4)明鏡の裏に佇む男
「ここにはもう未練などありませんよ。それは貴方の方がよく御存知ではないのですか?」
先王の葬儀が済んだ後、空っぽになった部屋の隅で、静かに語り始めた男の目尻には、過ぎた年月を思い起こさせる皺が何本も刻まれていた。
「お前には苦労をかけてばかりだな……」
改めて、目の前にいる愛弟子とともに潜り抜けて来た半生を振り返り、もう幾度となく繰り返し心の中で呟き続けた言葉をやはり、喉の奥に飲み込んだ。
「今の私に残されていることは、この子の行く末を見てやることです」
傍らに眠る幼子の髪を愛しそうに撫でつけながら、見下ろす男の目は、別人のように優しかった。
だが、その瞳の中に、並々ならぬ決意が込められていることを男は知っていた。
「この子には、ここだけが世界ではないのだということを教えてあげたいのです。人というのは、もっと 優しくて温かいものだということを。ささやかでもいい、自分で見つけた幸せの中でちゃんと両足を地に着いて歩いて欲しいのです」
それが大それた望みだなどとはどうか思わないで欲しい――そう言って微笑んだ男の顔は、すでに父親のそれだった。
その夜、独り、宮城の長い廊下を抜け自室へと戻った図書老師は、大きく切り取られた窓に浮かぶ月を見て目を細めた。
「今宵は確か十三夜であったな」
秋の夜は釣瓶落しの如く。季節が移りゆき、日に日に色濃くなってゆく秋の気配。日が落ちれば、随分と冷え込むようになった。老師は、椅子に掛けたままにしていた丈の長い上着を羽織るとゆったりとした足取りで外に出た。
闇夜に浮かんだ月は、澄んでいて、いつになく明るかった。半月より膨らんだ、だが、満月には足りない、その不完全な形。その歪さ故に心惹かるるとは、人の感性とは面白いものだ。この世の中に完全なものなどない。曇りなき理想は憧れにこそ成りはしても、指針にはなり得ない。
―――あれも、そろそろ着いた頃だろうか。
老師は、先日、颯爽と身を翻してこの地を後にした若くしなやかな背中を思い出していた。そして、そこから立ち上るように浮かぶのは、かつての愛弟子から託された養い子の顔。ほろ苦くも愛おしき、想い出の結晶。
―――あの子は、今日も笑っているだろうか。
人より感受性が強く、繊細で傷つき易かったが故に、無意識の内に幾重にも固い殻で武装し、必死になって自分を守っていたあの少年は、大人になって、それこそ、一見、見違えるように表情豊になった。だが、本当の所は、外見よりもずっと頑固で不器用なのだ。深淵に潜む核は変わらないまま、世間慣れした分、それを柔らかな微笑で隠すようになった。唯一の救いは、母君の残した竪琴だった。あの子は、一人静かに竪琴を奏でることで、崩れがちな精神の均衡を保ち続けていた。それは、恐らく、今も変わらないだろう。
久し振りの昔馴染みの訪問に、この老いぼれのことを少しでも思い出してくれたであろうか。老師は、夜空を振り仰いだまま、冴え冴えと振り注ぐ月光に目を細めた。