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愛の言葉なんてひとつもなかった


 寡黙な人だった。想いを言葉にすることが苦手であることは一目瞭然で、それでも別に構わないと思っていた。言葉より雄弁に語る瞳がいつも優しさに満ちていたことは私だけがわかっていれば良いことなのだから。それなのに、娘や息子がやいやいと文句を言っていたのも、今になればいい思い出かもしれない。

 そんなことを考えているとふっと口元から笑みがこぼれた。

 同時に、頬の筋肉がピリリとした強張りが伝わり、ここ最近笑っていなかったことに今更ながら気がついいた。覚悟は出来ていたはずなのにな、と苦笑しつつ。


 ◇


 夫が眠るように命を引き取ったのは二週間程前だ。享年85歳と男性の平均寿命よりだいぶ生きながらえたことから大往生と言えなくもないが、悲しみがないといえば嘘になる。生命の秩序やら世の理だとか大層なことなんかこの際置いておいて、いくらでも生きて欲しいというのが人情というものだ。

 それでも、そろそろ命尽きるときだな、ということは素人目にしてもわかる頃、夫は息を引き取った。悲しみに暮れる暇はなかった。葬儀の手配や親戚への連絡など他にすることはいくらでもあった。娘や息子達が手伝ってはくれるが基本的には私の手で見送ってあげたかった。何十年も連れ添った相手だ。最後も私の手で幕を下ろしてあげたい。そんな強い思いを子ども達が酌んでくれたのだろう。何か言いたげな瞳で見てくるも口出ししてくることはなかった。

 葬儀も滞りなく終えてしまうと、一気に脱力感が襲ってきた。夜寝るときの部屋の静けさや電気の心許無さ。世界から急に取り残されたように感じる。子ども達は当分こちらの実家に戻ってこようか、など言ってくれたが彼らは彼らの生活がある。そんな我侭が口に出来るほど落ちぶれては居ない。それでも、この胸に穴が開いたような感覚をどうしたらいいのかわからなかった。

 家に居れば夫の姿が何の苦労もなく目に浮かぶ自分に、私はこんなにもあの人のことを愛していたのか、と気付かされた。と、同時に悔しさがこみ上げてくる。だってそうでしょう? 私ばかりがあの人を思っているなんて。そんな高校生のような恨み言をあの人に向けてつらつらと語っていると、誰も居ないはずの書斎から微かに物音が聞こえたような気がした。泥棒だろうか。盗ってもらえるような豪華なものは一切なかったので泥棒ならむしろ恐縮してしまいそうだ。そんなばかげたことを考えながら一応、書斎の部屋へ足を運んでみた。襖を開けるとそこには誰も居なかった。空耳だろうか、とあたりを見渡してみると、一冊の便箋が床に落ちていた。何かの拍子に落ちてしまったのだろうか。訝しげる点はあるものの、とりあえず近寄り、拾ってみた。こんな便箋、見たことも買ったこともなかったのできっとあの人のものだろうと察しはつくが納得は出来ない。なにしろ、あの人は口下手な上に筆不精なのだ。便箋にしたためる言葉など持ち合わせていないはずだ。中を確かめることなく、机の上に置きなおす。そこで、ふとあの人のやり取りを思い出した。





 確か、あれは病気が発見してすぐの頃だ。まだ通院していた頃で病院から帰る道のりの出来事だったはずだ。

 あの日は秋晴れでとても過ごしやすい日だった。私は天気がいいと気持ちも浮上する能天気な女だったのでその日も例に漏れず機嫌がよかった。あの人はそんな私をいつも冷めた瞳でみていた。そんな夫の態度をいつも子ども達は「酷い! もっとましな態度はとれないの?」と詰め寄っていたが結局は最後までその態度を貫いていた。というより、他にどんな態度をとったら良いのかわかっていない様でもあった。


「お前はいつも阿呆だな」


 視線を合わせずに呆れたように言い放たれた。子ども達が聞けばまた怒られるようなことを言っているな、とぼんやり考えながら「はぁ」と答えた。

 私のだらしない対応が気に食わなかったのか、眉をひそめた表情を私に向けると「わかっているのか」と詰め寄った。実際は何もわかっていなかったが「はぁ」と答えたような気がする。そのあとすぐにあの人は「もういい。お前はもっと本を読め」と窘められたはずだ。

