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2.最初のお仕事 【結】

「ふぅ……」


 目を覚ますと、まだ深夜だった。壁の時計を見ると、時計の針は午前四時を差している。何だか妙に眼が冴えてしまい、徐に上体を起こす。まだ体は気怠いだが、眠気はどこかに吹き飛んでしまっていた。これでは今日の仕事に差し支えてしまう。明るくなってきたことだから外に出て、その辺りを散歩しよう。面倒臭がりな自分にしては珍しくそんな案が浮かんだ。

 ベッドから立ち上がり、防寒対策に赤いマフラーとコートを羽織って外に出る。柔らかく吹いている風が心地よく、辺りは耳が痛いほどの静寂に包まれ、重々しい鉄紺色から瑠璃色へと変わった空が続いていた。僕の家の近くには河原があり、足が自然とそちらの方へと向く。

「久しぶりだなぁ……。こんな明け方に散歩だなんて」

 初めて一人暮らしをすると決まったときは、気分が高揚して、しばらくの間はこうして早朝に散歩をしていたものだ。会社に勤務して十年ほど経つと、当時の新鮮さは感じられなくなり、ただ何とか日々を乗り越るだけのものになってしまっていた。



 どこで僕は道を違えてしまったのだろう。この道は、本当に僕の望んだ道なのだろうか。僕のやりたいことは、諦めなければならない、絵空事でしかないものだったのだろうか。僕の夢は、叶うことのない夢でしかなかったのだろうか。そもそも、僕が描いていた夢とは、何だっけか。

 それを確かめる術は、もうどこにもない。僕は、何も疑わずにこの道を進むしかないんだ。このどこまでも真っ暗闇で多くの人々が通る、冷たいコンクリートの直線を、他の人々と同じような速度で、同じような顔で、同じような思いで歩むしかないんだ。


「……そんなものなのかなぁ」


 成功者は、生まれつき成功者なんだ。僕のような人間は、遠くから眺めるしかない。成功者とは、素材からして違うんだ。

 成功者は、成功する素材を生まれながらに持っていて、それに早く気が付いた人間のことなんだ。気付かない人間は、最期まで気が付かない。ここは、そんな風に出来ている、虫かごだ。



「仕方ない」



 何度そう呟いて、自分に言い聞かせたことだろう。僕の長所は、諦めの早いとこだ。だから、高校で人間関係の虚しさを悟ってからは、いろいろと諦めるのは早かった。どうしようもないことなんて、世の中にはたくさんある。それが真理なんだ。

 それから僕は、人生を捨ててしまっていたような気がする。何もかもに嫌気が差して、うんざりしながらも大学に行き、あいつに出会った。


「……あれ。あいつの名前って……何だっけ」


 あいつは「神童」というあだ名で呼ばれることが多く、僕も実際にその通りだと思った。だが、あいつはそのあだ名で呼ばれることを嫌い、僕がそのあだ名で呼ぶと、ひどく怒ってきた。僕もあいつを不快にさせたくないからあまり呼ばなかったけれど、今でもあのあだ名はあいつにぴったりだと思っている。

 不思議なことに、いつの間にかあいつの名前や顔も思い出せない自分に、はたと気が付いた。一体どうしてだろう。僕はあいつを心の底から尊敬して、羨んで、少し憎んでいるというのに。何度思い出そうとしても、靄がかかったようにあいつの声や顔や名前が、海馬の底から浮かび上がってこない。いつの間にか、僕はあいつのことを無意識で避けるようになってしまったのだろうか。僕とあいつは、所詮その程度のお友達だったということか。

「……ははっ」

 そこまで考えて自嘲気味に鼻で笑い、冷たいものが頬を伝っていることに気が付く。どうやら僕は、また泣いていたらしい。小さく舌打ちをして、乱暴に袖で涙を拭う。そして、自分で口にしたかどうかも分からない声量で呟いた。

「何でだろうな」

 何度も拭えども、涙は止まる気配は見せない。次第に河原を歩いていた足が止まり、その場に立ち尽くしてしまった。歩くことには、もう疲れた。止まって休みたい。明け方に誰も通っていないことをいいことに、僕はそのまま膝を折った。





