高校最後のクリスマスイブを楽しみたいだけだから。」
「う、…うん。わかった…。」
「じゃあ、なんか好きなものとか、思い出のものとか、なんでもいいから何個か持ってきてな。」
「え、…なんで?」
私は、意味が分からなかった…。
「いいから!」
零音は少し、笑っているように感じた。
「え、…うん。わかった。」
それから、電話を切ったが、私はなにを持っていけばいいかわからないでいた。考えながら部屋を見渡した。
クリスマスイブ
私たちは、あの公園で夕方に会った。
「ごめん。ちょっと遅くなった。」
「いいけど…、なにその荷物?」
「え、別になんでもないよ。」
零音は、そう言いながら、かばんからスコップを出した。
「よしっ、掘るか!」
「え!? どういうこと?」
「いや、好きなものとか思い出のもの持ってきてって言ったろ? タイムカプセル埋めようぜ。」
「なんで、急に?」
私は、驚いた。そして、なんでいきなりそんなこと言い出したのかもわからなかった。
「いや、俺のこと好きって言ってくれただろ? …でも、遠距離だから、付き合えないって…。それで、今から、俺は東京の大学に行く、瑠璃はここに残って就職する。お互い別々の道にいくからさ、この先他に好きな人ができるかもしれない。それでもいいと思う。でも、五年後、俺が大学を卒業してはじめてのクリスマスイブ、他の人と付き合ったとしても、やっぱり、お互いに俺らだなって思ったら、またここで会おう。五年後のクリスマスイブに、タイムカプセルを一緒に掘り起こそう。」
私は、そんな先なんて、零音は私のこと忘れているだろうと思った。でも、零音は行動を起こしてくれた。こんなにいろんな理由をつけて、二回も告白してくれたのに断った私を、零音はまだ想ってくれていた。それが嬉しくて、私は零音と一緒に、地面を堀り、持ってきたものを入れた。零音も持ってきたものを入れる。このタイムカプセルに入れた想いも、花のように育ってくれたらいいのに…。そんなことを考えていた。
「あ! それ!」
私は、一冊の本を見て言った。零音は私が持ってる花言葉の本を入れていた。
「あ、うん…、俺も少しは知りたくてさ…。」
零音は恥ずかしそうに言いながら、タイムカプセルを埋めた。
「なにー? 私と同じ本欲しかったのー?」
恥ずかしそうな零音を、私は少しからかいたくなった。
「う、うるせーよ、てか、花火するぞ!」
零音は、ぶっきらぼうに鞄から大量の花火を出して言った。
「え? なにそれ。」
「だから、花火するぞって、言ってんだよ。」
「はー? なんで、そんな言い方されなきゃいけないの?」
私は、正直どんな言い方でもよかった。たぶん零音と一緒に作れる最後の思い出。そう思うと嬉しかったが、寂しさの方が強かった。
「あの、よかったら一緒に花火しませんか?」
「うん!」
零音と私は座って、花火に火をつけようとした。
「風で火が消えるから………。」
そう言って零音は、私に近づいた。
「う、うん……。」
私はドキドキして下を向いた。風なんてないけど、零音の肩が私の肩に触れていることで頭がいっぱいだった。二人でひっつきながら、花火をした。大量の花火。いろんな色の花火が、夜の公園を輝かせ、海の方に飛んでいった。すべての花火が終わり、零音は、家まで送ってくれた。夜、ベッドの上で、五年後の十二月二十四日、零音と私は会うことになるのだろうか。あのタイムカプセルを掘り起こすことはあるのだろうか。二人の未来を想像しながら、眠りについた。
その後、零音が受験勉強で忙しくかったのもあり、私たちが学校以外で会うことはなかった。
そして迎えた卒業式。零音は東京の大学に合格していた。私も地元の会社に内定をもらっていた。卒業式のあと、零音はたくさんの女子に囲まれ、ボタンをせがまれていた。気づけば、袖のボタンまでなくなっていた。私は、理沙ちゃんとしほちゃんと写真を取り、外にいるのは寒かったので帰ろうとすると、零音に呼び止められた。
「瑠璃!」
「どうしたの?」
「いや、ちょっといい?」
零音は保健室の前に行こうと言って、私たちは向かった。向かっている途中、零音に突然手を握られた……。
アタタカイ
そう思っていると、零音は、寒そうだからあげると言い、手をはなした。手を見ると、ホッカイロがあった。身体も心も暖まった。
保健室の前につき、