 なぜそこから本を読めということに繋がったのか未だにわからないが、それ以降ことあるごとに「書斎にいけ」というようなことをいっていたような気がする。当時は、私が大の活字嫌いであることを知っているあの人のいつもの厭味だとしか受け止めていなかった。いや、待てよ。書斎にいけと言われてすぐに書斎の部屋をのぞいたはずだ。あれはいつのことだっただろうか。思い出せない。何はともあれ、書斎に行ってみるか、という気になったはずだ。それで、書の襖を開けるとあの人が机に向って座っていた。その後姿はよく覚えている。覇気がなくなって、若い頃の自慢だった上背が形を潜めていたのだ。年をとったな、としみじみ実感したのを覚えている。

 襖を開けてすぐにあの人が「何しに来た!」と怒鳴ったのはそのすぐ後だ。何しに言ったのか思い出せないが私のことだ。何か適当にごまかしたもののあの人の怒りのボルテージを上げれるだけ上げて追い出された。

 あの日、夫は机の上で何か書いていなかったか?



 はじかれるように、机の上におきなおした便箋をもう一度手に取った。乱暴にならないようにと思いながらも急いで表紙をめくった。

 一枚目は一行目に「フミ」とだけ綴られていた。

 あの人の文字だ。

 あの人が書いた文字だ。



 年甲斐もなく愛しさがこみ上げてきた。気が付けばあの日の夫と同じように机に向って座り込んでいた。

 逸る気持ちを深呼吸で落ち着かせ――実際は落ち着きなどしなかったが、もう一枚めくってみる。



 「フミへ」



 二枚目にはこの一行しか書かれていなかった。

 あまりにもあの人過ぎて笑いがこぼれた。ふふ。

 いつの間にか涙がコポリと便箋に堕ちてしまったので慌ててティッシュを勢いよく引っこ抜き、丁寧にふき取った。

 三枚目には「フミ」に続き「元気か」と足されていた。どうやら「フミへ」という書き出しは気に食わなかったらしい。そこもなんだかあの人らしい。



 そんなこまごまとした手紙ともいえない手紙が続いた。

 十数枚ほどめくったあたりでようやく何が書きたかったのか理解した。

 そしてそのあまりにも不器用すぎるあの人を思ってまた泣いてしまった。

 全く、仕様のない人ね。





 フミ

 元気か。俺は元気だ。俺が手紙なんて書く男ではないことを一番理解しているお前にわざわざ書いてやることもないかと思い、渡さずにいたのにお前のことだ。目ざとく見つけることだろう。

 仕方がないので、俺からお前にありがたい忠告を残しておいてやる。

 お前はいつも頭のねじが数本抜けている。それに自覚もないのだから苛立ちを通り越して呆れに変わられることだろう。なので、とにかく人様に迷惑がかからないよう重々心がけて生活するように。それから、お前はいつも料理中に他のどうでもいいことを思い出して火から目を離す悪い癖を持っている。それは今すぐやめるように。出来ないのなら料理などするな。さして旨くもないんだ。いまどきの弁当は旨い。お前もそれを食ってろ。それから、子ども達のしつけに関しても言っておく。お前は甘やかしすぎる。その態度のまま孫に接すると、間抜けな祖母として孫になめられるのでやめたほうがいい。お前はもともと威厳に欠けた顔をしているからな。それから、花の世話をしたがっていたが、はっきり言ってお前に花を育てる才能はない。皆無だ。水道代の無駄になるからあきらめろ。動物を飼うのもやめておけ。お前には荷が重過ぎる。

 最後に言っておくが、





「本当に最後なのだから、書いてくれたらよかったのに」


 残りの手紙も目を通したが、忠告する点ばかりが増えていき、最後の一言が書かれることはついになかった。

 つい恨み言を溢してしまってもしかたないと思う。


「私も」


 悔しいから言ってやらない。


おかしいな。

あらすじとしては、『夫婦・古きよき時代世代・夫の死後・書きなぐられた書きかけのラブレター・いくつも愛の告白の所で書くのをやめてしまっていた・不器用な人・子ども達は父の偉大な態度をいつしかただの頑固親父だと煙たがった・母がかわいそうだとも。いつも決まって微笑む母の寛大さに尊敬さえしていた。』って予定だったのになー。


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