1)風のような男
「Messenger」のガルーシャを形容する時に使った「風のような男」というのは、元々、この話を書いた時に思いついたものでした。それ以来、温めてきたといいますか、頭の片隅に残っていたイメージ。
その男は、いつもふらりとやって来る。
ある朝、いつものように庭先にある井戸へ水を汲みに外に出た修理は、頬を撫で行った風に僅かに目を細めた。
秋の気配。まだまだ日中の陽射しは厳しかったが、着実に季節は巡っている。
ひんやりとした時の先触れに、ふと、ある男の顔が浮かんだ。
そろそろあの男が顔を見せるだろうか。
どこまでも風のような、掴み所のない男。
虫の知らせとでも言うのだろうか。別に何か特別な予知能力があるわけではなかったのだが、この予感だけは、これまで不思議と外れたことがなかった。何故だろう。無意識に発達した危機回避本能の現われとでも名づけておこうか。いや、それを認めるのは不本意極まりない。
だが、恐らく。多分、そうに違いないのだろう。なんと言っても、あの男が来ると碌な事が起きないのだ。それは、これまでの経験から裏付けられる歴然たる事実だった。ただ、今のところ、事前に面倒を察知しながらも、それを迂回することに成功した試しがないことについては、敢えて伏せておこう。
つらつらとそんな風に考えを巡らせていたことに気がついて、修理は不快げに眉根を寄せた。
いかんいかん。これでは朝から気分は最悪ではないか。
ずるずるとした後ろめたい記憶のあれこれを振り払うかのように、修理は木々の間から漏れる朝日に向かって顔を上げると、大きく伸びをした。
そう言えば、酒場を営むバール【白樺亭】のおかみさんが卵と鶏肉を分けてくれると言っていたな。後で貰いに行くとするか。さすれば今日は大御馳走だ。
嬉しい思いつきに口元を緩めたのも束の間、芋づる式に自分が作った食事を片っ端から平らげる大飯食らいのことが頭に浮かび、修理は苦いものでも噛んだように口の端を歪めた。
全く、どこまでも外さない男だ。狙ったような時機とはこのことを言うのだ。だが、朝からあんな奴のことをいちいち気に病むのは、これまでの経験上、ひどく莫加げていた。今日一日を過ごすのに精神衛生上甚だよろしくない。修理は気持ちを入れ替える様に水の入った桶を掴むと家の中へと運んだのだった。
簡単な用事を済ませ、街外れにある己が仮住まいに戻った修理は、出掛けの時とは打って変わって、両腕に抱えきれないほどの荷物を手にしていた。卵と鶏肉を貰いに街中の馴染みの酒場を訪うただけであったはずなのに、日頃、空いた時間に子供達の面倒――勉強の類だ――を見てあげたりしている所為か、あちらこちらでおかみさん連中に掴まり、道々、様々な土産を持たされてしまったのだ。並々ならぬ好意を重ねて辞退しようと試みたが、自分の好物である色艶のよい茸(立派なシラタケ)を最初に受け取ってしまったのが後の祭り。果たして人生経験の差か、性別の差か、
「いつもうちのどら息子がお世話になってるんですから。このくらいさせて下さいな、師。また、竪琴でも聴かせてくださいよ」
朗らかに歌うように笑みを浮かべて去って行く女達の逞しい感さえある後姿に気圧されてか、修理は、「ありがとうございます」と謝辞を返すのが精一杯だった。
見慣れたはずの家の前で、修理は足を止めた。一拍、呼吸を置き、息を大きく吸い込んだ。ここは街外れの片田舎。街道から少し離れた林の中にひっそりと隠れるようにして建つ山小屋のような小さなあばら家だ。普段は訪れる人もなく静かで、鳥の囀りや風そよぐ音が唯一の音楽というような場所だ。そのような中で、あまりにも場違いな雑音を耳にして、修理は暫し立ち竦んだ。