「すごい人気だね?」
私は零音に言った。
「いや、別に……、あんなの意味ないよ。それよりさ、………これ。」
零音は、一枚の紙を私に手渡した。そして、私が受け取ると、じゃあ。と言って、走り去っていった。私は、握っていたホッカイロをポケットに入れ、その紙を開いた。中には一言だけ書かれてあった。
ミヤコワスレ
お花? 私は、もっと長い文章が書かれていることを想像して、少しがっかりした。ただそれも、家に帰り、花言葉の本でそのお花を調べると、どこかに消えていた。
しばしの別れ。また会う日まで。
本にはそう書かれていた。私は涙が止まらなかった。私は、その紙を大事なものを入れている箱に閉まった。自分から何度も告白を断ったのに、いつか、零音と再会し、一緒に暮らせる日がくることを夢見ていた。毎日のようにしていた零音との電話も、零音が大学に行ってからはしなくなっていた。
5
私は、地元の企業に就職した。別にやりたい仕事ではなかったが、休みの日は、お母さんのお見舞いにいき、おばあちゃんの手伝いをできるので、不満もなかった。私は、家族を助けるために必死に働いた。
二年後、成人式で久しぶりにみんなと再会した。
「瑠璃!」
理沙ちゃんだった。理沙ちゃんとは高校を卒業して以来、電話などはたまにしていたが、仕事と母の看病で忙しく、会うのは久しぶりだった。理沙ちゃんは、髪を茶色に染め、大学を楽しんでいるようだった。
「理沙ちゃん! 久しぶり!」
「瑠璃ー、会いたかったよー。」
「私もだよ。元気? 大学はどう?」
「んー、普通だよ。テストが大変…。もうすぐテストだし…。」
「そっかぇー、大変だね。」
テストなんて、私は当分やってないなと思った。
「理沙! 瑠璃ちゃん!」
理沙ちゃんと話していると、しほちゃんがやってきた。しほちゃんも髪を染め、綺麗な振袖を着ていた。
「しほ! 久しぶり!」
理沙ちゃんもしほちゃんとは、あまり会ってないようだった。私たちは、久しぶりにいろんな話をした。高校のときの思い出もたくさんしゃべった。私は久しぶりに思いっきり笑った気がした。
「そういえば、瑠璃聞いた?」
「なにが?」
「さっき、翔から聞いたんだけどさ、山口零音、海外に留学してるらしいよ。」
「そうなんだ……。」
私は、来たときから探していた、だから、見つからないのか…。
「翔が言うには、大学卒業したあとも、海外でなにかやりたいことがあるらしいよ。」
「そうなんだ。」
そう言えば、将来やりたいことがあるとは言っていた。ただ高校を卒業して以来会ってないので、やりたいことがなんなのかも聞けずにいた。でも、卒業して海外に行くということは、やっぱり、あの約束ももう忘れちゃったのかなと少し寂しかった。結局こうなることはわかっていた。ただ少し期待もしていただけに辛かった。
そのあとの二年間も私は必死に働いた。その間に何人かの彼氏もできた。ただ、母の看病もあり、仕事も忙しく、どの人ともあまり長くは続かなかった。
そんなある日、私は部署を移動させられた。
「はじめまして。坂本瑠璃です。よろしくお願いします。」
「あっ、きみが坂本さんね、僕は、小川颯人。よろしくね。」
私の上司になる人だった。すごく落ち着いていて、優しそうな人。
「なにかあれば、いつでも僕に聞いてね。」
「はい。」
それから、私ははじめての部署でわからないことが多く、よく小川さんに相談していた。
それから、小川さんに食事に誘われるようになった。何回目かの食事のとき、
「坂本さん、僕と付き合ってくれませんか?」
内装が綺麗なレストランで小川さんは言った。
「はい。」
私は、小川さんなら優しいし、いいだろうと思っていた。
「よかったー。ちょっと緊張したんだよね。」
「えへへへ。よろしくお願いします。」
「うん。こちらこそ。じゃあ、瑠璃ちゃんって呼んでもいいかな? 会社では坂本さんのままだけど…。」
少し照れたような笑顔で小川さんは言った。
「はい。いいですよ。」
「もう敬語もやめてよ。付き合ったんだし。あと、僕のことは颯人でいいから。」
「え、そんな急には…。」
「いいから。」
「……じゃあ、颯人さんって呼びます。」
なぜだろう。なぜか、男性を呼び捨てで呼びたくなかった………。
それから、二年半後。
母が亡くなった。
