妖精:感度の問題
ある日のこと、喫茶店でのんびりしていると、カウンターの影で何かがひょこっと動いた。びっくりして目をこらすと、どうやら可愛らしい妖精である。私に向けて小さな手を振り、またひょこっと消えてしまった。
さすがに夢かと思ってその日はぼんやり過ごしたが、翌日、今度は勤め先で妖精を見た。パソコンの影で、小さな男の子が無邪気に遊んでいたのだ。美しい顔で、一心不乱にLANケーブルの端子をのぞき込んでいたので、思わずふふっと笑ってしまい、気づいた男の子はびっくりした様子でぱっと消えた。
その日を境に、私はあちこちで妖精を見るようになった。まず始めは、身近な器物や植物の妖精達である。コップにはまって遊ぶコップの妖精や、明るい黄色のドレスを着たタンポポの妖精などを見るにつけ、世界はこんなに美しく楽しいものだったかと目を見張った。仕事にも張りが出る。愛らしい存在とは、かくも心を和ますものである。
ところが時間が経つと、今度は何に従事しているのか不明な妖精を見かけることが多くなった。この妖精達は、道ばたなどの何もないところにいる。何に宿るわけでもなく、なんとなく、そこらへんにいる。話し掛けてみても反応がないので、あまり気にしないことにした。私には妖精の声が聞こえないし、人間だって、いつも何かしているわけではないのだ。
とはいえ、困ったことも起こった。「何もしていない妖精達」を見るようになってから、あの可愛らしい妖精達を見ることが少なくなったのだ。更に時間が立つと、可愛らしい妖精達は私の前から姿を消し、ぼんやりと表情のない妖精ばかり目につくようになった。皆、美しいことは美しいのだが、こうもぼんやりされると少し不安だし、なにより得体が知れない。しかも、どうやら彼らの外見は時間とともに個性が失われてゆくようだった。
ゲームが突然バグった時のような薄気味悪さを感じる。私はなるべく彼らを見ないようにして過ごすことにしたが、たとえ見ていなくとも、状況は着々と進行していたのである。
とある休日の昼下がり、私は手を洗うために洗面所に立った。そして水を流したのだが、突然、その水が無数の「水の妖精」でできていることにハタと気づいたのだ。おそるおそる指を差し入れたが、体感としてはただの水だ。しかし妖精さんで手を洗うなど……。私は動転して水を止めたが、まもなく差し迫った問題にぶち当たった。トイレである。当然トイレには水がたまっており、そこをめがけて排泄するわけだが、またもや、妖精さんに向けて排泄するなど……とはいえ、こればかりは仕方がないので、謝り倒しながら用は足した。ちらりと様子を伺うと、妖精達は特に気にする様子もなく、ぐるぐると渦巻いて流れていった。
いやいや。頭がおかしくなりそうだ。とりあえず心を落ち着かせようと外に出て、近所の公園へ歩いて行くと、もうどこにも「何もしていない妖精達」が見当たらないことに気がついた。そして同時に、自分の踏んでいる地面や砂が「地の妖精」でできていることに気付く。やべぇ、足の踏み場がない。しかしこちらも仕方がない、浮遊などという芸当もできないので、心もち静かに歩きながらベンチに座った。
しかし落ち着いて考えれば、妖精を抜きにしても、水や土には感謝すべきではなかったか。昨今の環境問題、食糧問題、水資源の枯渇は目に余るものがある。これを機に、地球に感謝するのも一興かもしれない。いやしかし、だったらなんで私にだけ妖精が見えるのだ。全人類見えれば良いじゃないか。結局のところ、個人的には少しばかり迷惑な感想も拭えなかった。
帰宅後、夕食作りのために「水の妖精」で野菜を洗った。更に肉を切ってフライパンに投げ込み、コンロの火をつけると、ご多分に漏れず「火の妖精」が踊り出る。しかし火については直接触ることもないので、これはまあ、楽しんで鑑賞した。
ここからの数日間が、思い返せば一番大変だったと思う。目に映る全てのものが、「水の妖精」「地の妖精」「火の妖精」の組み合わせで見えるようになってしまったのだ。
たとえば陶器のコップなら、大部分が「地の妖精」で構成されていて、あとはわずかな「水の妖精」と「火の妖精」の組み合わせだ。金属製品・焼き物・プラスチック・ガラスなど、大体の物は「地の妖精」が大部分を占める。
木材は、陶器よりも「地の妖精」が少なく、スカスカしている印象だ。
器物だけでなく、生き物も妖精の組み合わせに見えた。生き物の場合は「水の妖精」が圧倒的割合を占める。「火の妖精」も器物より多く含まれていたようである。
こうして全てが妖精に見えるようになって、私は神経を相当すり減らしていたが、そんな中でも「何か忘れているなぁ」と思っていたところ、間もなく無意識に危惧していたそれも見えるようになり、それが私にトドメを刺した。即ち、「空気の妖精」である。
こうして、物質を構成する妖精全てが見えるようになってからは、目の前の景色すら、隙間なく無数の妖精達で埋め尽くされた。自分の手を見たところで、それすらただ妖精の渦巻く固まりに過ぎない。私は程なくぶっ倒れ、救急車の形をした妖精によってA病院という妖精へ運ばれ、点滴という妖精を打ちながらしばらく入院することになった。
必死に目をつむりながら、私は一心に祈っていた。
自分の体が妖精でできているなら、自分はどこに居るというのだ。
どうかこの思考も、気持ちも、妖精によって分解されませんように。
自分という存在自体が、途方もない妖精の渦の中に飲み込まれ消え去ってしまう前に、どうか、私を元の世界に戻してください……。
やがて疲れてまどろみ始めた私のそばに、少し悲しそうな顔をした、大きな美しい妖精が現れた。彼女はしばらく私のことを見ていたが、やがてゆっくり微笑んで「おやすみ」と言った。
翌日、目を覚ますと世界は元通りになっていた。いや、元々世界は変わってなどいないから、戻ったのは私の見え方だけだ。今では問題なく日常を過ごしているが、時おり、世界が妖精で埋め尽くされた時の感覚を思い出す。そんな時は深呼吸で気持ちを落ち着かせて、なるべく混乱しないよう努めている。
しかし、もう一度でいいから、あの世界を覆い尽くす妖精達ではなく、かといって何もしない無表情の妖精達でもなく、一番始めに遭遇した、可愛らしい妖精達に会いたいと思ってしまうのは、私の度の過ぎたわがままなのだろうか。