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3.残業手当は出ていない 【承】

 その日は、とても懐かしい夢を見た。幼いあたしは、誰かに手を引かれて夕暮れの田舎道を歩いている。よく小説や漫画で見るような普通の光景だ。幼いあたしを見てみると、陽気に鼻歌まで歌っていたから、何か嬉しいことでもあったんだろう。手を引いている人が柔らかく微笑んであたしを見る。そういえば、この人って誰だっけ。

 まぁ、いいや。どうせ夢なんだし、あたしの中に眠る潜在的存在がどうのこうのと、そんな話にでもつながるのだろう。普通の夢診断ならそんな結果が出るはずだ。

 そんなことを考えるあたしなんか目も向けない幼いあたしのすぐ側を赤とんぼが飛び、幼いあたしは繋いでいる手を振り払ってそれを追いかける。


「待ってー」


 赤とんぼは一生懸命に追いかけるあたしを嗤うように、不規則な動きで前へ前へと飛び続けた。あたしはそれがとても悔しくて、必死になって手を広げて捕まえようとする。赤とんぼを捕まえたら、褒めてもらえるだろうか。誰に、とまでは思い出せないが、そのためには全力を出して頑張ろうと思えた。

 もう少しで、届きそうだ。思い切り両手をばちんと合わせると、何かの潰れる音と感触がする。ゆっくりと閉じた両手を開くと、羽がもげて動かなくなった赤とんぼが、そこにいた。


「……死んじゃったぁ」


 ぴくりともしない赤とんぼを、じっと見つめる。そこで、あたしの手を引いていた人物が追いついたのか、あたしの頭を優しく撫でた。その掌の温かさに顔を上げると、さっきと変わらない笑みを浮かべているのが分かる。

 言葉こそなかったが、埋めてあげなさいと言われたような気がして、あたしはそっと赤とんぼを地面に置いた。両手で地面を浅く掘って、その穴に赤とんぼを入れる。そして、土をかけて軽くぽんぽんと手で固めた。

 死んだ虫に墓を作って埋める。そんなことはいたって普通のことなのに、何だか凄く悲しくなって幼いあたしは思わず泣きじゃくってしまう。赤とんぼが動かなくなって悲しいのか、それともつまらなくて泣いているのか。そのどちらとも判別が付けられず、ただ泣いていた。

 幼いあたしが泣いている内に、ふと意味を持った言葉が零れ落ちる。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 自然と零れたその言葉に、本当はずっとこの言葉が言いたかったのだとあたしはやっと理解した。そうだ。あたしのせいで死んでしまったんだ。きっと幼いあたしは、この赤とんぼに対して謝りたかったのだろう。

 でも、それなら今のあたしは、いったい何に対して謝りたいのだろう。この赤とんぼにだろうか。それなら、昔のあたしにこの赤とんぼに何らかの記憶が残っていても良いと思うんだけど、別にこれといった思い入れはない。


「お兄ちゃん、ごめんなさい」


 幼いあたしが呟いた言葉に、はっとなる。あぁ、そうか。あたしは、兄に謝りたかったのか。

 でも、どうしてだろう。兄はもう今はいないのに。あたしは兄に何かしたんだろうか。もしかしたら、この赤とんぼは兄の大事な虫だったのかな。それなら謝って当然だろう。

 だけど、幼いあたしはそんなことを考えるあたしに構わずに、さらに大きな声で泣きじゃくる。


「お兄ちゃん、忘れてしまったの。ごめんなさい」


 あたしは、いったい何を忘れてしまったのだろう。何か、大事なことを忘れたような、それでいて何も忘れていないような気がする。

 そういえば。幼いあたしの手を引いていた人の顔は、どんなものだっただろうか。何度も思いだそうとして、いつも柔らかな笑みを浮かべていたということしか思い出せない。もしかすると、あれがあたしの兄だったのだろうか。