私は悲しみで何も考えられなくなっていた。何日も泣いた。仕事も休んだ。家にいてなにをするということでもなかった。ただ、ぼーっとしていた。
私はふと、手に取った携帯電話のアプリを意味もなく押したり閉じたりしていた。連絡先を押したところで私の手は止まっていた。今まで母の看病に精一杯で関係を切った元恋人たち、連絡を返していなかった友人たち。今さらながら、この中のどれくらいの人たちがこの私の声に耳を貸すだろうか。そんなことを考えながら、ただ漠然と画面をスクロールしていた。そのとき私の目に七年前まで毎日のように見ていた名前が飛び込んできた。
山口零音。
ゴロゴロとベッドの上で横たわっていたはずの私の体はビクリとし、ベッドの上で正座していた。消したはずの彼の名前が私の眼孔に反射した。高校を卒業して以来、無意識にヤ行は避けていた。久しぶりにそのヤ行にいくと、なぜか残っている彼の名前。飲みかけだったコーヒーを一気に飲み干し、重い親指でその名前を恐る恐る押してみた。電話番号が書いてある。一度リビンクに戻り机の周りを一周した。玄関に行き、なぜか鍵がかかっているかを確認した。ソファーに座り、つけたままのテレビを消し、消したテレビに写る夕日を、ボーッと眺めていた。テレビの端のオレンジ色が暗く染まったころ、自動につく玄関のライトも暗くなっていた。
一息つき、もう一度携帯電話を手に取る。やはり電話番号が書いてある。その数字を足したり引いたりしてみる。どうにか0にならないものかと計算する。ならない。なったからといってつながるわけでもない。そんなことを考えているうちに、その0にならない数字の羅列を押していた。
プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル
私はなぜか、目を閉じていた。
「……………」
「もしもし?」
「はい。」
男性の声。
チガウ。コンナオトジャナイ。
「あの、山口零音さんのお電話番号ですか?」
私は、違うと思いながらも一応聞いた。
「いいえ、違いますけど……。」
「あ、そうですか。すみません。」
「はい。では。」
男性はそう言って電話を切った。そうだよね。零音は、海外に行っている。電話番号は変えて当然か………。私はなにをしてるんだろうと思った。私には彼氏がいるのに、なんで違う人に電話なんてかけてるんだろう…。そう思いながら、母との大事な思い出が詰まっている箱を開け、昔のことを思い出していた。すると一枚の紙があった。中を開けると、
ミヤコワスレ
そう書かれてあった。もうこんなことも忘れてるよね………。
その次の日、私は颯人さんと会った。
「大丈夫?」
「うん、もう平気。ごめんね。連絡も返してなくて。」
「全然いいよ。しょうがないよ。」
「それで、ちょっと話したいことがあって…。」
「うん。どうしたの?」
「私、仕事を辞めようと思うの…。」
「えっ、でも、…。どうするの?」
「やりたいことがあって…。」
「なにがしたいの?」
「お花屋さん。お花屋さんで働きたいの。」
「そっか…。」
颯人さんは少し考えていた。
「わかった。瑠璃ちゃんがそうしたいなら、それがいいと思う。」
「うん、ありがとう。」
それから、私は会社を辞め、近所のお花屋さんで働いた。私は楽しかった。今までは、自分がやりたいことをやっていなかった。でも、今は自分がやりたい仕事をやっている。私は、楽しみながら一生懸命働いた。家に置いてあった、花言葉の本も久しぶりに出して勉強した。そして、クリスマス前、颯人さんに呼び出された。私たちが付き合ったレストラン。
「今度さ、…昇進することになったんだ。」
颯人さんは嬉しそうに言った。私もすごく嬉しかった。
「え!? ほんと? すごいじゃん!」
「うん。それでね、……これ。」
颯人さんは、小さな箱をポケットから取り出した。それを開くと綺麗に輝く指輪が入っていた。
「僕と結婚してくれませんか?」
「え、……」
私は、とても嬉しかった。颯人さんは、母が亡くなって悲しんでる私を優しく包んでくれた。会社にいたときもいつも優しく、私の相談を聞いてくれた。少し戸惑ったが、この人ならいいかなと思った。
「…はい。」
「えっ! ほんと? よかったぁー。………、じゃあ、そろそろ同棲しようか。」
