平々凡々たる存在
ぼくはそれを駅の構内で見かけたとき、あまりの醜悪さに息を呑んだ。
病的に黒ずんだ顔色、異様にねじれ垂れ下がった皮膚。ふと気づけば顔中に痣が現れ、次の瞬間すべてが疣と膿で覆われる。唇は笑うように吊り上がり、やがて吐きそうなほどに吊り下がり、めくれ上がっては破け、気持ち悪い程に歪んでゆく。目は暗く濁り、ある瞬間には眼窩に埋没し、次の瞬間には魚のように飛び出し、そして奇矯なまでにぐるぐると回る。
ぼくは鳥肌が立った。あれは仕方ない、誰が見たっておぞましい風貌である。
一体あれは、何なんだ。
「ああ、あれ」ぼくの隣に立っていた、神のように美しい少女が言った。「あれは人間が作り出したもの。『醜さ』の概念の固まり」
「概念の固まり?」
「そう。世界中の人間が、『自分は醜い』と思った分だけ、彼にそれが降りかかる」
少女は優美に頷いた。黒髪がきらきらと光を放つ。ぼくは存在としては平々凡々としたものだから、少女の美しさもあまり直視できないが、やはり醜さはその忌避感が根本的に違う。
「そんなシステムがこの世にあるなんて、聞いたことがないけど。何がどうなって、彼に『醜さ』が降りかかるんだ」
「自分が醜いと思う人は、同時に世界をも貶める」
少女は淡々と語った。
「たとえば、肌の色が気にくわない。目が大きすぎる。小さすぎる。口の形が、骨格が、性格が気に入らない。そんな不満はすぐさま他人に投影されて、他人のことがどんどん嫌いになる。すると身の回りがそんな他人でいっぱいになって、そんな世界など住みたくもなくなる。そんな世界から抜け出せない自分にも、ますます嫌気が差す。その嫌気すらやがて世界に投影されて、だから人は、世界を呪うようになる」
少女は面白そうに笑った。ほれぼれするような綺麗な笑顔だった。
「彼はそんな、個人と世界の相関関係をよくわかっている。だから、世界がこれ以上醜くならないよう、代わりに自分が醜くなるという誓いを立てた」
「へえ」
聞いてみれば中々の美談だった。世界を背負ったボランティア活動。美しい世界が、これ以上醜くならないように。
しかし、それなのにどうして、こんなにも彼のことが気持ち悪いんだろう。ぼくはどんな汚く醜いことでも、それが美徳に基づくものならば何でも受け入れる自信があるのだが、それにしても彼の存在は、情けないことだが見るに堪えない。
ぼくが未熟なのだろうか。それとも彼の醜さが、世界を背負ったこの醜さが、単に突き抜けているだけなのだろうか。
ともあれ、まずは素直に賞賛することをぼくは選んだ。
「代わりに自分が醜くなるなんて、結構見上げた心意気だよな。ぼくならそんな発想、浮かびもしないよ。しかし一応確認するけど、そんなことしなくたって、世界が崩壊したりはしないんだよな?」
ぼくが一応確認すると、少女はふふと笑った。その小さな笑い声だけで、足下に可憐な花が咲きそうだ。
「もちろん世界に影響はないし、まず何の効果も無い。むしろ彼は、世界を貶めているとすら言える」
「何の効果もない? ……それって、彼が醜さを背負おうが背負うまいが、世界はやっぱり醜くなっていくってことか?」
「世界は醜くなんかならない」少女は言った。「世界は人の作り出したただの結果。その証拠に私は美しいし、私の目に映る世界も美しい。私のように容赦なく、私のように寛大で、私のように完璧。醜さなど、欠片も目に入らない」
少女はゆっくりと言い切った。まあ、少女の美しさに関しては異存はないが。
「じゃあ、世界が醜くならないんなら、彼はなんでそんな意味の無いことをしてるんだ」