辺りの静寂を打ち破って中から聞こえてくるのは、ドスの効いた大きな鼾声。熊の咆哮のような獣染みた怪音は、忘れたくとも忘れられる筈がない。何の因果か、これまで幾夜、あの殺人的な重低音に悩まされたことだろう。どっと脱力すると共に、やはり当たってしまった今朝の予感に修理は例えようもなく可笑しくなって喉の奥を鳴らした。そして、腕に掛るずっしりとした重みをひとまず解放するのが先だと部屋の中に入った。
簡素な木の卓に卵やら肉やら茸やら野菜やらが沢山詰まった籠を置き、案の定、寝台の上で大の字になっている男の側へ足を忍ばせた。修理は、呆れ顔で相変わらず騒音を撒き散らしている原因を見下ろした。
この家の主が帰ってきたことは、その気配で分かっているだろうに。こうも堂々と惰眠を貪っているとは、けしからん。さては、狸寝入りだな。その問いを肯定するかのように不精髭が伸びた半開きの口からゴウと一際大きな怪音が漏れたのを合図に、修理は男の鼻をむんずと抓むと踵を返し、台所へ向かった。
仕方ない。そもそもあれを拾って最初に餌付けする形になってしまった己が悪いのだ。一度拾ったものは最後まで面倒を見る。それは修理の信条だった。街のおかみさん連中には好評な己の面倒見の良さが、いっそ恨めしいとでも言おうか。そんなことを思いながらも、無駄の無い動きで、いつもより多めの食事を作る自分が、修理は嫌いではなかった。
ふつふつと鍋の中で鶏肉と野菜の煮えるいい匂いが小さな部屋に充満してくると腹を空かせた熊がのっそりと起きてきた。
「おお、美味そうな匂いだな。そういや、俺、はらぺこだったんだ」
まだ寝足りなさそうな、のんびりとした声とともにいそいそと卓に着いた男を修理は呆れたように見遣った。
「……宿禰。それが開口一番に言う科白ですか」
「なんでぇ、修理、久し振りの再会だってのにつれねぇな。嬉しくねぇのか、俺がこうして遥々やって来たってのに。薄情な奴だな」
「人の留守中に寝台で大鼾をかいているだれかさんには言われたくないですね」
そして、今更のように男の様子をしげしげと見ると、小さく溜息を吐いて額に手を当てた。
「まずはその埃まみれの顔を洗ってきなさい。……それにしても、そのむさくるしい身なりは何なんです。もう少し何とかならないものですかねぇ。まるで追剥ぎか何かのようですよ。……後でまた報せがくることでしょうねぇ。怪しい風体の男がうろうろしていると」
ぶつくさ言いながらも慣れたように卓の上に二人分の椀や匙を出し、いつもよりは大きな鍋を目の前に置いてゆく修理の心遣いに、突然の闖入者は破顔した。瞬く間に、切り分けられたパンやチーズ、茸のサラダが、独り住まいの大きくはない粗末な卓を埋めて行く。それを横目に見ながら、宿禰は言われた通り顔を洗いに立った。
熊男が戻ってくると、早速、次の指示が主から飛んできた。
「宿禰、そこの水差しに水が入っていますから取って下さい。それから椀も」
働かざる者食うべからず。ましてや馳走になる相手には逆らわない。それくらいは宿禰も弁えていた。
「へいへい。なあ、修理、酒はないのか? 前に飲んだ葡萄酒は美味かったぜ」
金属製のカップを手に、慣れた様子で戸棚を物色している大きな後姿に、
「きみに飲ませる酒など置いていません。こんな日の高いうちから何寝ぼけたこと言ってるんですか。酔っ払いは御免ですよ」
過去に苦い経験のある修理は、ぴしゃりと言い放つことで友の願いを却下した。が、ふと思案して、付け足すように微笑んだ。
「そこの薬草水で我慢なさい」
心当たりがおおいにある当の本人は、その声にすごすごと戻ってきた。
―――薬草の入った水はきみの好物でしょう?
