5.最後のお仕事は笑顔が大事 【起】
目を開けると、そこは見たことのない世界だった。見渡す限り白とも黒とも判別がつかない灰色の空間で、絵画のようなビル街が目の前に立ち並んでいる。住人は依然として見つからず、おれはぼんやりと立ち尽くしていた。
「ここは、何だ?」
声を発すると、音となってこの場に反響して聞こえてくる。どうやら、おれの知っている現世ではないことはたしかだ。いや、もしかしたらおれが死んで何千年後の世界だとかそういった場所なのかもしれない。今のおれに現状を知る術はないから、とりあえず歩くことにした。
「誰か、いませんかー?」
おれの声は虚しく場を響かせるだけで、やがて消える。歩けども歩けども人っ子一人いやしない。本当にここは人が住む街なのだろうか。そもそも住人なんているのか。
おれはとにかく当てもなくビル街を彷徨い歩いた。その内にふと見覚えのある建物が目に入り、その建物の前で足を止めてみる。ここは、たしかおれが通っていた小学校だ。
「……懐かしいな」
小学校でのおれの居場所は、男女比も均等で人数分きちんと割り振られた教室の、真ん中の列にある席だった。
昼休みになると奴らが席から離れておれの周りに集まり、おれの机や椅子に落書きをしたり、座ったままのおれに先生が怒りだしそうな言葉を嫌と言うほど浴びせてきたっけ。トイレに行こうと立ち上がると髪を掴まれたり、足を引っ掛けて転ばせてきたりする。それを避ければ殴られ、蹴られ、トイレで囲まれて個室から出られないように閉じ込められるから、あまり抵抗はしなかったな。持ち物は、当然の如く勝手に使われたり壊されたり汚されたり。それでも、給食が出るから通い続けていたが、奴らもよくもまぁ飽きもせず毎日いじめてきたもんだ。泣きもしないおれなんていじめても、大概つまらなかっただろうに。
「……ここも、あるのか」
それから少し歩くと、しばらくしてから通い慣れた中学校も見つけた。中学に通っていた頃はまだ良かったかな。ただ、集団をまとめるリーダー格の人間が出て来て、より計画性を持ったいじめになったが、物理的なものよりも精神的ないじめの方が多かったように思える。別にクラス全員から除け者にされたぐらいでは何ということは無かったが、その中で友達が一人出来たのにその友達に裏切られたことの方がよほど堪えた。
ドラマや映画でも、よくある話だ。だから、友達に裏切られたショックは受けたものの、それ以上のことはしなかったし、する気もなかった。どうせ人間のやることだ。放っておけばいい。
だけど、クラスにおいておれへの扱いに関して隣のクラスの学級委員長が異議を申し立てきたっけ。学級委員長がおれに話しかけてきたりもしたが、無視してたよなぁ、あの頃は。
「……かわいそう、……ねぇ」
おれに付きまとい、懸命に話しかけてきた学級委員長は、一度だけおれにそう言った。そんな学級委員長も、傍から見れば自分自身が持つ正義感や優しさから動いているように見えるが、何てことはない。ただの自己満足だ。
そんな自己満足の結果によっては、おれを取り巻く環境が改善されるなら学級委員長の行いは「優しさ」として一般的に処理されるだろう。だげど、おれからすればただの迷惑だ。むしろそんな行動をされる度に奴らの攻撃は激しくなる一方だから、止めてほしかったのが本音だったっけな。それを学級委員長に伝えても、奴らに伝えても、十分の一程も伝わらない。それが、現実だった。
期待なんてしないし、悲しみもしない。期待しても自分が傷つくだけだし、悲しむほどの期待なんて当然するわけがないだろ。みんな馬鹿じゃないのか。おれをいじめる時間があるなら、余裕があるならもっと有意義な時間を過ごせばいいのに。おれを殴って蹴ってみんなの心が晴れるのなら、それは意味のあることだっただろうけどな。
「……死のうとしなかったのは、案外あの親父のお蔭だったのかもなぁ」
