5.最後のお仕事は笑顔が大事 【転】
深い水底から浮かび上がってくるような感覚を覚えながら目を開けると、真っ暗だった。
「コウ!!」
目の前の闇が遠ざかり、身体が起こされる感覚がした。
「戻ってきたんだな、コウ!!」
「…………か、げ?」
「間に合って良かった!!」
上半身だけ起こされた状態で影に抱きつかれ、次第に頭が覚醒していく。影に抱きつかれながら、ゆっくりと指を動かしてちゃんと動くかどうかを確認すると、わずかだが指が動いた。
「なぁ、影」
「何だ?」
「……お前どうしたんだ?」
腹から絞り出したにもかかわらず弱々しい声で尋ねると、影が嬉しそうな反応を返す。
「あぁ、あぁ……! あのコウが……やっと興味を持ったんだな!」
「それに、お前ってそんなキャラじゃないだろ」
「あぁ……気を遣うようにまでなって……!」
「……おい、影。いい加減にしてくれ」
ゆっくりと腕を持ち上げて影を叩くと、影は漸くおれから離れた。顔がないから表情なんて分からないけれど、恐らく喜んでいるのだということだけは伝わってくる。
「よし。大雑把に説明するとだな、お前は逃げ損なって神に捕まったけど、神は母親にチャンスを与えてくれたってワケだ」
「…………は?」
未だ興奮冷めやらぬといった様子の影を落ち着かせて話を聞くと、こういうことだった。
死神とは、本来は生者に触れてはならない、ましてやその者の『死』に関与してはならない。それを破れば、たちまちのうちに常闇に捕われ、輪廻転生をすることも許されない牢に繋がれることとなる。そこでは、肉体はもちろん精神すらも掻き消され永遠に彷徨い続けるだけの存在と成り果ててしまうのだそうだ。
「常闇に捕われてもすぐに牢に行くわけじゃない。あの墓地で待たされるんだ」
「じゃ、あそこにいた奴は?」
「あそこにいた奴……? そんな奴はいないと思うが、恐らく人間の世界でいう死刑囚だな。迎えが来る順番は決まっていない」
「じゃあ、いつ迎えが来るのか分からないのか」
「迎えなんてものは曖昧さ。すぐに来る奴もあれば、永遠に近い時を待たされることもある」
「おれはすぐに来たぞ」
「そう! 今回はそこでラッキーが起きたのさ!」
そう言って影は嬉しそうにくるくると回り、カタカタと歯を鳴らすように笑った。
「迎えが来ると、通常の場合では面会謝絶だ。救済措置なんてあるわけがない。だけど、お前の母親が神に許しを請うて、また死神として蘇らせてくれたってわけだ」
「……そんなこと、出来るのか?」
「まぁ、元々お前の母親の死因は不慮の事故だったしな。根も悪い人間ではなし。あとは死後の態度が検討された、といったところか」
「……そう、か」
「何にせよ、お前が全てに耳を塞いで目を閉じて立ち止まったから、神は耳や目に試練を与えて、母親が手を差し伸べたんだ。感謝しろよ」
影はそう言って、何故か両腕を組んで鼻息を荒くする。影がやったわけではないのに、どうしてそんな風に偉そうにするのか。分からないなぁ。
「ということは、おれは母さんに助けてもらったのか」
「そういうこと!」
「つまり、おれはお前が逃がしてくれたから、助かったんだな」
「そういう……ことになるか、一応」
それまでの勢いは嘘だったかのように影は照れくさそうに頭を掻いた。本当にこの影は、おれよりも人間臭い真似をする。
「影、ありがとう」
おれは影の手を握ろうと手を差し出すと、影は頭を掻いていた手をおろし、数秒間だけ黙ってしまった。ところが、影の一向に差し出そうとしない様子に違和感を感じて、おれは影を見る。見たって分かるわけがないのに、何故だか影が悲しそうな顔をしているのが分かった。
「勘違いするなよ、コウ。お前はまだ許されてねぇ」
影が苦い顔で言葉を漏らす。おかしな話だな。影に顔はないのに、目の前にいる影が今どんな表情をしているのかが手に取るように分かるなんて。
「……分かってる。だけど、あの時はお前がおれを逃がしてくれただろ」
「…………」
「そのお蔭で、おれは母さんに会えた」
「でも……」
言い淀む影の様子に、おれは小さな溜息を溢して、言葉を紡いでみせた。
「それにさ、おれ、ずっと考えてたんだ」
影と出会ってから、常に考えていたことを、目の前にいる影に話してみよう。何故そう思ったのかは分からないけど、言うなら今しかないと漠然と思った。もしかしたら、永遠に答えの出ない問いかけではないのかと思ったからなのかもしれない。
「影は、何者だろうって」
「オレは……、影は影だ」
「そうだけど、そうじゃなくて。もしかして、おれなんじゃないかって思ってさ」
「はぁ?」
「あの墓地でお前とよく似た奴に出会ってから、ふと思ったんだ」
「墓地で?」
怪訝な様子を隠そうともしない影に、おれはおれ自身の問いかけを投げつけてみる。
「あそこは死神の墓地なんだろ。迎えがいつ来るのか分からないのに、何であいつだけおれの迎えが来ていることが分かったんだろうって」
「…………迎え、なんてものは絶対的なものだ。それを感じ取れるぐらい」
「なぁ、影。おれが捕まってから、影は何処に居て何をしてた?」
「……分からない。気付いたら、足元でコウが寝てた」
影は、少しだけ怯えた様子で声を洩らす。その反応を見ておれは根拠のない自信が湧いてきた。
「おれの迎えが分かるのは、おれだけだ。それなら、お前は正真正銘おれの影ってことだろ?」
影は、おれなんだ。どういう理屈かは分からないが、それなら影がおれに拘る理由にもなるし、おれを助けようとした理由にもつながる。自分の問いに対して答えたはいいものの、影がおれであることや、どうして影がおれよりも先に死神として仕事をしていたのか、疑問は尽きないけどな。
