5.最後のお仕事は笑顔が大事 【結】
気が付くと、辺りは真っ白の世界に囲まれ、真っ黒な空が天を覆うように迫って来ていた。遥か向こうの地平線には、真っ赤な墓標が何本か突き刺さっている風景が、消えかけている影越しに見える。
「ちょっと待て。何でお前が消えかけてるんだよ!」
絶叫にも近い声で影に呼びかけると、影はカタカタと笑っておれの問いに答えた。
「簡単さ。お前の不始末を、オレが拭った」
「だって……だって、それはおれの責任じゃねぇか。それに、許されてないって……!」
「そう。許されていないから、オレが消えるんだ。オレはお前だって言ったろ?」
「……そんなの。そんなの絶対おかしいだろ!?」
今までに出したこともない大声で、影を怒鳴りつけた。頭の片隅で冷静なおれが影の状況を分析し始める。影は現在では両手の指先と両足の爪先が消えかかっている。このままでは、あと数分持つかどうかといったところだろう。一人で焦るおれの頭上では、真っ黒な空もおれたちを覆いつくすように迫ってくる。
こんなときですら、おれは感情に身を委ねることも出来ないでいるのか。今だけはこんな自分にほとほと嫌気が差す。自分への嫌悪感とともにどこか冷めている自分を否定したくて、喉が痛むことも構わずに大声を出し続けた。
「なぁ、お前はおれの心なんだよな? お前が消えたって意味がないだろ」
「大丈夫さ。だって、お前は仕事の中でいろんなことを見つけてきたじゃねぇの」
「……え?」
「ほら、最初の仕事では人間に興味持てたじゃん」
「……興味?」
どうして自分が消えかかっているというのに、影はこんなにも落ち着いているのだろう。何だか焦っているおれの方が馬鹿みたいじゃないか。だけど、影の言うことは一つも漏らさず聞いておきたい。だからおれは影が話そうとする声を必死で聞こうとする。
すると、影はおれのマフラーへと指先の消えた手を向けた。
「……何でみんな最期に笑顔だったのか、分かんねぇって言ってたろ」
「あれは……。今でも、よく……分かんねぇ」
正直に答えると影はカタカタと音を立てて笑い、今度は藍色の小さな髪留めを指す。
「それから、死んだ兄と妹の時に人間は複雑で面倒だって言った」
「……あれは感想だ!」
また怒鳴ってみせると、影はカタカタと笑った。どうしよう。このままだと、影が消えてしまう。自分でも理由はよく分からないが、嫌だと思ってしまう。どうしてだろう。別に影が消えることで起こる不都合なんてないはずなのに。どうして、嫌だと思うのだろう。
「なぁ、影。……おれは……まだ、人間についても分かってねぇんだ」
初めて影に出会ったころは何だこいつ、ぐらいにしか思っていなかった。最初の仕事を終えたときには影のことを変な奴だとしか思わなかった。それから、仕事を終える度に影が笑って話しかけてきてくれて、多分おれは嬉しかったんだと今になって思う。
「それに、影のことも、おれのことも。……何もかも、分かんねぇんだよ」
影は、いつもおれを気にかけていてくれていた。影は仕事の度に人間について、おれ自身について興味を持ってくれていた。おれにいろいろなことを聞いてきてくれた。人間とは何か。自分とは何か。仕事についての感想だって聞いてくれていた。
それなのに、今まさに目の前で影が、答えが消えかけている。おれに投げかけてきた問いかけについて謎を残したままで。
人として生まれ死んだおれは、死神となっても、また失うのか。今度は自分の命だけではなく、影の存在ですら失ってしまうのか。それなら、おれには何が残されているんだ。おれには何があって、何がないのか。もう、それすらも分からない。
「分かんねぇことだらけなんだってば……!」
腹から声を絞り出すと、僅かに震えているような気がした。そこでおれは頭の片隅で自分が動揺していることに気付いて驚いた。初めて心から泣いたような気がする。眼から涙なんてものは出ていないが、胸が苦しい。何だこれ。こんな気持ちなんて知らない、分からない。
なぁ。教えてくれよ、影。何でおれは、こんなにも苦しいんだ。怪我もしていないのに、どうして息が出来ない程に胸が痛いんだよ。
「……それで、良いって」
「良くねぇ!!」
どうすれば、影を引きとめられるんだ。その方法が分からなかったから、咄嗟に怒鳴りながら影を抱きしめる。悔しいぐらいに無知なおれには、こうするしか方法は見つけられなかった。
おれが仕事で失敗したのに、どうして消えるのはおれじゃなくて影なんだろう。その方がおれにとって罰になると神様が考えでもしたのだろうか。
ちくしょう。悔しいけど、当たりだ。ちくしょう。
「……コウ。そんな悲しむなって。案外それほど大したことじゃないかも、だろ」
「なら代われよ!」
「それは断る」
「……大体、消えたがってたのはおれの方だぞ。勝手なことすんなよ!」
ぎゅうと影を抱きしめる腕に力を込めて影の肩に顔を埋めると、影は笑っておれの頭を撫でる。その手がほんのりと温かいような気がした。
「嘘吐け。……心は消えたくねぇって、馬鹿みてぇに泣いてんぞ」
影の言葉に弾かれたように勢いよく影を見ると、影の顔から白い線が一筋だけ零れ落ちていた。震える指でその線に触れると、頭が割れそうなほどの声が溢れて流れてくる。
「消えたくない。いやだ。生きていたい。愛されたい」
「……ちがう」
「悲しい。悔しい。苦しい。淋しい。痛い。辛い。寒い。暗い、……って。オレはそう感じる」
「ちがう……ちがう、おれは別に、そんなこと思ってない……!」
「なぁ、コウ。たまにゃあ、お前はお前の心の声に従ってみろよ」
「ちがう……だって、おれは、影に消えて欲しくないんだ……!」
「……だから。大丈夫だって、言ってんだろ」
影はそう言って、とん、とおれの胸に頭をぶつけてくる。
「もう、ここにオレがいるだろ。仕事で出会った、いろんな人たちの思い出も」
影が頭をぶつけてきた胸は、ほんのりと温かい。
「後ろを振り返ってみろ。オレはお前の影だ。何があっても離れねぇよ」
影はそう言って、おれの後ろを指し示す。影の言う通りに振り返ってみると、たしかに影はそこにあった。腕の中にいる影とは異なる、おれの真っ白な影だ。小さいけれど、真っ黒な世界で確かにそこにいる。
「約束通り、最期まで見てやるさ。だから、もう大丈夫」
あぁ、そうか。おれは影からみても、もう大丈夫なのか。
それなら、影とのお別れも、仕方がないのかな。
井出さん。
千夏。
優しい猫。
あなたたちのお蔭で、おれにも心が出来たよ。
影が、生まれたんだ。
この影はまだ小さいけれど、ちゃんとここに。
「それじゃ。先におやすみ、コウ」
最期に鈴のような声がして、影は真っ黒な空に吸い込まれていった。




