4.福利厚生は整っている 【結】
町中を探し回ったが、嬢ちゃんを一向に見つけられる気配がない。他に探していない場所は、あの静かな神社だけだ。あそこはオレが家族と住んでいた場所だっただけにあまり立ち寄りたくはないが、やむを得ないだろう。今は緊急の事態だ。そっと溜息を一つだけ溢す。
枝を垂れ提げている木々に両側を挟まれ、夕方の暗さを纏った長い階段を一歩ずつ踏みしめる。家族と離れてから、ここに来たことはなかっただろうか。不意に傍にあった木を見上げると、かつての兄妹が木登りをしているのが見えた。
『ここまで登ってこいよー!』
『だって、怖いよぉ……』
『手伝ってやるって! ほら、大丈夫だろ?』
『わぁ、ほんとだぁ! すごーい!!』
ここに来れば、母や兄妹がいなくなったことを嫌でも思い知らされる。こうして思い出すのが少し怖いぐらいだ。オレはオレが思っている以上に情けねぇのかもしれねぇな。
階段の途中にある鳥居をくぐって階段を登りきると、嬢ちゃんが背を向けて立っていた。その隣には、いつぞやのガキもいる。
「……旦那ぁ。いらしてたんですかぃ」
そう言うと、ガキは振り返ってオレに目を合わせてきた。あのときと変わらず読めない表情だ。そういえば、何となく兄のあの無表情にも似ているような気がする。
「そこのお嬢ちゃんが、家を飛び出したらしいんでさぁ」
「あぁ……。さっき、聞いた」
ガキが声を出すと、嬢ちゃんも気が付いて振り返った。嬢ちゃんはオレを見つけるや否や目から大粒の涙を溢す。
「ネコさん……!」
今にも折れてしまいそうなか細い足で、嬢ちゃんはゆっくりとオレに近付いて抱きしめてきた。嬢ちゃんの小さな身体が小刻みに震えている。
「私、やっぱり、ひとりぼっちだ……!」
何度もしゃくり上げて、嗚咽が嬢ちゃんの小さな口から漏れ出た。オレを抱きしめる腕に幼いながらも精一杯の力が込められていて、正直少し苦しい。だが、嬢ちゃんはじっと動かない。
オレは、猫だ。嬢ちゃんに声をかけたくとも、嬢ちゃんにはオレの言葉が分からないだろう。何とも、もどかしいもんだ。
「私、お母さん、お父さんの、……子どもじゃないって……」
嬢ちゃんの小さくてか細い声が、風にのって聞こえてくる。ともすれば、風の音にまで負けそうな声音だ。
「どうしよう……。捨てられちゃう……。私、本当の子じゃないから……!」
嬢ちゃんは、ぼろぼろと零れる涙を拭うこともせずに、泣き続ける。その悲痛な声に、オレは思わず耳を塞ぎたくなった。
あのとき、妹も嬢ちゃんと同じことを考えただろうか。兄妹の中で一匹だけ体力を失い、徐々に弱っていく自分を、どう思っていたんだろうか。兄はオレたちを生かそうといつも必死で、オレも今日の飯を探してくることに必死で、妹のことは考えたことが無かった。オレが町を駆け回っている間、兄や妹は何を考えていたのだろうか。
「やだ……やだよぉ……! 私、お母さん、お父さんと、一緒にいたい……」
実の親ではないが、一緒に居たい。嬢ちゃんは、息をする余裕もなく泣きじゃくるほどにそう願う。その手を繋ぐ先にいる人が、たとえ血のつながらない他人だったとしても、ひとりぼっちは嫌だと泣く。
じゃあ、妹はどうだったのだろう。果たして、オレと血のつながりのある妹は、嬢ちゃんと同じようなことを感じていたのだろうか。兄は、現実を受け入れずに逃げ出した弟のオレをどう思っていたのだろうか。
嗚咽を洩らして石のように動かない嬢ちゃんの背後に、ガキが立つ。ガキは嬢ちゃんを不思議そうな顔をして見つめていた。なぜ泣いているのか分からないといった様子だ。
「旦那ぁ。何が何だか分からねぇってツラしてますぜ」
「……あぁ、そうだな」
「旦那にゃあ、分からんかもしれませんが、これが人間ってやつでさぁ」