 今まで歩いてきたのだから、もうそろそろ止まっても許されるだろう。今まで僕は僕なりにここまで歩いたんだ。一度も休むことなく、ここまで来た。僕の意思で、先の見えない道を、ずっと同じペースで。もう僕の後ろには、いい加減に足跡やら何やらが残っているだろう。

 しかし、勇気を振り絞って振り返ってみても、冷たいコンクリートには僕の足跡なんて残る筈もなく、ただ人工的に造られた道しかなかった。滲んだ視界を前に向けても、何も変わらない。やはりそこには、無機質なコンクリートが遠い先まで敷かれているだけだ。

 僕は小さく溜息を吐いて、涙が早く乾くように瞬きをいつもより多くした。泣いても何も変わらない。当たり前のことだ。

 僕がいてもいなくても、この虫かごは何も変わらない。ただ、ゴミが増えるか減るか、というだけだ。僕の存在意義など、あってもないようなものと同じで、探すことなど無意味でしかない。


 そうやって今日も僕は自分に言い聞かせる。そうすれば、涙が止まることを僕は知っていた。


 僕は湿った目を擦って、立ち上がる。そして、鈍く光る朝日に背中を押されながら、無限に思われる時間を過ごすために、再び歩き始めた。






 昨日とまったく変わらない赤信号の前で立ち止まると、一匹の猫が目の前を通り過ぎて行った。早朝で車通りが少ないことを知っているのか、猫はのうのうと歩いていく。何とはなしに見ていると、突然けたたましい音が右の耳から入ってきた。

 慌てて音がする方を見ると、僕の倍もある大きさの大型トラックが、一瞬にして目の前までに迫ってこようとしていた。そういえば、少し先には猫が通っていたはずだ。

 あぁ。だからこのトラックはこんなにも大きな悲鳴を上げているのか。

「……助けなくちゃ」

 どう考えても、あの猫をこのトラックが轢いてしまうことは想像に難くない。




猫を、助けなくちゃ。



そう思った瞬間、僕の身体は赤に変わった横断歩道に飛び出してしまっていた。








猫が、一声だけ泣いたような気がする。

それが、僕の聞いた確かな最後の音だった。









 気が付くと、視界は赤かった。ぴくりとも動かない腕の中には、ぐったりした猫の体温と、僕の体温が混ざりあって変な温かさがある。やがて猫がもぞりと動いた。どうやら猫は助かったようだ。

 猫が身震いして、僕の腕から抜け出す。そして申し訳なさそうに、ざらざらとした舌で僕を舐めると、僕の視界から消えてしまった。

 視界は赤いままだったけど、やっと僕が道路に横たわっているのだろうということは分かってきた。分かったところで、もう僕は動けない。酷い痛みが徐々に感じられなくなり、意識もぼんやりし始めた。


 このまま二度寝してしまっても、いいかもしれない。僕の休日は、大半が二度寝で潰れてしまう。たまにはそういう日があっても、良いような気がしてきた。ようやく眠気もやって来たことだし、このまま会社に行く前に一眠りするのもいいかもしれない。


 もう、このままゆっくりと休みたかった。体も死ぬほど痛いし、目もだんだん開かなくなってきた。もう、いいじゃないか。会社には、有給休暇を申し出ていないけど、それも仕方がない。猛烈に今は眠気が襲ってきているのだから。

 僕は十分にこの道を歩いてきた。この冷たいコンクリートを、ずっと不平は言えど外れることなく歩いて、十人並に生活して、笑って、泣いて、悩んだ。もうこの辺で、いいだろう。いつだって僕は自分で、幕を引いてきたんだ。これでつまらない、とりとめもない僕の物語は、終わりだ。

 僕は、一度だって幕の引き方を忘れたり、間違えたりしなかった。もう、いいんだ。




心残りがあるとすれば、あいつの名前が思い出せない、ということだ。

最期なんだから、思い出したっていいだろうに。




『井出はいいやつだよな』





今はもう名前すら思い出せない、あいつが笑ったような気がした。

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