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4.福利厚生は整っている 【転】

 あの頃オレたち兄弟はどこへ行くのも一緒で、オレは兄の、妹はオレの後ろを付いて回った。


『しっかり付いてこいよー』

『待ってよ、置いてかないでってばぁ』

『こら、ちゃんと面倒をみなさい』

 得意そうに尻尾を揺らして、どこにでも付いてくる弟に後姿をみせていた兄も母の後ろを付いて回り、母はそんなオレたちをいつも優しくも懐かしげに見つめていた。今にして思えば、母はオレたちに幼い頃の自分を重ねていたのかもしれねぇな。あくまでもオレの想像だ。

 寝転んだオレの腹に妹が乗っかかってきたり、柱に爪とぎをしようとする妹を母が窘めたり、兄がオレの飯を多く食べて喧嘩になったり。あぁ、あれがきっと「楽しい」ってことだったんだろうな。思い出してやっと気が付いた。あの頃はまだちゃんと楽しかったんだ、オレは。

『おなかすいたぁー……』

『しょうがないなぁ。ほら、食えよ』

『わぁい、ありがとー!』

 兄がどこからか持ってきたボールをオレが取ったり、妹がボールに乗ろうとして転んだり。腹を空かせた妹に兄が自分の分を分けてよこすのを見て、オレも少しだけ妹に分けてやったり。そんなオレたちを見かねた母が、自分の分をオレたちにくれてたっけな。

 瞳を閉じると、微かだがまだ兄や妹と、母の声が蘇る。いつものように暗い路地裏で飯にありついていると、思い出の中にいる母が口を開いた。

『お前たち、よくお聞き』

 母の凛とした声に兄とオレが顔を上げ、オレはまだ飯にがっついている妹を前足で叩く。

『これから先に何があろうと、お前たちは唯一の兄妹だ。互いに助け合いなさい』

 母がどういう意図でそんなことを言ったのか。その時のオレには見当もつかなかったが、今なら分かる。母は母なりにオレたちの未来を案じていたんだ。

 その翌日だったかな。母は突然オレたちの前から姿を消した。兄妹で小さい身体をくっつけて眠っていると、遠くの方で車が音を立てて去る音がしたのを覚えている。もしかすると、あれは、母がホケンジョとやらに連れて行かれた音だったのかもな。目が覚めると、もう母はいなかった。

 それからオレたちは、必死で生きてきた。人間の店が並ぶ路地にあったゴミ箱を漁ったり、食べられるものと食べられないものの区別をつけたり、他の猫の縄張りに入って飯を盗んできたり。

 生きるためにありとあらゆることをやってきた心算だ。

『……ひもじいよぉ』

 まだ幼い妹の、病で弱った声が耳に残って離れない。兄の無感情の瞳が、妹を見て大きく瞬いたのが目に焼き付いている。

 あの日はたしか小雨が降って、どこに行ってもなかなか飯にありつけなかった時だ。

『待ってろ。今とりに行ってるからな』

 これは、誰の声だったか。あぁ、そうだ。これも兄の声だ。弱っていく妹を見ていたくなくて、兄に妹を任せてオレは町中を駆け巡った。それこそ、足が棒になるまでな。だって、そうでもしなければ、オレはわけの分からない恐怖で走れなくなると思ったんだ。

 運悪く人間や縄張りを持つ猫に追いかけられ、やっとの思いで小魚を数匹だけ咥えて戻ると、もうそこにはぐったりと横たわる妹と、それを無表情で見つめる兄しかいなかった。あの幼い頃の元気な妹の姿なんて影も形もない。それが、何となく寂しかった。

 だけど、それ以上に兄の肩を落とした姿が、忘れられない程に怖かった。妹の生気のない身体が、未だに脳裏に焼き付いている。元気だった妹は、紛れもない『死』に迎えられようとしていたんだ。それが、恐ろしかった。

 しばらくして後に、またあの車の音がして、変な格好をした人間がオレたちに向かってくるのが見えた。両手を拡げ、今にも捕まえようとする人間の仕草で近付いてくる。

 あれはきっと、オレたちの『お迎え』なんだ。そのことについて、根拠はないが、確信があった。兄もきっと同じことを感じただろう。

 兄は妹から顔を上げて、オレをじっと見据えた。動かなくなった妹を見つめたあの無表情ではなく、何か決意を秘めた顔で、まっすぐな瞳で語りかけてくる。



『逃げろ』



 それからのことはよく覚えていない。兄の一鳴きでオレは反対側へと身体を振り向かせ、駆け出した。不意に一度だけ振り向くと、兄が妹を咥え、必死で人間を相手に応戦しているのが見えた。あの楽しかった幼い頃の思い出にあったように、オレに背を向けて。

