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2.最初のお仕事 【承】

まだまだ稚拙な文章ですが、お暇つぶしにどうぞ。

 狭くて暗い社宅の階段を上り、玄関前に着いた。

「どうぞー。汚い部屋だけどさ」

「あ、あの、何でそこまでしてくれるんですか……?」

 浩君は家に上がろうとして、玄関先で立ち止まっている。これは完璧に警戒されているな。たしかに普通に考えればおかしな話だ。深夜に徘徊していた怪しげな少年を保護するなんて、僕にメリットがない。少年にとって、今はありえない状況にあるわけだ。

 その警戒心を解いてもらうために、あえて素っ気ない素振りをしてみせる。実際に僕自身が何も考えていなかったから、あえてというのもおかしいかな。

「こういうのもおかしいと思うけど、深い意味はないよ」

「え?」

「ただ、今日はもう遅いから警察に連れて行かれるのも、かわいそうだなーって思っただけだしね。まぁ、単なる自己満足みたいなもんさ。気にしなくて大丈夫だよ」

「……そう、ですか」

「最近コンビニ弁当しか食べてなかったからなー。……カップ麺でもいい?」

「あ、はい」

 訝しげな表情をするも、浩君はやっと靴を脱いで僕の真向かいに座り込んだ。足でその辺りに散らばっているものを適当に端に寄せて、お湯を入れたカップ麺を二人分持ってくる。

 こうやって人と話しながらご飯を食べるのは久しぶりな気がする。飲み会ではまともに話したことがないから、的外れなことを言ってしまいそうで怖いが、少しだけ楽しい。

「はい。三分待ってー」

「どうも」

「いやいや。正直な話、何だか君のことが放っておけないって思っちゃったからさ」

「どうして?」

「……どうして、だろうね。僕にもよく分からないんだ」

「おれはありがたいですが、おれを助けることにメリットなんて一つもありませんよ?」

「いいんだ。別に、それは。まず、この冬空に半袖の浩君に何かを求める方が、どうかしてるよ」

「……変な人ですね、井出さん」

「よく言われる」

 鋭い指摘に、力なく笑って見せる。この子は、あまり遠慮なく真実を突いてくるようなタイプなのかもしれない。そんなところまで、あいつとそっくりだ。

「あ。三分経ったから食べようか」

「い、ただき、ます」

 よほどお腹がすいていたのか、浩君はいきおいよくカップ麺をすすり始める。もう僕のことなど意識のうちに入っていないのではないかというほど、真剣な表情だ。浩君の家ではあまりご飯を食べさせてもらえなかったのかもしれない。それとも、浩君は見た目によらず大食いなのかな。何にせよ、こうしてがっつりと食べている姿を見るのは、何だかいっそ清々しかった。

「そういえば、浩君って今何歳?」

「……ちゅーらく、あはっはばっはれす」

 どうやら、中卒のようだ。

「そっか……君、何となく僕の学生時代の友人に似てるんだ」

「……?」

「僕の大学時代に、とても無愛想だけどうまが合う友達がいてね。よく一緒に遊んでたんだ」

「…………」

 浩君が食べ終わったのか、残り汁をすすりあげ、じっと僕の方を見つめてきた。浩君の瞳は先ほどとは打って変ったように無邪気だ。まるで幼子のように不思議そうな顔で僕を見つめ、口を引き結ぶ。どうやら癖のようだ。

 僕はすっと浩君から視線をそらして、浩君の背後にある壁を見つめた。これ以上、浩君の瞳を見つめていると、僕の中の何かが溢れて壊れてしまいそうな気がしたからだ。僕は、やはりここでも弱い。

「いつものあの食堂で、僕たちは大喧嘩して、お互い別の人生を歩み始めたんだ。……あいつは専門の分野に入って、僕は……」

「井出さん、部活してたんですか?」

「タメ口でも構わないよ。いや、もうむしろタメ口で話してくれ」

「はぁ……」

「僕らは、研究生だったんだ」

「研究生?」

「あぁ、あいつはそのまま院生として残って、僕は身近な会社に就職したんだよ」

「あいつ。……院生って?」

「院生、っていうのは、おおざっぱに言えば、四年制大学からさらに二年間、大学で学ぶ人たちって言えば分かるかな?」

「……はぁ」

 浩君が腑に落ちない顔で一度だけこくりと頷く。その様子を見て、僕はいつの間にか日常的になってしまった、眉を下げた笑顔を向ける。

「あいつは先生の研究をやり遂げて、学者になって、メディアにも取り上げられるほどの人になって、僕は……しがない会社員だ。笑っちゃうよな」

 そうだ。あいつは博士になって、僕はサラリーマンだ。同じ道を歩んでいたはずなのに、あのとき別れてしまったから、僕はこうして日の当たらない部屋にやって来た。あいつは日の光を浴びて好きな研究を続けて、花を咲かせた。僕は「それでは僕は花を咲かせられない」と勝手に決めつけて、あそこから飛び出したんだ。

