沖縄旅行記 ≪南の島で≫
ホテルや食事処等の名は意図的に塗りつぶしました。
気になる方は、各自作者にメッセージ等で問いかけてください。
それと、やっぱり駄文です。
沖縄旅行記
十二月十日、個人によっては眼を擦りながら、手にそれぞれの荷物を持ち学生たちが寄り集う。場所は水戸駅南のテラス。若干の遅刻が発生したが、まだ余裕はあった。元から見越していたのだろう。
出発式も終わり、生徒たちは列をなして特急を待つ。ちらと視線を上げた。陽は昇って
浅い。冬だからだろうか。
車両がホームに滑り込む。引率者の声に急かされ慌ただしく乗り込んだ。研修旅行が始まったのだ。学校の行事等で乗り慣れたのか、列車内部は適度に騒がしい。旅行への期待感が顕れていた。
特にトラブルもなく品川駅に到着、ひたち2号から大量の生徒が吐き出されていく。旅の情緒はそこにない。流れのままに、京浜急行線に乗り越える為に歩き出した。人波に揉まれながら窮屈な姿勢で時計を見る。――午前九時十一分。予定通りだ。
幾つかの駅を越え羽田空港へ。配られた搭乗券を受け取り、座席番号を確認。前方から諸注意が飛ぶ。
「搭乗券には五十九番と書いてありますが、五十七番です! もう一度繰り返しますが……」
搭乗口は五十七番ゲート。少し――否、かなり遠い。手荷物検査を抜けて、一人の生徒が足早に向かった。他の生徒は免税店を見て回るのか、動かない。
搭乗口付近の待合椅子には先程の生徒が居る。顔が俯いていた。眠っているのだろうか。見物、買い物を終えた学生が続々と群がり、十時半頃、遂に搭乗が開始された。時々、機内で列が詰まるも、着席が出来た。ホッと一息吐く。
暫くして、機内放送と共にシートベルトの着用サインが点灯。ポ-ン、と小気味よい音が鳴った。一部の乗客が慌ててベルトを身体に回す。そういう動作だけで慣れているかどうかが見て取れた。
幾度かの揺れの後、旅客機が止まる。
次の瞬間、エンジンが轟と唸りを上げ始めた。ガクッと機体が大きく震える。窓の外、景色が猛烈な速度で流れていく。
気が付けば既に離陸は済んでいた。たいした振動もなくグングンと高度を上げていく。パイロットの腕がいい。思わず笑みを浮かべた。
◆
忙しなく辺りを見渡す。様々な制服が眼に付いた。他校の修学旅行の学生たちだ。那覇空港に到着して間もなくの話だった。
荷物を担ぎ、歩いて思うことは一つ。
暑い。暑過ぎる。冬だというのに確実に二十度以上はある。本土の寒さに慣れ切った身には少々堪えるものがあった。
空港内で四日間を共にする二人のガイドさんとの挨拶を済ませ、雨の中、駆け込むが如く二台のバスに分かれて乗り込んだ。
生憎の天候の為、記念すべき初の観光名所たる首里城は、霞んで見えた。
傘を差し、守礼門を過ぎ、ガイドさんの解説に耳を傾ける。隣を騒がしい中国人の団体客が通って行く。
集合写真は取り止めとなった。予定通りとはいかないらしい。
城内は薄暗く天井も低い。妙に気怠い身体を引き摺るように順路を進む。途中に展示されている茶器の錆具合は素晴らしいものだった。母が茶道の先生であるから、なんとなく解ることだった。
弱々しい光の先は城外。風は強いが雨は止んでいた。バスの停めてある駐車場に向かう道すがら、土産店に立ち寄った。月並みではあるが、安いのでチンスコウを買う。
次に赴くのは「旧海軍司令壕」。彼の大田實少将が自刃した場所だ。
慰霊の塔――英霊に献花と黙祷を捧げ、壕の中に入った。
至る所に掘削痕がある。当時の兵がツルハシを用いて付けた痕だ。壕はすべて人力で造られていた。自決の際の、榴弾の生々しい弾痕、発電機の土台の腐った木組み……。
鬱屈とした壕を出ると、雨足が強まっていた。濡れぬようバスまで駆ける。そこを去る時、改めて黙祷を。車内の窓から眺めた慰霊の塔が眼に焼き付いた。