「あたしは、普通にならなくちゃ。でも、それで忘れてしまうの」


 何度もしゃくりあげるあたしの泣き声。その顔は、涙という涙で濡れている。



「お兄ちゃん、忘れたくないよぉ」



 幼いあたしは、呂律のまわらない口で、それだけを何度も何度も繰り返し叫んでいた。それをどこか遠くから聞いているあたしも、何だか泣きたくなってしまい、ぐっと下唇を噛んで堪える。



「あたしは、あたしは」



 その瞬間に幼いあたしは何かを叫んだようだが、甲高い音であたしはその世界から引っぺがされてしまった。






「夢、かぁ」



 あたしを夢から呼び起こしたのは、見慣れた目覚まし時計だ。時計の針は朝の七時を指している。これもよく見る光景だ。

 そういえば、いつもと違うこととは、夢の中で「普通」がどうのこうのと考えていたような気がする。

 夢で言っていた「普通」って、どういう意味だったんだろう。周りにいる人たちをよく見て、同じことをして。友達と一緒に遊びに行ったり、宿題を手伝ったりといった意味合いで、友達としての「普通」のことを指していたのだろうか。それとも、家の門限を守って家事の手伝いをしたり、たまに親とも口喧嘩したり、仲良くどこかへお出かけしたりするのが家族としての「普通」のことを指していたのだろうか。

 あたしはその「普通」であろうとして、努力してきた。今ではどうして「普通」であろうとしていたのか理由すら思い出せないけれど、模範的な女子高生をやってきたと思う。

 これといって目立ったこともしていないけれど、成績だって悪くない。背丈だって女子の平均より少し高いだけだ。あたしは、「普通」という窓枠から良くも悪くも全くはみ出していない。そう、みんなと同じ筈なんだ。お喋りでもないし、大人しいというわけでもない。やんちゃだった幼い頃よりかは大人しくなったけど、比較的にみれば活発な方だと思う。



「夢の中であたしは、何が言いたかったのかな」



 いつもと違う今日だといってもそれ以上のことは満足に思い出せず、いつもの普通の日常が始まろうとしていた。

 そういえば、昨日はあたし、学校の準備もせずに寝てしまったんだっけ。今日の時間割は何だったかな。まずい。こういう時こそ慌てずに準備をしなくちゃ、忘れ物をして購買室へ走る羽目になっちゃう。

「あ、宿題も忘れてた……やば」

 数学の問題演習と、英語の教科書の翻訳に古文の現代語訳をするページは何度見返しても真っ白のままだ。これは流石に怒られてしまう。


「何で寝ちゃってたんだっけー。……あ」


 思い出さなくても良いことまで、思い出してしまった。たしか昨日はあの噂話の開かずの踏切まで見に行って、あたしだけ変なものが見えてしまったんだっけ。

 真っ赤なマフラーに、あの真っ黒な虚ろな瞳の、男の子。あの目を見たとき、自分が飲み込まれてしまうのではないかと錯覚してしまった。何とか家路についたものの、家の前で、またあの男の子が現れて、「もう来るな」といったようなことまで言われた。

 言われなくとも、もう二度とあんな所には行きたくない。

「あー、もう。忘れよ、忘れよ!」

 頭を大きく左右に振って記憶の中から抹消しようとする。すると、視界の隅で、何か黒い影がもぞりと動いたような気がした。

「え!?」

 恐怖のあまり勢いを付けて部屋の隅を見てみるが、やはり何もない。だめだ、だめだ。何だか疑心暗鬼になっているみたいだ。こんなことでは、友達にまた「変だ」とからかわれてしまう。

「……忘れよう」

 何だか、夢のことがとても大事なことのように思えて仕方がないが、思い出せないものは思い出せない。それなら諦めてしまうのが早いだろう。そう思った途端に、またどこかで黒い影が揺らめいたような気がした。

「……お母さーん」

 何だか不気味に思えて、さっさと自室を飛び出す。気のせいかもしれないが、忘れるという単語を使ったときにだけ影が動いているような気がして、気味が悪かった。






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