修理の声の響きには、そんな優しさが滲み出ていて、突然の訪問客もさりげなく差し出される様々な心遣いを無駄にする気はなかったからだ。
あれは前もって自分が来ることを承知していたという顔だ。この御馳走もそのために違いない。いつも前触れもなく、突然訪れるのに何事もないような顔をして自分をもてなしてくれる友に、宿禰は、以前、不思議に思って問い質したことがあった。何故、自分が来ることが分かっているような顔をしているのかと。
その問いに修理は可笑しそうに笑って、肩を竦めて見せると穏やかに口にした。
「知りたいですか? ふふふ、きみが下手にでるなんて、天変地異の前触れですかね」
「うるせぇ。こら、茶化すな。こちとら真剣なんだぞ」
「はいはい」
ひとしきりはぐらかすように肩を揺すった後、窓の外を眺めながらのんびりと修理は言葉を継いだ。
「―――風が知らせてくれるのですよ。自分でもよく分かりませんが、いつもと違う風の匂いにそんな予感がして……。困ったことに、これまで何故か外れたことがないんですよねぇ」
こちらを横目で見て、少し呆れたような、それでいて楽しそうな顔をしながら、すらすらと紡ぎ出された答えは、不可解で雲を掴むような気持ちになったのを宿禰はよく覚えていた。
「図書殿はお元気でしたか?」
鍋の中身が半分以上減った時点で、修理はなるべくさりげなさを装いながらも用心深く言葉を選び、遠く離れた首府に暮らす老師の安否を尋ねた。修理にとって図書老師は、父親のような大いなる存在だった。彼の庇護下で過ごした数年は厳しくも温かく、安らぎに満ちた時間で、今でも昨日のことのように思い出すことが出来る。宿禰がここを訪れるのは大抵、老師からの依頼と決まっていた。
「ああ、相変わらずの狸じじいだ。俺を散々こき使いやがって」
その言い様に修理は小さく笑いを零した。
「きみを顎で使えるなんて、この国中広しといえども図書殿ぐらいでしょうね」
宿禰の口の悪さは昨日今日のことではないので、修理としては別段気にすることはなかった。投げられる悪態の数々には驚くほど毒がないのを知っているし、宿禰の場合は、その根性が人より捻くれている所為で、素直な気持ちも何故か斜め七十三度の角度で含むものある言葉に変換されてしまうからだ。
「……言伝を預かってきた」
宿禰は低く口にすると、それまでの軽薄な印象が一遍に払拭されたかのような真剣な眼差しで修理を捕らえた。目の色が変わるだけで、これほどまでに身体に纏う空気が変化する男も珍しいだろう。
誰からとは問わずとも分かっていた。宿禰はその筋では信頼足る口の固い男だ。余計なことは一切口にしない。彼が直接ここにやってきた事実を修理は重く見ていた。
やれやれ、また、面倒なことにならなければよいのですけれどね。修理は内心溜息を吐いた。
この男がもたらす依頼には、いつも何かしら思いもよらない「おまけ」がついてきた。その内容はその時々によって違うが、これまで修理にとっては厄介としかいいようのないことばかりだったのだ。
さてさて、今度は何が待っているのやら。修理は内心げんなりしつつも諦めたように微笑むと自分の椀にお代わりをよそった。
戦の前の腹ごしらえ、古今東西、これ肝要なり。面倒だ、厄介だと言いつつも、心のどこかで、今の平穏な日々の暮らしが決して揺るぎの無い土台の上に成り立つものではないことを知らしめてくれる機会を修理は有り難く感じていた。不定期なこの友の訪問は、現実を忘れない為の戒めをも果たしているのだ。
「きみもどうです?」
普通の人間なら、この身を取り囲む空気が瞬時に変わった時点で、身を竦ませるのが大体の反応であるのに、目の前の修理は穏やかな笑みを絶やすことなく、実に飄々とした口ぶりで、どんなに真剣な話しの切り口もするりと食卓の団欒の中に馴染ませてしまう。