小学校に行っても中学校に行っても必ず言われたことは、「お前の命は母親のものだ」という親父の言葉だ。おれは母親を殺したから、その分だけ生きなければならない。死のうなんてことは考えてもいけないし、許されもしない。そんな権利なんて、おれには与えられていないんだ。親父はそんなことをおれに言い聞かせながら、卒業まであと三日というところで出ていってしまった。
母が生きていたら、おれの人生は違っただろうか。
もしも母が生きていれば、父もおれを殴ったりしないで話してくれたり、友達と楽しい思い出だってきっと出来ただろうな。そんな夢のようなことを考えることも少なくはなかった。
そんな夢はすぐに見なくなったが、今でもたまに思い出すことがある。
「……母さん、か」
そんなことをつらつらと考えていると、いつの間にか目の前に今度は建物ではなく生物がいた。驚いて目の前に突如として現れた生物を観察してみる。生物はおれと同じ人間の形をしていたが、影と同じく真っ黒だった。影と異なる点は、顔には大きな目と、腕や足にも目が付いていることぐらいだ。まともな感覚から言えば、こいつは異形の者として目に映るだろう。
おれには、ただの生物にしか見えない。少なくとも観察をする限りでは。じっと見つめていると、そいつはゆっくりと頭を横に揺らし始めた。
「消えちゃうよ」
そいつが声をかけてくる。そいつの声は、子どものように高い音で、幼かった。だけど、おれはそれよりもその声に聞き覚えがあることに疑問を抱く。どこでこの声を聴いただろうか。思い出せない。
「なぁ。ここってどこだ?」
「ここは、お墓だよ」
「……お墓?」
「そう、ぼくたちのお墓。消えるのを待つだけの場所」
「ぼくたちって?」
「神様から、人間に死を伝える仕事を授けられた者たち」
「……それは、……死神ってことか?」
「そう。死を迎えた神様のお墓だよ」
そいつはおれをじっと見つめながら、今度は頭と身体を横に揺らし始める。こいつが言うようにお墓だとすれば、おれは何でこんな所にいるのだろう。
「お前は、神様におやすみなさいって言われたの」
「ふぅん」
「だから、消えちゃうよ」
「……そっか」
目の前にいるこいつに素っ気なく言葉を返す自分に、妙に引っかかった。すぐにその理由を考えてみる。おれという人間は、こうも真っ直ぐに自分の死を告げられると、どこか他人事のように思える奴なのか。いや、他人事ではなく、興味がないと言った方が正しいかもしれない。知りたくなかったなぁ。
「神でも、消えることってあるんだな」
ぽつりと呟いた言葉に、そいつは一度だけ瞬きをして答える。
「そう。消えないものは何もないよ」
そいつの凛とした声に、またも驚く。そして、驚く自分に驚いた。まだ、おれにもこんな感覚が残っていたのか。こんな感覚は既に麻痺したかとうの昔に失くしたものだと思っていた。
「……そう、だな」
「そう。ほら、気を付けて。その時は、もうすぐだよ」
そう言って、そいつはおれの後ろを指す。その動きにつられておれも後ろを振り向くと、真っ黒で大きな塊が周辺にある建物を飲み込みながら近付いてきているのが見えた。あれだけ大きなものが近づいてくるときは音がすると思うが、不思議なほど黒い塊は静かにやってくる。
あれが、死か。何だ、随分と単純なものだな。おれは、何故あんなものを怖がっていたのだろう。
「大丈夫。怖くない。元に戻るだけ」
黒い塊が間近に迫ってくる気配を肌で感じ取れるほど距離が近づく。背後で幼い声が変わらず聞こえてくる。
「元に戻るって……?」
恐る恐る振り返らずに問い返すと、至って当然のように答えを返してくる。
「この世界が出来るころ」
淡々とした口調が背後で聞こえると同時に、黒い塊が目の前に迫る。
「……この世界?」
黒い塊の向こう側を見据えようと目を凝らしながら尋ねると、背後で淡々とした口調の声がした。
「ぼくらの、故郷だよ」
思わず振り返ると、おれと同じ顔の子どもがおれを瞬きもせずに見ていた。その子どもの顔はどことなく影を連想させ、不思議な気持ちになる。それが、おれの最後に見たものだった。




