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触れられなかったキスの味を、僕は生涯忘れない

 僕のファーストキスをあげたいと言ったら先生はどんな顔をするだろう。

 ふとそんなばかげたことを考えた。と、同時に自分はもう堕ちるとこまで堕ちたのか、と気がついた。気がついたところでもう手遅れなんだけど。

 遠くの方から部活のかけ声が聞こえてくる中、僕は誰も居ない教室に佇み、時計に視線をむけた。

 ――あと、少しだ。



 ◇ ◇ ◇



 僕のクラスの国語は、現在教育実習生が受け持っている。

 教育実習生――僕からしてみれば立派な先生の着任挨拶が行われたのは、面倒で退屈な朝の全校集会だった。

 その日も変わらず退屈な朝の始まりだろうとぼんやりしていたら、彼女がステージにあがってきた。

 そのとき僕の取り留めのない日常が歪み、捻じ曲がり、弾け飛んだ。

 そんな僕の気も知らないで、先生はただただ緊張した面持ちで自己紹介をした。その間ずっと視線をマイクに落としたままだったので、お世辞にも上手い挨拶ではなかったがそこがまた可愛らしい。

 その日の先生は黒のスーツに身を纏い、胸下まであるきれいな黒髪を一つに結んでいた。他にも実習生という立場の先生が数名いたが僕の眼には映ってこなかったのでよく覚えていないが、きっと先生以上にあのスーツを着こなす人はいないだろう。

 朝礼中ずっと先生のことだけに夢中になっていた僕だが、その時は愚かにもこれが恋だと気づいていなかった。そして気づいた頃にはもう何もかもが遅すぎた。



 ◇ ◇ ◇



 誰もいない放課後の教室。少し前までは放課後独特の部活の掛け声や、女の子笑い声が遠くの方で微かに聞こえる、至って普通の――いつもと変わらない放課後だった。いつもとは少し異なるのは僕だ。全力で働く心臓を無理矢理抑えつけた。

 時計に目をやると、いつの間にか完全下校時間を過ぎていた。どうりで静かになるはずだ。普段の学校は、静寂とはかけ離れているので、少し違和感はあるが、これでいい。

 あとは先生が僕の言葉に耳を傾けてくれるだけ。

 そっと息を吐き、余計な力を抜こうとしたが、うまくいかない。自嘲するような笑いがこぼれ、どうしようもないな、と呆れると同時に静かにドアの引くカラカラという間の抜けた音が響いた。


 ――先生。


 声にならない声が唇を震わせた。

 ああ、何て綺麗なんだろう。

 現れた先生にすぐ見惚れてしまう。


「遅くなってしまってごめんなさい?」


 先生の声が僕の耳に届くまでのこの距離さえ惜しい。

 できることなら耳元で囁いて欲しい。


「いえ、大丈夫です」


 震えるかもしれないと危惧したが、いつも以上に冷静な声音が放たれ、浮き足立った気持ちが少し落ち着いた。

「それで、どうかしたの?」


 本当はわかってるくせに。


「先生に質問があって」

「今日の範囲で?」


 そう言うと先生は僕の方へと歩み寄ってきた。その迷いない行動にドキリと心臓が跳ねた。が、先生の視線は僕の持っていたノートへ向けられていた。

 呼び出しの名目上、これくらいはいるか、と少しでも株をあげたくて優等生アイテムであるノートを持参したことを今の今まで忘れていた。果たして、下心丸見えの僕がノートを持ったところで優等生アイテムとして効果を発揮しているかは甚だ疑問だが、とにかく、先生はノートから視線を外さなかった。

 まさか、僕の下心に気づいていないのか?


「どうかした?」


 先ほどより縮まった距離に幸福感に包まれた。そのあまりの幸福感から――陳腐で月並みではあるが、空も飛べそうな、そんな幸福感から「先生、」と弾けるように言葉が飛んだ。

 そんな騙し騙しの勇気に乗っかったまま、想いをぶつけてしまおうとしたが、出来合いの勇気が長く続くはずもなく、尻窄みに「好きです」と情けない吐息のような、言葉にも見たない声が続いてしまった。これが告白なのか? 自分でも呆れてしまうほど情けなく格好悪い。



 ――もう、どうとでもなれ。



 ヤケクソに、いや、最早本能のままに一歩踏み込んだ。手を伸ばさなくても届く距離に安堵と興奮が器用に押し寄せてきた。

 そんな僕の大胆な行動にも関わらず、先生は特別大きなリアクションをとることもなく、ただただ戸惑うように微笑みを浮かべただけだった。その表情がなんだか僕の知らない大人な一面をみせつけられたようで居た堪れなくて、でもこの禍々しい感情の赴くがままに自分のものにしてやりたくて、どうしようもない。

 気づけば先生の肩に触れていた。先生は僕より6歳年上のはずだが、僕より6年の時を先に進んでいるとは思えないほど華奢で、僕の手から逃げることなく、目を見開き、僕の名を呼んだ。

 先生。

 そんな声で僕の名前を呼ばないでよ。どうせなんとも思っていないくせに。苗字で呼ばれてもうれしくない。いや、本当は死ぬほどうれしい。でも、出来れば下の名前で呼んで欲しい。そんなことをされたらこのこみ上げてくる感情をどうしたいいのかわからないんだけど。


「ねぇ、先生。教えてよ」


 囁くと先生は息を止めた。

 それは合図なの?

 そんな言い訳じみたことを無理やり正当化して、やわらかそうな先生の唇にそっと近づける。



 いっそ、このまま――



 だが、そんな仄暗い気持ちを暴走させることはできなかった。

 だって。

 先生が苦しそうな表情で僕を見つめたから。愛しい先生が。


「先生」


 その柔らかそうな唇に触れるか触れないかの距離で囁いた。本当は先生、ではなく、下の名前で呼んでみたい。僕の気持ちをその小さな耳で受け止めて欲しい。

 言葉にできない感情をぐるぐると巡らすだけ巡らすと先生は何も言わず、そっと、僕の頬へ手を伸ばした。それから優しく触れた。


「泣かないで」


 知らない間に僕は泣いていた。その涙を先生は優しくぬぐってくれた。

 先生の表情は辛そうでそれでいてとても優しさに満ちていた。



 なんて美しい人なんだろう。



 そんな美しい先生を見つめながら僕はぼんやりと、先生は僕のことを好きになる日なんて来ないんだろうな、と思い知った。そうなることが自然な成り行きであるかのように、それはそれはもうすんなりと。



 そうか。叶わないのか。



 改めて心の中で囁いてみると、堰をきったように涙が溢れ出てきた。

 先生は困ったように眉をハの字に顰め、首をかしげながらまた拭ってくれた。

 そんな仕草が恨めしいやら愛しいやらで感情の収集がうまくいかない。が、これ以上がむしゃらに突き進むほどの勇気は僕にはなかった。

 たとえ、飼い殺しにしたこの感情が爆発しないまま一生燻ってしまっても、構わない。僕はきっとこの恋を一生忘れないだろう。大切に体の何処かにしまって、いつの間にか僕の一部となるまで大切に大切に――


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