そうそう、こいつはそういう奴だった。久し振りに思い出したこの感触に、宿禰は声を立てて笑った。
肩の力を抜いて、余計な労力は一切使わない。世の中を遠巻きに眺めて、当たり障りの無い穏やかさと優しさの中に、この男は本当の自分を隠している。かれこれ修理とは長い付き合いになる宿禰ですら、その中心に到達した試しは殆ど無いのだ。何事にも動じない、真に腹の据わった男とはこういう輩のことを指すのだろう。
すっかり毒気を抜かれて、元に戻った柔らかな空気に苦笑しながらも宿禰は空になった自分の椀を差し出した。こうなるともう修理の方からの出方を待つしかなかった。
食事を終え、不本意ながらも後片付けを手伝わされて、宿禰が食後のお茶を手に窓際の長椅子で寛いでいると、茶碗を手にした修理がやって来て、反対側の端に腰を下ろした。
暫く無言のまま、開け放たれた窓から指し込む陽射しに眼を細めた。やがて、小さく吐き出された息と共に修理が徐に切り出した。
「さて、一息ついたところで用件を伺いましょうか」
宿禰はその言葉に促がされるようにして背中に括り付けていた包みを引き寄せ、紐を解くと中から小さな文箱を取り出した。
「これをある男の元に届けて欲しいそうだ」
続いてその男の名と所在地が告げられた。
落ちた沈黙に、窓から吹き込んだ秋風が二人の髪を揺らした。
「一つ、いいですか?」
目の前に差し出された文箱を見ながら修理が問うた。
「ああ」
「何故、私に?」
「そいつは、あのじいさんに聞いてくれ。俺はこの後、別の用事を言いつかってるんだ。全く人遣いが荒いぜ」
単に速さを優先するだけならば、体力も脚力も自分よりは遥かに勝る宿禰の方が適任と言えた。それを十分承知の上で、自分に使いの役をさせるのだから、今回は修理自身が行くことに意味があるのだろう。老師は昔から無駄な布石は打たぬお人だ。それは、かつて彼の側にいた修理自身がよく分かっていた。
修理はふうと小さく息を一つ吐いた。
「では、もう一つ。きみはこの箱の中身を知らされていますか?」
宿禰は否と頭を振った。
それだけ聞けば十分だった。
「なるほど。分かりました。他に何かありますか?」
そう言った修理に、宿禰は何かを思い出すように首を捻った。
「んー? ああ、そう言えば、たしか、そいつ、じいさんの昔の弟子だって言ってたな」
老師の昔の弟子。何故かその言葉に、ざわりと胸の奥が波立った。だが、その理由を今ここで深く考えるのは止した方がいいだろう。問題は、そのようなことではないのだ。
修理は面を上げると、先程よりは真剣な面持ちで宿禰を真正面から見据えた。
「そうですか。では、この役目、確かに承ったと図書殿に伝えてください。明日には立ちます」
「……お前、その場所、知ってんのか?」
宿禰は、あまりにも潔すぎる相方の返答に僅かに片眉を上げて見せると、口の中で、もう一度その依頼先の地名を呟いてから、確かめるように尋ねた。
「ええ」
自分でも嫌になるほど、十分に。だから老師は、私を選んだのだろう。
宿禰は迷いのない修理の言葉に口の端を上げると、太い腕を前方へ伸ばし、相手の柔らかな髪を態とにぐしゃぐしゃとかき乱した。
それが契約成立の合図だった。
言葉を変えれば、初めて会った時から続いている一風変わった宿禰なりの激励の仕方。手付きはかなり乱暴だが、紡ぎ出される言葉よりも雄弁な大きな温かい掌の感触を修理は気に入っていた。無論、そのようなことは本人の前では口にしたことがなかったが。
そして、いつものようにぐしゃぐしゃになった髪のまま、修理は宿禰の腹に返すように拳を打ちつけた。
思いついた情景を切り取るように文章にしてみただけなので、このお話にこれと言ったプロットはありません。なんだか舞台裏を晒すようですが、この時のイメージが、「Messenger」の根底にはありました。手紙を預かって、それを届けるという形です。