「あれは単なる趣味。それだけ」少女は微笑んだ。「人の発する想いで世界が変わると知ったとき、彼が無意味に決意しただけ。『俺は世界を愛してる。人が世界を愛さないなら、俺が代わりに憎まれよう』なんて言って」
「でもそれ、効果ないんだろ?」
「ない。勘違いの元はただ一つ、彼は世界が一つだけだと思っていた。たったひとつの世界に、たくさんの人が住んでいると考えた。世界なんて、人の数だけ存在するのに。それが最後までわからなかったからこそ、世界を救おうなんて、浅はかな決意をした」
少女は淡々と語る。
「彼はただ、誰にも嫌われたくなかった。まずそこで、世界の包容力を否定した。次に、彼が醜さを肩代わりしようとした時点で、世界の底なしの可能性を否定した。更に醜さを醜さとしてだけ扱うことで、醜さを冒涜した。しかも、彼はそれをわざわざ出歩いて行い、自分の偉業を吹聴した。世界は全てを見ているのに。結局、彼は世界に見つけて貰い、認めて貰うことを自ら放棄した。誰かに見つけてもらうことを望んだ以上、常に見られるという夢のような保証は、捨てざるを得ない」
ぼくと少女は、このように長々と立ち話をしていたが、まったく突然に、話題の彼がこちらを向いた。彼の方を見て喋っていたのが災いしたのかもしれない。
その醜く、おぞましく、同時にどこか誇らしげな眼差し。
ぼくは反射的に腰が引けたが、少女はなんてことない様子でそのまま立っていた。
彼はそんな少女の姿を見るや、じろじろと上から下まで眺め回した。まるであら探しをしているようだと、ぼくは思った。
「なにか用があるの? この世界と同じくらいに美しい、神のような私に」
少女は諭すように言い放つ。
「私は一片の醜さも持っていない。私は完膚無きまでに完璧。私は美しさしか世界に提供しない存在。それはお前の本願でもあるはずだが……。それとも何か、不満があるのか?」
彼は地を這うような唸り声を上げると、やがて地団駄を踏み、ひっくり返って嗚咽を始めた。世界を美しく保ちたがったはずの存在は、その動機ゆえに、逆に醜さを追い求める怪物と化したのだ。とうとう世界の美しさをも許せなくなり、許せない世界を呪い続ける。
ぼくはこの異様な光景を見ていられず、つい顔を背けたが、少女はそんな情景にも揺らぐことなく、魅力的に笑っていたようだった。
程なくぼくらはその場所を離れ、てくてくとホームへ歩いていった。
「『俺が醜さを肩代わりする必要のない世界になってくれ』と願うのが正解だったのかな」
ぼくは思いつきで言ったが、少女は迷い無く首を振った。
「それはそれで、『今の世界は自分が醜さを肩代わりする必要がある』と言っているようなものだ。たいして変わらない」
「ちなみにさ」ぼくはふと思いついて聞いた。「君は彼のこと、どう思う? 醜いと思っているのか? それとも、あれでやっぱり美しく見えてたりするのか」
「あれは弩級に醜い」少女は弩級に美しい横顔でそう言った。「しかし肩代わりの精神だけなら、少しは評価しなくもない。それに何といっても、あんな驚くべき醜さを易々と内包する世界に対して、私は改めて驚きを禁じ得ないし、そんな世界を私は、これまで以上に敬愛してやまない」
「で、あいつにその見解を教えてあげたりはしないのか」
「もちろんしないさ。彼の選んだ道を邪魔する権利など誰も持たない。好きなだけ世界を否定し、呪い、冒涜するがいい」
世界は人が作るただの結果だからと、少女は繰り返した。
少女は神のように美しく、軽い足取りで進んでいく。
ぼくは自分の美しさを誇ることもないし、自分の醜さを憎むこともない。ただただ少女の後を付いて歩く、平々凡々たる存在である。