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2.最初のお仕事 【転】

 あの少年が去ってから、いつもと変わらない日々が流れて一週間が経った。仕事を終えて、がちがちに固まってしまった首を傾げてほぐす。そのときに嫌に重い音がするのも、いつものことだ。

 不意に背後から同僚の声が聞こえる。

「おーっす。おつかれだな、正広」

「なんだ、お前か」

「私が神だ」

「お前だったのか」

「暇を持てあました」

「神々の」

「遊び」

 話しかけてきたのは、僕の同期である石川だ。入社してからは、同じ部署ということもあり、こいつと行動を共にすることが多い。

 石川という男は、少し茶目っ気があり、周囲とはやや違った見方をする、変わり者だ。石川は元来そういう性格らしく、周囲に敵を作りやすい。そういうことで、石川はよくこの朴念仁の僕の周りに来ることが多かった。普通に接していれば、居心地の良い奴だと僕は思うんだけどな。

「お前、今日はもう上がりか?」

「あぁ」

「珍しく残業じゃないのな」

「なんだよ、それ」

 はははと笑うと、石川は眉間に皺を寄せて「正論だろ?」と文句を言う。僕は適当に相槌を打って、帰り支度を始めた。

 石川はどうにも正論ばかりを口にするから、周囲からは「空気が読めない男」と評判が立っていた。石川自身はその性格を変えるつもりがないらしく、そのまま我流を貫き通している。僕は石川のそういう意思の強い部分が、好きだ。思えば、あいつと似たような部分があるからなのかもしれない。

「じゃあさ、今日は一緒に飲みに行かねぇか?」

「あー……ごめん、昨日飲んだばっかでキツイんだ」

「んだよ、付き合い悪ぃなー」

「ごめん、ごめん。また後で埋め合わせはするからさ」

「絶対だからな!」

「はいはい」

「それじゃ、一緒に帰ろうぜー」

 当然のごとく僕と並んで一緒に帰ろうとする石川に、僕は学生時代の思い出を重ねて見た。友達と一緒に帰るだなんて何年振りだろう。僕は比較的に言えば決して友達が多い方ではなかったから、学生時代にあまり楽しかった思い出はなかった。あいつとの時間を除いては、ほぼ皆無に等しい。

 友達と他愛もない世間話をしながら、帰路に着く。一人で帰るよりも、帰る時間はあっという間に過ぎて行ってしまう。おかしなものだ。

 夜の闇に信号機や看板の明かりが目立つ最中、ふと目の前の横断歩道の隅に目が行った。何かが道路に蹲っている。暗くてよくは分からないが、どうにも見ていてあまり気分の良いものではない。ふいとそれから視線をそらして、目のやり場を探す。

 何とはなしに見上げると、信号機は点滅していて今にも赤に変わりそうだった。だが、走って間に合わせようという気持ちは一つも湧いてこない。

「あちゃあ。……こりゃ渡れねぇな」

 隣の石川が、アヒルの泣き声によく似た声を上げた。僕が歩みを止めると、石川も立ち止まって、つまらなさそうに爪を噛んでいる。この横断歩道を渡って右に曲がれば、誰もいない我が家だ。

 出迎えてくれる人もいなければ、温かいご飯など用意されていない、狭くて暗い我が家。せめて恋人でもいれば違ってくるのだろうが、かなしいことに、僕はそんな存在を作る気にすらなれないでいる。これがモテない男の代表者たる所以だな、と自嘲してみた。その笑みに石川は怪訝な顔を見せたが、すぐさま元に戻る。

「じゃあ、今度また誘ってくれよ」

「お前のおごりでな」

「ばーか」

 石川は再び少しだけ眉間に皺を寄せたが、すぐに笑って曲がり角を左に入っていった。僕も気を取り直して、右に曲がる。

 すると、目の前を風が通り過ぎて行った。強い風が、僕の右頬を撫でる。風の出所を目で探そうとするが、暗闇の中ではっきりと分かるはずもなく、僕は首を傾げる。一体、先程の風は何だったのだろう。

 あの少年と会ってから一週間というものの、僕の身の回りにはさまざまな怪奇現象染みたことが次々と起こっていた。誰もいないのに何かが落ちる音がしたり、信号機の下に何か黒い影のようなものが立っていたり、誰かの視線を感じることもある。これだけだとただ気味が悪いのだろうが、恐怖心はない。正直に言うと、「またか」ぐらいの気持ちだ。自分でもなぜそう思うのかは分からないが、嫌な感じはしないから放っている。

「ただいまー……」

 ほぼ日課となっている独り言は、最近では寂しいとも感じなくなってきた。何かを喋っていない方が、落ち着かない。ここ最近ずっとそうだ。無意識に何かに癒しを求めているのかもしれない。今度の休日にでも、何か生き物でも飼ってみようか。

「さてと」

 道中で寄ったコンビニで買ってきたものを机の上に一つ一つ並べていく。すると、また部屋の隅で暗闇が少しだけ動いた。そんな気がするだけだから、本当は何も変わっていないのかもしれない。こういった些細なことは、もう気にしないようになってきた。

 今日は何だか少しだけ気になったから、その動いた影に向かって、箸を向けた。

「弁当、食う?」

 返事はない。当たり前だ。しばらくして何も起こらないことに安堵し、テレビの方向に向き直ろうとする。その直後、影が少しだけ揺らいだような気がした。

「!?」

 慌てて振り返るが、そこにはやはり何もない。無機質な壁と薄闇があるだけだ。そのことに、少しだけ落胆して、冷え切った白飯を口の中に放り込んだ。

 今日の弁当は、いつもより奮発して牛丼だ。ただ胃の中へと押し込める作業を終えると、ベッドに横になる。明日も、何一つ変わらない日常だ。あと何年これを繰り返せば終わるのだろうか。近頃こんな答えのない自問自答をすることが多くなった。僕も年を取った、ということだろうか。

 いつもこんな不毛なことを考えては、すぐに飽きて寝てしまうというのが常だが、今日は訳もなく眠れずに、ぼうっと何もない天井を眺める。

 すると、いつの間にか飽きてしまったのか、僕は意識を手放してしまっていた。それも、いつものことだ。




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