夕食は■■天楼で摂る。沖縄料理たるソーキ蕎麦はあっさりとしていて、ゴーヤチャンプルの苦さは箸を進ませる。沖縄民謡も披露された。二人の生徒も壇上に上がり、歌唱に参加した。
宴もたけなわ、食事処にお別れを告げ、バスでホテル「グランビューガーデン■■」へと奔る。
エントランスには前もって送った荷物が届いていた。
相部屋の鍵と荷物を受け取り、生徒たちは個々の部屋に引っ込んだ。
翌日、六時半のモーニングコールに叩き起こされ、一階レストランで朝食を貪る。ちなみにバイキング形式だ。朝からカレーを掻っ込む猛者も居た。ある意味尊敬に値する。主にその胃の頑丈さに、だが。……胸焼けを憶えさせられた。
先生方も写真などを撮り、朝は忙しく過ぎていく。
朝食の後はホテルの移動に備え荷物をバスに積み込み、戦争史跡巡りが始まる。
まずは平和記念公園。戦争体験者の戦時中のこと——平和講話を聴く。
ひもじい思いをして山の中に食料を取りに行った話や、アメリカ軍の捕虜になった話など、今では知ることの出来ない貴重な体験談を聴くことが出来た。
更に、同じ園内の平和の礎、平和記念資料館を見学。慰霊塔に千羽鶴の献納も行った。
先達の奮闘の上に、今の日本がある。その事実を深く噛み締めた。
休憩を兼ねた昼食を■■堂で摂り、自由時間の合間に学生たちは土産物を物色するか、アイスなどを食べていた。
予定よりも十分余裕をもって、糸数壕に着くことが出来た。壕内は危険な為、皆服装をジャージ等などに改めてから見学へ。
懐中電灯を消せば真の闇が辺りを覆い、水滴の落ちる音のみが淡々と続く空間……。
壕に取り残された、今は亡き兵士たちの念が沁み付いているように感じた。
最後に「ひめゆりの塔」に向かった。
付属の資料館は関係者のみの資金で建てられたと言う。ひめゆり部隊の最期が忍ばれた。
今後も、戦争によって引き起こされる悲劇を食い止める為に、私たちは戦い続けなければならない。そう新たに覚悟を改めた。
二日目に宿舎をホテル「リザンシーパーク■■ベイ」に移す。朝食、夕食共に、これまたバイキング形式である。胃が凭れそうだ。
食事等に必要な食券関連で幾らかのアクシデントが起こったが、概ね問題なかったと言える。
三日目は、各班が定めたプランに則って、タクシー研修となる。
矢張り、美ら海水族館などが人気だったが、海に続くとある並木通りや、沖縄とプエルトリコにしか存在しない塩川——塩分を含む水が湧出して出来上がった小川も興味深かった。
他には海浜公園の浜辺に転がるサンゴの遺骸、海中展望塔を通して見た沖縄独自の生態系など、タクシー研修は大変楽しいものとなった。
親しくなった運転手とも別れ、最後とばかりに学生たちはバイキングに突撃する。残念ながら焼き肉の店舗は閉まっていた。
もう慣れたあさ六時半のモーニングコール。沖縄最後の朝食を摂って、荷物を纏めてホテルを発つ。従業員の見送りの中、バスはホテルを颯爽と去った。
最後の四日目、訪ねる所は只一つ。
——「那覇国際通り」。
三十分以上も早く現場に到着した為、自由時間がその分伸びることとなった。
様々な店が犇めく中、生徒たちは気の趣くままに散らばっていく。矢張りここでも、アイスを貪る者が一定数居た。
楽しい散策も終わりを告げ、名残惜しくも帰路へとついた。バスガイドさんと別れを、
——いや、再開の約束を交わした。
そして、二度目の那覇空港との邂逅。
心とは裏腹に、すぐさま旅客機は空へと飛び立つ。
ここから先は記すことは特にない。
いや、一つだけ言い残したことがある。蛇足だろうとも言っておきたい。
旅立ちと反比例するように、パイロットの腕が酷すぎる! 今までで史上最悪だった。
これで旅行記を締めくくることとする。