ふふんと鼻で笑ってみせると、ガキは面白くなかったのか、眉間に皺を寄せてオレを見る。
「そういうものか」
「人間は、……いや、人間だけに限らず、弱いものは何かに縋りてぇもんです」
「なぜだ?」
「……言ったでしょう? 弱いからですよ」
そう言ってしまってから、ふと今まで歩んできた道を振り返ってみた。そうだ。幼い頃の自分たちは、母親という存在に縋って生きてきた。まだそれが許されていたからだ。やがて母はいなくなり、オレたちはオレたちだけで生きていく寂しさを知った。辛さを知った。厳しさを知った。
そして、オレたちはどうしようもなく一匹であることを悟った。生まれるときも死ぬときも一匹だというのに、この世を生きるには、仲間と群れなければならないということにも気が付いた。
考えれば考えるほど、おかしな世界だよな、現世って。だけど兄は母の「兄妹で助け合え」という言葉を守りながらこの世界を生き抜いた。妹は母を想いながらこの世界をたどたどしくも生きた。
オレは、どうだっただろうか。母の言いつけを守り、母を慕う兄妹を横目に、オレはずっと心のどこかで「一匹なんだ」と思うことしかしなかったような気がする。
「猫も、人間も。最初から最期まで一人で生きるもんでさぁ」
だって、そうだろう。いくら兄妹だと言えど、所詮は一匹の仔猫の集団だ。オレたちのような仔猫に、何が出来る。非力で、無力で、何も出来やしないじゃないか。一匹で飯を取ってこれるわけでもなく、一匹で水を手に入れられるわけでもない。一匹で出来ることなんてたかが知れている。それでも、オレたちは一匹で生きようとするから、オレたちはいつまでたっても弱いまま生きるために縋りつく当てを探すんだ。
オレだって、そうだ。一匹であろうとするオレは弱い。兄と喧嘩して母や兄を困らせたり、妹を苦しめたりしたのも、オレが弱かったせいだ。オレが弱くなかったら、きっと兄にも妹にも心配はさせなかっただろう。もしかすると、みんなを守れていたかもしれない。それなのに、現実は無情だ。
そんな現実だから、弱いオレは何かに縋りたくなった。母に、兄に、妹に。人間に。
「……それでも、一人だから、何かに縋りたくなるってもんです」
「……分からん」
「ま、要は癒しが欲しいってことにしときましょうぜ?」
茶化して笑うと、ガキは神妙な貌をしたまま小首を傾げて「そうか」とだけ言った。今のは冗談のつもりだったが、ガキには通じていなかったようだ。本当によく分からないガキだよ。
「さて。そろそろ嬢ちゃんにも泣き止んで欲しいんで、旦那。力を貸してくだせぇ」
「……どうしたら良い?」
「適当に慰めてやってくだせぇよ」
「適当って?」
「…………」
駄目だこりゃ。このガキも背丈はそれなりだが、中身はやはり子供か。ここは、いっちょこの世界での先輩が一肌脱がねぇと。
「いいですかぃ、オレの言うことを翻訳してくだせぇ」
「……分かった」
「じゃ、いいですかぃ?」
猫が人間に言葉を教えるなんざ、滑稽な話だ。もっとも、このガキが人間かどうかは甚だ怪しいものではあるが。
何だか奇妙に思えて笑ってしまいそうになるが、ここはオレの経験からくる言葉を選んで伝えなければ。
『両親は、きっと見捨てたりなんてしないよ』
抑揚のない声が、神社の境内に取り残される。
『血のつながりはなくとも、二人とも大事に想っているから』
ぽん、と嬢ちゃんの頭をガキが優しく撫でた。
『だから、大丈夫。独りじゃないよ』
結果として嬢ちゃんが泣き止むことは無かった。むしろ悪化したかもしれない。ますますオレを抱きしめて大声で泣き出した。だが、その泣き声もそう長くはない。だいぶ泣き疲れたのか、声は徐々に小さくなっていき、数分後には涙も鼻水も出なくなっているようだった。
ぐしぐしと目を擦って涙を拭い、嬢ちゃんはオレとガキを交互に見比べながら「ごめんね」と謝る。
