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3.残業手当は出ていない 【後】

 やがて千夏を刺していた男が、生気のない瞳でふらりと立ち上がる。そのまま離れて行ったかと思うと、正面からやってきたパトカーに包囲された。

 今回は尊い犠牲が出てしまったが、これで事件は一件落着だろう。誰が犯人かだなんて、火を見るよりも明らかだ。

「……よかったな、お兄ちゃん」

「ちなつぅ……!!」

 おれの隣で悲痛な声を洩らすこの男は、近江 千夏の兄らしい。この兄は生前に妹の千夏とよく遊んでいた公園の側にあった踏切で、千夏が暴漢に襲われていたところを助けようとして逆に殺されたらしい。今ではその公園は取り壊されたのか跡形もなくなってしまっていたが、踏切だけは残っていたようだ。そこで、千夏たちの通っていた高校では公園に近いこともあり、尾ひれの付いた噂話として持ち上げられるようになった、とこの兄は語る。

 それはまだ良い。死因から見ても、妹想いな兄だ。ただ、妹への未練が強すぎてあの踏切から離れられなかったようだ。おれがあの子を監視している間ずっとおれの頭の中で「千夏が」と騒いでいた。人間の想いが深すぎるということは、時として考えものだと思い知らされる。

「あぁあ……。あのかわいい千夏に何てことしやがる、あのおっさん」

「待て。落ち着け。もう捕まっただろ」

「……許せん。あの男に呪いをかけてやる……!」

「そんなことをすれば、おれは今すぐにでもあんたを消さなくちゃならん」

「うっ……」

「あの子が死ぬのは分かってたんだ、あんたも妹さんと一緒に逝け」

「うぅう……。千夏……」

 忍び泣きをするこの男に、何度目かの溜息を吐く。

「千夏……。あんなに小さくてかわいくて素直でちょっとやんちゃだった子が……。さらにかわいくなって大人びていたというのに。……勿体ない。……絶世の美女よりも儚い乙女になってしまったのか……」

「でも、あんたが何で死んだのか忘れてたみたいだな」

「千夏ぅ!!」

「おい、待て!」

 兄は辛抱堪らんといったように千夏の遺体へと駆け寄ろうとする。おれとしては、あまり生者がうようよいる空間にある死体に駆け寄ってもらいたくはないから、意志の力で踏みとどまらせる。しかし、じりじりと足はその空間へと向かっていってしまっていた。

 今回は早めに憑依させているから、まだおれに完全な自由はない。千夏にとってこの兄は良い人に思えたのだろうが、この一週間でおれにとっては憑依させたくない奴のリストに名前が載ったことは確かだ。

 最初におれが踏切に降り立ったのを見て、真っ先におれの中に入って生者である千夏と接触しようとしたり、千夏が落し物をしたときに届けようとしたり、真夏の真昼に千夏と話したいと言ってきたが肝心の千夏本人を前にすると恥ずかしがって出てこなかったりと、散々だった。最初に憑依をさせた人とは大違いだ。

 しかし、予想に反してこの兄は愛しの妹の最期を、大人しく受け入れた。おれが何度も邪魔をするなと言い聞かせたからなのか、こいつ自身が運命と言ったようなものを受け入れているのかは分からないが、今までの行動を顧みると意外に思う。

「と、とにかく。今は千夏が出てくるのを待て!」

「もうこれ以上待っていられるかぁ!!」

 怒号ともいえる程の声で叫ばれ、はた、と気が付いた。もしかすると、この兄は千夏が死ぬのを待っていたのではないだろうか。そうでなければ、妹を心配する兄として先程の言葉が出てくるのはおかしい。


「……何だ。あんた、千夏に死んで欲しかったのか」


 凄まじい力で向かっていこうとしていた足が、おれの言葉を聞いて止まった。


「これ以上ってことは、そういう意味じゃないのか」

「……分からない」

「分からないってことはないだろう」

「……分からないんだよ、本当に。俺は千夏に生きていて欲しかった。俺の分までな」

 急に頭が下がってしまって、おれの視界にはおれの足元しか映らない。そして、いくらかトーンを下げたおれの声が頭の中で鳴り響く。その口から零れ落ちる声は、悲しくも妙な喜びが入り混じった奇妙な声音をしている。

 最愛の妹が死んで悲しんでいるのか、それとも妹が自分と同じ存在になったことへの喜びに戸惑っているのか。恐らくは両方だろう。

「でも……。……千夏の、あんな顔を見たら、もう、いいんじゃないかって思った」

「友達と喧嘩したときか」

「それも、ある。けど、千夏にとって「普通」であることが枷になってたんじゃないかって」

 「普通だから何も見えない」と言ってしまったことを気にしているのだろうか。もしも気にしているのだとすれば、この兄も、やはり大事に思っている妹に自分の存在を気付いて欲しかったということなのだろう。