それからの数日間、、はいと答えたのになぜかすこし悩んでいた。本当に颯人さんでいいのだろうか。優しい。本当に良い人だと思う。でも……。悩んではいたが、いつの間にかもう大丈夫だろうと思っていた。そして、おばあちゃんにも報告した。おばあちゃんはとても喜んでくれた。私は自分の部屋に戻り、同棲するために荷物をまとめていた。すると、懐かしい制服を見つけた。高校のときの制服だった。まだ入るかなと思い、久しぶりに着てみた。意外に入った。よかった、少し太ったから無理かと思っていた。そしてポケットに手を入れると、なにか入っていた。取り出してみると、ホッカイロだった。その瞬間、零音との思い出が蘇った。その冷めたホッカイロでは、もう私の手や体は暖まらなかったが、なぜか私の心だけは暖まった。そして、私の心のポケットに上手に閉まっていた、高校時代の甘酸っぱい気持ちが、飛び出したいと叫んでいた。
「………もう、遅いよ。もうそんな奇跡なんて起きないよ。」
私は、そのホッカイロを見つめながらつぶやいた。
クリスマスイブ、おばあちゃんが一枚の紙と通帳を私に手渡した。
「なにこれ?」
私は、意味が分からなかった。
「これはね、瑠璃ちゃんのお母さんに、瑠璃ちゃんが結婚するときに渡してくれって言われたものだよ。」
おばあちゃんは笑顔で言った。
「その通帳はね、お母さんが瑠璃ちゃんの結婚式のときのために貯めておいたお金だよ。そのお金で、綺麗なウエディングドレスを着てほしいって…。」
おばあちゃんは、笑顔だったがすこし目が潤んでいた。私も泣きそうだった。おばあちゃんの泣いた顔も見たくなかったし、私の涙もおばあちゃんに見せたくなかったので、私は二階にあがった。そして、手紙を読んだ。
『大好きな瑠璃ちゃんへ
結婚式に行けなくて、ごめんね。瑠璃ちゃんの素敵なウエディングドレス姿みたかったなぁ。でも、瑠璃ちゃんが結婚することになって、お母さんは嬉しいよ。
今までに何人も好きな人はできたかもしれない。
でもね、自分より大切だと思えるのはたった一人。
その人との子供が欲しくなるの。
その子供も自分より大切な人とできた子だから、もっと大切になるの。
この子のああいうところが彼に似てるなとか、こんなこと彼もしてくれるなとか、…
子供の成長とともにいろんな思い出が蘇って、また彼に恋するの。
だから、ずっと一緒にいる夫婦って、お互いがお互いのことを自分より大切だと思ってるんだと思うよ。
瑠璃ちゃんもそういう人に出逢えたのかな?
最後に、お父さんが昔よく言っていた言葉を送るね。
奇跡とは、そうなるように努力した人だけに起こる偶然である。
大好きだよ。 母より』
私は、堪えていた涙を、堪えきれずに流した。と、同時にあの公園に走っていた。
零音を探す。いるはずはない。もうあの約束から二年も経っている。私はタイムカプセルを探した。埋めた辺りを掘った、何度も掘って、やっと見つけた。もうボロボロになっていた。でも、このタイムカプセルがあるということは、二年前、零音もここに来なかったのかなと思った。やっぱり奇跡なんて起きないよ。そう思いながら、タイムカプセルを開けた。久しぶりに見る懐かしいものが入っていた。その中に見覚えのないものが二つあった。枯れた花? 枯れた花が二つ入っていた。こんなもの、埋めたときには入れてない。枯れてなんの花かわからなかったが、紙と一緒に入っていた。一つ目には、
キキョウ
そう書かれていた。そして、二つ目には、
スターチス
そう書かれていた。私は、泣いた。この花たちは………。
すると、後ろから、
パーンッ!!
急に大きな音。振り向くと一人の男性。
「あの、よかったら一緒に花火しませんか?」
零音。手になにか持っていた。
センニチコウ
「なんで? なんでいるの?」
「俺、この日だけは、毎年ここに来てたから…。」
私は涙で前が見えなくなっていた。鼻水も垂れていた。
「これ、クリスマスプレゼント。」
私は耳になにかをつけられた。ヘッドホンだった。それも、私が零音とはじめて話した日、バイトがバレて、とっさについた別にほしくなかったヘッドホン。そんなこと覚えてたんだ。欲しくなかったヘッドホンだったが、私は嬉しくてたまらなかった。
今は感じる。
涙で前も見えず、鼻水で鼻もきかない、ヘッドホンで何も聞こえない。
でも感じる。
レオノアタタカサ
「零音………、やっぱり、…すき。」
「うん、俺も。」