おれの問いかけに対して影はぐ、と息を呑んだが、やがて深々と息を吐いた。
「……せーかい!」
「え」
影のあっけない答えに、呆気にとられてしまう。おれが死後ずっと考えてきたことが、こうもあっけなく回答表示をされると、実は大したことではないように思える。
「……え?」
困惑したおれの顔を見た影が「いいもん見れた」と笑ってから、おれにその場へ座るように顎で促した。影の言葉でない指示に黙って従うと、影もおれの正面に座る。
「さて、それじゃあ……。……何から話そうか」
「……まず、お前の正体を教えてくれよ」
「よし。じゃ、オレの生まれから話すか」
まったく事情の分からないおれは影に急かすように話の続きを求めた。影はそんなおれを一度だけ見てから、次に上を向いて話し始める。
どうしてだろう。これから望んでた答えを教えてもらえるというのに、想像していたような重苦しい空気ではなく、答え合わせをするような軽い雰囲気になっている。思っていたよりも影が軽い調子で答えを言ったからだろうか。
「お前は一度だけ死んでるよ。生まれるときにな」
「生まれるとき……?」
「本当はお前が死ぬはずだったのに、母親が命と引き換えたんだ」
「……まさか。そんなこと、出来るのか……?」
おれは流産で死ぬ運命にあった。それを、母親が引き換えた。簡潔にいうとそういうことらしい。それって、普通の人間には可能なことなんだろうか。おれが見送ってきた人たちは、みんなそれぞれの命を全うして死んでいったというのに、おれの母親は自らを犠牲にするという選択肢を選んだ。
「そのときに、死ぬ予定だったお前からオレが生まれたってわけだ。まぁ、お前は半身を失いながら生きていたことになるな」
「……はぁ」
「だから、本当は母親が面会に来るのも結構ギリギリだったんだよ」
「……なんで……?」
そこで影は深い溜息を吐き、話に区切りをつける。おれはどうしても話の続きが気になるから、じっと影が話し始めるのを待った。
影は数秒間だけ黙っていたかと思うと、徐に話し始める。
「一度目は……母親が息子の死という運命を捻じ曲げたわけだからな。だけど、寛容な神様たちは母親から二度目の救済を大目に見られたんだろ」
「どうして、そこまで?」
「さぁな。そこまでは分かんねぇけど、神様のきまぐれじゃね?」
「…………そう、か」
「お前が生きている間に、オレは仕事をしていたよ」
「仕事って、死神の?」
「そう。それで、お前と出会った。それで、何となく分かったんだ」
「自分はおれだって?」
「そう。お前の感情に触れてみて分かった。オレはお前から生まれたんだって」
「……なぁ、それってどういうことだ。お前はおれの何なんだ?」
しみじみと語る影に、おれは慌てて待ったを仕掛ける。先ほどから何度かそんな話をしているがおれにはまだどういうことかよく分からない。影がおれであることについて薄々は感じていたが、具体的に言えばどういうことなのか。それがずっと分からなかった。
すると、影は何でもないことのように言ってのける。
「オレはな、お前の心だ」
「…………はぁ?」
言い淀むわけでもなく言ってのける影に、おれは疑惑の目を向けるしか他なかった。影がおれの生き写しだという答えに辿り着いたときも驚いたが、まさかここでおれの心だなんていう回答に巡り合わせるとは。事の次第になかなか頭が付いて行かない。
いかにも困惑するおれの顔を見た影は、なおも得意げに口を開く。
「お前は他の人間と気持ちを分かり合うことが難しかっただろ?」
「……まぁ」
「お前の心が死んで、オレが具現化されたって言えばいいのか。そんな感じ」
「そんな感じって……。そんな馬鹿な」
「だから、オレは仕事が終わった後でお前に人間について聞いてたし、お前の生前の生活や行動に思考を調べさせてもらってた」
「……ストーカーか」
「そしたら、お前は異常な程に人間に無関心ときた。これは何かあるってな」
「別に。……普通だろ」
「さらに、お前自身もお前に無関心だ。ぶっちゃけオレはお前に興味あったわけ」
「お前が?」
「そう。お前が泣きたいときは、オレが泣いた。お前が嬉しい時はオレも嬉しくなった」
「……だからって、お前がおれの心だとは限らないだろ」
影の今の説明では、偶然おれが泣きそうになった時に影が居合わせただとか、感覚が似ているだけ、といったものではないだろうか。そんな疑問がおれの中に浮かぶが、影はゆっくりと頭を横に振った。
「死神ってのは、仕事上では生身の体を与えられて入れるんだが、オレはどうやっても入れない」
「それは、……影が特殊だったからじゃないのか?」
「オレは影だからな。本体がないと存在すらしねぇのさ」
影はそう笑いながら、今度はおれの頭を何度も軽く撫でた。何だか名残惜しそうに。
「だけどお前と出会って、やっとお前がオレの本体だって分かったんだ」
おれはその時ようやく気が付いた。影の声が少しだけ震えていることに。
「オレはお前の心。だから、お前がどういうことで悲しいか、辛いか、苦しいか全部わかる」
影が再びそっとおれの頭を撫でて、ゆっくりとその手を離していく。そして、いつの日か聞いた意地の悪い笑い声と低い声が同時に鳴り響いた。朽ち果てた聖堂の鐘が、二度三度と響き渡る。
「さぁ。最期の時だ」
気が付くと、笑いながら泣いている顔をした影の手が、じわりじわりと背景の白と同化していた。