 何度かおれに「俺のことを覚えていて生きることに苦しむのなら、忘れてくれた方が良い」と言っていたような気がしたが、今のこの兄のことを考えると、この言葉の意味は嘘だったということになる。一体こいつは妹に生きていてほしいのか、はたまた覚えていてほしいのか、どうして欲しかったのだろう。

「……面倒な奴だな、あんた」

「なんだと!?」

「だけど、おれが会ってきた中で一番あんたが人間らしい」

 妹には生きていて欲しいが、生きて苦しむ姿は見たくない。自分の分も含めて、楽しく生きていて欲しい。だけど、自分を忘れないで欲しい。

 これほど面倒で欲張りな気持ちというものは、久しぶりに見たような気がする。

「ほら、妹さん。そろそろ出てくるぞ。体返せよ」

「あ、あぁ」

 今回は幽体同士だ。もう憑依をさせ続ける理由はない。それに、この身体もそろそろ回収される時間が来るはずだ。そうなる前に早く返してもらわなければならない。

 目を閉じて体から離れる想像をすると、急に体が重くなった。恐る恐る目を開けると、足のない幽体が目の前に現れていた。これで、もうこの人は泣くことも出来ない。泣く必要がないからだ。

 おれも慌てて体から離れると、時間をいくらか計算違いしていたのか、あっという間に地面から黒い影が伸びて身体を回収しにくる。今回も危ないところだった。未だにあの回収についてどういう仕組みなのかは分からないが、出そびれたらどうなるのだろうと少しだけ恐ろしくなる。

 ふと顔を上げると、向こうから青白い炎が見えた気がした。あぁ、あれは、新しい幽体が出現した証だ。

「出てきたぞ。あんたの会いたがってた、妹さん」

「……そうだな」

 二人で千夏を迎えに行くと、死んで間もない千夏は驚いて目を丸くしていた。もう幽体だというのに、こんな表情も出来るのか。この世の中には不思議なことが多く存在しているなと感心させられる。



「千夏。よく頑張ったな」



 兄は柔らかな微笑みを浮かべながら命よりも大切な妹を迎え、妹は今にも泣きそうな顔で受け入れた。



「お兄ちゃん、ごめんなさい」

「何を謝ってるんだよ。それより、心配したんだからな」

「だって、あたし、お兄ちゃんが守ってくれたの、……忘れてたの。それで、……それで」

「知ってるよ。聞いているから、ゆっくり話せよ。……時間はあるんだから」


 泣いている筈がないのに、千夏は何度も両手で顔を拭って涙の出ない嗚咽交じりに話す。それを、兄はやはり優しい笑顔で見守っていた。

 千夏は、こんな兄がいて少しだけ羨ましいな。ぼんやりとそんなことを思う。


「お兄ちゃんがいなくなって、お母さんが泣いてて、あたしも泣いてたら、お父さんが怒ったの」

「見てたよ。お前ずっと泣きっぱなしで、お兄ちゃん、心配してずっと傍にいたから」

「……お兄ちゃんが。……あたしの、せいで、死んだって、思って」

「馬鹿だなぁ。かわいいお前を守って死ねたんだ。本望だよ」

「それで、ずっと悲しんでたら、お母さんが悲しむから、忘れなさいって」

「……そうだな」

「でも、あたし、忘れたくなかった」

「……うん」

「お兄ちゃんは死んだってあたしのお兄ちゃんだもん、優しくて強くて、大好きで」

「……千夏」

「でも、忘れないと、お母さんも、お父さんも……!」


 そこで、千夏はとうとう顔を伏せてしまう。この兄の大事な妹は、兄との思い出が大切だったからこそ壊されまいと記憶の奥底にまで仕舞い込み、果てはその存在すらも忘れてしまった。

 それはきっと妹にとって望まぬ結果だったのだろう。千夏が肩を小刻みに震わせ、拳を強く握りしめたのが見える。その様子を見ていた兄は、そっと優しい微笑みを浮かべた。


「あたしが……あたしがもう少し強かったら……忘れなかったのに……!」

「お兄ちゃんも、忘れられなかったよ。何度も忘れようとしても、離れられなかったんだ」

「お母さんも、お父さんも普通の女の子らしくしなさいって。……でも!」

「もう、いいんだ。千夏。よく頑張ったね」



 触れられない筈なのに、兄は嗚咽を洩らす妹の頭を抱き寄せて、優しく撫でる。



「会いたかったよ、千夏」






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