 だけどあの頃よりも成長したオレは、その背中についていくことが出来なかった。兄の瞳が、付いて行こうとするオレを許してはくれなかった。





 あれから、オレは一匹だ。




 一時は町内会のボスにまでなったが、そこでも一匹であることには変わらない。何せオレは生き残ったんだ。生き残ったのならば、生きねばならない。せめて、あの兄がオレに向けたまっすぐな瞳と、妹の弱った声を忘れるまでは、生きていかねぇと許しちゃくれねぇんだ。

 別に、もう今更そんなこと重荷でも苦でもねぇけど。だけど、今はあの嬢ちゃんが何だか弱った妹によく似ているような気がして、今日もオレは公園から嬢ちゃんの家に足を向けた。そんな矢先に、ふと怒鳴り声が耳に入る。

「どうしてミコに話したんだ!」

 今日も元気に夫婦喧嘩とやらが聞こえてきた。どうやら、嬢ちゃんには聞かれちゃまずい話でもしてしまったらしいな。オレは塀の上で立ち止まって、家の様子を窺う。

 人間の会話には、鬼気迫るものがあった。

「そんなことを話せば、ミコが傷つくことなんて想像が付くだろう!?」

「いつか本当のことを話さなくちゃならない時はくるわ!」

「それはそうかもしれないが、なにも今話さなくとも……!」

「そう言うけど、じゃあ一体いつになったら話すのよ!?」

「あなたはこの家の子じゃないなんて、小さなミコが受けとめられるわけがない!」

「事実は事実ですもの! 遅かれ早かれあの子も気が付くわよ!」

「冷たい奴だな! だからミコは出て行ったんだろう!?」

「何よ、私のせいだって言いたいの!?」

「ああ、そうだ!」

 なるほど。どうやら嬢ちゃんは、ついに真実に辿り着いてしまったみてぇだ。人間は、特にガキは自分の出生についてショックを受けるもんだ。何故かは知らねぇけど。それがどうやら嬢ちゃんの場合は家出につながったらしい。親子ともども思い切ったことをするもんだ。


 確かに己を知るということは、とても大事なことだろう。それに気が付くのは若い方が良い。若い方がショックから立ち直りやすいからな。実証はオレで済んでいる。

 まぁ、そもそも、猫なんてものは自立した奴が多いもんだ。各々が自立し、最終的には群れを成す。その群れを維持するために月一で集会なんざ開くもんだから、面倒で仕方ねぇ。けど、集会だって『ホケンジョ』や『クルマ』のルートに関する情報を共有できるから、あながち無意味ってわけでもねぇけどよ。集会を開いてからというものの、この町の猫が路上で野垂れ死ぬことはほぼ皆無になりつつあるらしい。どっかの猫がそんなことを言っていたっけな。


 しかし、よくもまぁ自分の出生なんて気にしていられるよな、人間は。オレはオレで、嬢ちゃんは嬢ちゃんだ。それで良いじゃねぇか。自分が腹違いの子だろうが、どれだけ周りが非難しようが関係ねぇ。自分を育ててくれたり、助けてくれたりするのが実の母であろうとなかろうと、オレからすれば同じだ。いくら自分が腹違いの子であろうと血のつながりがなかろうと、そこに愛や恩がある限り「親」は「親」だ。それで良いじゃねぇか。




 嬢ちゃんの家から慌てて外へ飛び出す親を見送り、オレは考えた。もしも、嬢ちゃんが妹なら。それなら、オレが取るべき行動は何か。オレはどうすれば良いか。その答えを探すべく、ゆっくりと瞳を閉じる。そして、瞳の中に住みついてしまった兄と妹に問いかけてみた。あの日と変わらずに佇むオレの中の兄と妹だ。

 あの頃の兄と妹は暗闇の中に立って、オレを黙ったまま見つめている。兄の瞳が、妹の声が、そのまま答えを教えてくれた。ぼんやりとした光に包まれた母が、オレの背中を押してくれた。



「……ぼちぼち、オレも探すとするか」



 ほら、大丈夫だ。まだオレはオレとして生きていける。

 母と兄と妹が、生きろとオレの背中を押してくれるんだ。

 それに、助けてくれたあの人間も、きっとオレと同じ立場ならそうしているだろうから。



 さぁ、嬢ちゃんを探しに行こう。





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