雷神
今日はやけに蒸し暑いぞと思っていたら、昼過ぎから空が真っ暗に曇って、大雨がざあざあ降り出した。季節の変わり目で不安定な天気が多いとはいえ、それにしても空が大変な色になったもんだと外を見てみたら、庭に変な服を着た人が倒れていた。
人の庭で倒れているなんて、まずどうやって入ってきたのかと不思議には思ったが、放置してそのまま死なれても困る。こっそり様子を伺ってみると、息はしているようだったので、とりあえず忍び寄って頭に傘を差しかけた。それから体が雨に濡れないよう、胴体にはブルーシートを掛けておいた。
あとは無用に構うことはせず、ぼくは逃げるように部屋に戻った。遠目に見るとブルーシートのせいで要らぬ犯罪臭もするが、まあ雨を弾くものだし、寒さをしのげるなら良しとしよう。
それきり、その日は何も見なかったふりをした。
翌日の朝、また庭を覗くと、もう昨日の変な人はいなくなっていた。
いやあよかった。そのまま行き倒れなんかされたら、たまったもんじゃないぞ。
そんなことを思っていたら、その日の昼過ぎにインターホンが鳴り、出てみるとなんと昨日の変な人だった。黄色い着物のような衣装を着て、なんだか人間離れした雰囲気を備えている。
何か御用でしょうか、とぼくが聞くと、その人はさっそく自己紹介をした。
「我は雷神である」
参ったな大変なのが来たぞとぼくは思った。
「汝は天より落ちた我に傘を差しかけ、また雨を避けんと青き布にて我を覆い、礼を求むることなく、我の前より去った。世にも珍しき、清き心の持ち主である。その心に感服し、我は礼を言わんと、天より再び降りて参ったのである」
「それは恐れ入ります」ぼくは言った。
雷神は懐に手を入れながら、重々しく続けた。
「汝の清き心と、我を助けた行いにより、褒美の品を与えようぞ」
「いえ、結構です」
ぼくが言うと、雷神は驚いたようだった。
「これはいかなこと。我より褒美を与えんとするに、汝は要らぬと申すか」
ぼくは頭を掻いて言葉を探した。
「その、お気持ちは大変嬉しいのですが、物を頂くのはちょっと。折角ですがご遠慮させてください。あまり人様から物を頂くものではないと、母からも言われているので……。本当にお気持ちだけで十分です」
雷神は訝しげな顔でぼくを見つめた。自分の褒美を受け取らない人間などいるはずがない、と思っているらしい。
「汝は」雷神は再び懐に手を差し入れた。「これを見てもなお、受け取らぬと申すか」
取りだしたのは小さな黒塗りの箱だった。
蓋を開けると、中には小さな小槌らしきものが入っている。
「これは、打ち出の小槌というものである。ひとたび打ち下ろせば、汝の望みの物はいくらでも手に入ろうぞ。おいそれと人間に与えられるものではないが、汝ならば道を踏み外すことなく扱い得るであろう」
ぼくは慌てて手を振った。
「いえ、本当に結構です。そういうのはほら、いわゆるあぶく銭ですから……。お気持ちは本当にうれしいんですが、あんまりそういうのはやめておきたいかなと」
ぼくが断ると、雷神はじいっとぼくを見つめ、やがて嬉しそうに笑って言った。
「汝の謙虚なる心構えは、げに雷神をも驚かすものである。富を前に、なお手を出さぬとは、まこと世にも珍しき徳高き男ぞ」
雷神は小箱のふたを閉め、再び懐へ仕舞いこんだ。
「しかと心得た。汝は市井に住まいながら、神仙のごとき精神を保つ者である。我はこれにて天へ還るが、こたびの傘の恩はけして忘れまいぞ。汝の気高き心は、天界にて永遠に語り継がれるであろう」
雷神が今にも立ち去ろうとしたので、ぼくは慌てて呼び止めた。
「えっ、ちょっと待ってください」
「どうした」
雷神は不思議そうに向き直る。
「やめてください」
「何をだ」
「永遠に天界で語り継ぐなんてやめてください」
「なぜだ。消えぬ天の栄誉を得るのだぞ」
「やめてください。そんな大仰なことにしないでください。本当にあの、どうせ語り継ぐなら仮名にしてください。大田区のAさんとかにしといてください」
雷神はしばらくうつむいて考えこんだ。
「しかし神が嘘を広めるわけにもゆかぬ」
「じゃあ、目黒区のMで」
ぼくが譲歩すると、雷神はうむ、と頷いて力強く笑った。
突然ごうと強い風が吹きこんできて、ぼくが一瞬目を閉じたすきに、雷神は目の前から消えていなくなっていた。
それから七十年近くが過ぎるのは、本当にあっという間だった。
更に言えば、ぼくの葬式が終わってからあの世へ行くまでの四十九日間も、あの世へ行ってからの人生の振り返り期間(思い返せばレビューという名のモラトリアム期間だった)も、本当にあっという間だった。
そんなこんなで今のぼくは、転生案内所の休憩室に座ってパンフを流し読みしている。やっと転生の目途がついたので、最近通い始めたのだ。空調も適度に効いていて、なかなか居心地は良い。
しかし、いまだに現世紹介コラムに『目黒区のMさん』のエピソードが載っているのには、本当に辟易する。あの雷神、個人情報は洩らさなかったようだけれど、これだけ広くあの世に話が広まるとは、一体どれだけの人に触れまわったのか。
あちこちの読み物で『目黒区のMさん』が引き合いに出されるたびに居心地が悪い。既に何回か「もしかして……」なんて声を掛けられてさえいるのだ。
あの時のぼくは、そんなに気高い対応をしたのか?
あんなの、見知らぬ人がいきなり自宅に押し掛けてきて、よくわからないお土産を押し付けようとしてきた時の、一般人として至って普通の反応ではないのか。
ぼくはコラム欄を読み飛ばしてページをめくった。
もう本当、さっさと転生したい。