 もしも、あの日に戻ってやり直すことができるなら、絶対に今のような後悔ばかりを繰り返す日々を送らずに済んだだろう。どうしてあのときの僕は、一時の感情で流されてしまったんだろうか。どうして物事がうまく進んでくれないのだろう。今の僕が選んだ道は、あのときの僕が望んで進んできた道なのに。



どうして。



 はっと我に返って浩君を見ると、浩君は複雑そうな顔を僕に向けたまま、身じろぎ一つもしなかった。僕は急いで湿った雰囲気を吹き飛ばすように笑いかける。どうやら僕は、見ず知らずの他人にまで弱みを見せるまでに参っているようだ。

「ははは。浩君には関係のない話だったか」

「おれが、その人に似てる?」

「あぁ。ちょっと思い出すぐらいにね」

「……おれ、大学とか行ったことないから、羨ましいな」

「え?」

「おれの家、高校に行くお金とかないから、働かなきゃいけないんだ」

「そう、だったのか」

「……そ、れで、家出したっていうか……」

 浩君はそこまで言うと、極まりが悪いように僕から目をそらして絨毯を見つめる。浩君の方が、もしかすると、僕よりも厳しい家庭環境にあったのかもしれない。きっと僕よりもつらいことが多かったのだろう。だとすれば、僕はなんて独りよがりを話してしまったのだろうか。恥ずかしく、申し訳ない。

「何というか……ごめんよ。変な話を聞かせて」

「いや、その、……大学の話を聞けてよかった」

 浩君はそう言って、小さく微笑んだ。ここにきて、ようやく浩君の笑顔が見られて、僕は心底安心した。あまりにも表情が乏しいから、何かそういった障害があるのかと思ったが、どうやら違っていたようだ。本当に、良かった。

 ただ、この浩君の笑顔はぎこちないもので、僕はなぜかこれを「にせの笑顔」だと認識してしまった。理由は分からない。ただ、何とはなしに感じたその割には、何か自分の中で確信めいたもののようにも感じるから性質が悪い。

 浩君に、いや僕よりも幼いこの子に愛想笑いをさせてしまったのかと思うと、どうにもやるせない気持ちになる。この子は、何を考え、どう感じているのだろう。僕は浩君について全く何も知らない。それが何だかあいつとも似ていて、どうにも歯痒かった。

「じゃ、じゃあ、もう遅いし、お風呂使うかい?」

 我ながら強引な話題の切り替え方だと思う。だが、これ以上こういった深い話をするのは僕が耐えられない。浩君もその雰囲気を悟ったのか、一瞬だけ口を噤んだ。

 それでも、一瞬ことだったから、すぐに浩君は申し訳なさそうに眉を下げる。

「いや、いい、……です」

 なんだかその言い方がとても中学生らしくて、思わず口の端を吊り上げた。

「ははっ。浩君、君が先に入りなよ。僕はこのまま風呂に入れるかどうか、微妙なところだしね」

「……ん」

 浩君はそう声を洩らすと立ち上がり、部屋の扉を開けて洗面所へと向き直る。そうして。


「それじゃあ」


 そのたった一言と、扉のしまる音が何だか恐ろしくて、僕は堪えていた涙を溢れさせてしまった。

 あの一言と扉のしまる音が、妙にあのときのあいつと状況とよく似ていて、何だか僕の未来そのものが一気に閉じられたような気持ちになった。もう、あの扉が開くことは無いし、あの声が聞こえるはずもない。そんな、絶望の淵にに置いて行かれたような感覚だ。

 絶対に扉が開かない、だなんてことはありえないのは分かっているが、それでも僕は漠然とした不安と恐怖を感じた。



もう、僕にはあのころの朝日は拝めない。

あの日の朝日を拝むには、気付くのが遅すぎたんだ。




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