「早く帰ろう。……お母さんとお父さんが待ってる」
「……うん」
両親の顔を思い出したのか、少し極まりが悪そうな顔をした嬢ちゃんはガキの手を取って握った。ガキはこっそりとオレの方を見て、嬢ちゃんの行動の意味を目で問うてくる。
「……嬢ちゃんも、縋りてぇんですよ。旦那はそのままで、手を握っていてやってくだせぇ」
すると、ガキは怪訝な顔をして見せたが、納得したようだ。僅かに首を縦に振り、顔を上げた。ふと、階下に二つの人影が見える。嬢ちゃんはその人影を見た途端に顔を綻ばせた。
「お母さん、お父さん!」
どうやら、嬢ちゃんの両親だったらしい。階下で二人の声が聞こえる。嬢ちゃんはガキの手を振り払って慌てて階段を下りて行った。
それが、まずかった。嬢ちゃんが慌てすぎたようで、階段を一段だけ踏み外す。それから一連の流れが、オレにはスローモーションに見えた。まず、遠くから誰かの悲鳴が聞こえてくる。
「きゃあああああああ!!」
嬢ちゃんが、あっという間に階段を転がり落ちていく。だん、だん、とリズムを刻み、嬢ちゃんの柔らかい身体を少しだけ跳ねさせながら、下へ下へと落ちていく。
止まることなく跳ねる嬢ちゃんの身体を見つめていると、不意に声が聞こえた。
「もう少しだったのにな」
隣にいるガキが、何の感情もなくぽつりと呟く。
このガキは、あのときの公園で遊んでいた人間の死神ではなく、嬢ちゃんの死神だったんだ。
嬢ちゃんの身体が回転を止めたとき、地面には家出をした子供の悲惨な末路が出来上がっていた。傍では母親と父親の悲鳴が辺りを劈く。神社の木々がさわさわと音を立てている。ふと思い出したかのように、草むらから虫たちの声が辺りを轟かせた。
嬢ちゃんの身体から、半透明になった嬢ちゃんが飛び出す。あれが、世に聞く幽体なのか。ガキは少しも不思議がることなく嬢ちゃんに近付いていき、声をかける。
「迎えに来ました。死神です」
「え。……お兄ちゃん、だって、さっきまでお話してた……?」
「そう。だから、おれの姿は両親には見えてない」
「どういう、こと?」
「きみは死んだ」
「……うそ。だって、お母さんも、お父さんもそこにいるし、ネコさんだって」
「動物はたまに見えることもある」
なるほど。だからオレは、あのガキが地面から生えてくるのを目撃できたということか。
「もう泣かなくて良いし、辛いこともない」
「やだ……やだ。あのお姉ちゃんにも、お母さんにも、お父さんにも会いたい!」
「でも、もう死んだから」
「やだ。……やだやだやだやだやだ!!」
嬢ちゃんが地団太を踏もうとして、足がないことに気が付いて泣きそうな顔になる。だが、泣けないのか、どうしてもその眼から涙が出ることは無かった。
ビックリしたなぁ。本当にいるのか。噂でそういう存在がいるということは耳に挟んだことはあったが、間近で見られるとは。しかも、よりにもよって嬢ちゃんの側で見られるとは、夢にも思わなかった。
嬢ちゃんは火が付いたように噎び泣いてしまう。見えない涙をぼろぼろと溢して。
「やだぁ……! こんなのやだよぉ、おかあさん……おとうさん……!!」
まるで身が引き裂かれるような声だ。
涙も鼻水も出てねぇってのに。
あーあ。聞いてらんねぇよなぁ。
「なぁ、旦那ぁ」
声をかけると、ガキは振り向く。どうやらオレの声はまだガキに届くようだ。嬢ちゃんもオレの言葉が分かるのか、驚いたような顔をしていた。そんな嬢ちゃんを安心させようと、口の端を吊り上らせて笑いかける。すると、嬢ちゃんは驚いた顔のまま固まってしまう。
まったく、どうしてこうも人間と猫は相容れないものかねぇ。今となってはもうどうでもいいか。オレは、オレのやり方をさせてもらおう。これも何かの縁だ。
「オレと嬢ちゃんの命、代えてくれや」




