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3.残業手当は出ていない 【結】

 最悪の一日が終わって自転車のペダルを気だるげに漕ぎながら、見慣れた道を走り抜ける。あたしの家は学校や街から少し離れた場所にあって、帰り道は都会から田舎道へと変わってしまう。そして、この交差点を過ぎると辺り一面の田んぼだらけになる。それが、あたしの帰り道だ。

「……あ。赤とんぼ」

 ぼんやりとしていると、ついと赤とんぼが目の前を横切る。この道は夏になると赤とんぼが多く飛び交い、いつも鬱陶しいなぁと思っていた。だけど、今はそんな風に思うこともない。ただ、懐かしさだけが胸にこみ上げてきた。どこかで似たような光景を見たような気がする。

 そうだ、夢でこの光景を見たんだ。どうしても顔がはっきりと思い出せない兄と、幼いあたしが手を繋いで帰って一緒に赤とんぼを眺めていた夢だ。

 兄は家の近くの公園で遊んだり、学校の裏山を登ってもう歩けないとぐずるあたしをおんぶしてくれたり、小学校のガキ大将に勝負を挑んであたしが勝つと困ったように笑って褒めてくれた。その後でその子の家へ謝りに行かされたけど、兄も一緒に着いてきてくれた。

 そういえば、その時に深い藍色のヘアピンを貰ったような気がする。そうか、いま着けているこのピンは、兄からの貰い物だったっけ。大きな掌の上に小さなヘアピンが似つかわしくなかったから、幼い私は呆気にとられていたような気がする。あたしの間抜けな顔を見ていた兄が噴き出し、それに怒ると謝りながら頭を撫でてくれた。

 あの温かくて大きな掌に撫でられると、何でも許してくれるような気がして好きだった。あの柔らかい微笑みを見るだけで、何か問題を起こしても大丈夫なんだと思えた。そんな兄の最期が、思い出せない。



「……悔しいなぁ」



 もしかすると、これが普通なのだろう。年数で換算してみれば、もう何年も前のことだ。いくら衝撃が大きかったとはいえ、あたしは無意識のうちにその記憶を奥底へ封じ込めてしまったのかもしれない。だけど、今はそれを思い出したくてたまらなかった。


 何があっても、兄のことを忘れてはいけないような気がする。だけど思い出せない。あたしの本音と一緒に、記憶の底へと沈めてしまったからだろうか。「普通」であるために、あたしの願望ごとなかったことにしようとして。


「……なに考えてんだろ」


 情緒不安定になっているんだ、あたしは。こんなこと、あまり考えたこともなかったから、これ以上は深く考えられない。この思い出については、後回しにしよう。

 ふと気が付くと、あの真っ黒い影と出会ったあの踏切の前に来ていた。知らず知らずのうちに来てしまうということは、あたしも気にしているのだろうな。そう思うと、何故だか笑みが零れる。

 すると、物音がして線路の上に二つの人影があることに気が付いた。ぎょっとして眼を向けると、前方にある線路の上で、小柄な男と小学生ぐらいの女の子が立っている。女の子は赤いランドセルを背負って、男を見上げていた。あたしと兄も、あのぐらいの身長差があったのだろうか。

 しばらく微笑ましく眺めていたが、近付くにつれて、どうも穏やかではない雰囲気に気が付いた。小柄な男の手元には、出刃包丁のようなものが握られている。女の子の表情も、恐々としたものだ。もしかしなくとも、この男は不審者だろうか。万が一に親子だったとしても、この状況はおかしい。

「ちょっ。ちょっと、何してるの!?」

 慌ててペダルを漕ぐ足を踏みしめて、ブレーキを握って弧を描きながら、男と女の子の間に割って入る。二人とも否が応でもあたしを意識するようになり、女の子は大粒の涙を目の端に溜めた。

「あんたがどこの誰か知らないけど、そんな物騒な物しまってよ」

 小柄な男は顔が見えないように、この暑いのに目出し帽を被り、首から下は半袖半ズボンと奇怪な格好をしていた。どこかで聞いた話によると、夏よりも春や冬の方が不審者は出やすいということだったが、その原因の一つとして服装も組み込まれているのかもしれない。

「……どけ」

 男の表情こそ見えないが、野太い声で言われると身体が竦んでしまう。だけど、ここで男の言う通りにしてはそれこそ意味がない。頑張れ、あたし。

「あんたがどきなさいよ。そこ、あたしの帰り道なの」

 少し怖くて声が裏返りそうになったが、どうにか抑える。今になって思えば、警察に連絡をしてからの方が良かったのかも。考えるよりも体が動いてしまっていたから、後の祭りだ。

 あぁ、これが「普通」のあたしだったら、こんな間近で怖い人と対面するようなことにはなっていなかったのだろうな。

 ちらりと女の子の方を見ると、女の子は硬直してしまって動けないようだ。溢れんばかりの涙も止まってしまっている。かわいそうに。

「どかないと警察を呼ぶわよ」

「……!」

「……あの、お姉ちゃ」

「大丈夫。守るから」

 女の子を安心させるようにそう言ってみせて、はっとなった。そういえば、昔あたしも誰かにそんなことを言われたような気がする。優しい声と、優しい笑顔に。

「あなたは来た道を引き返して、大人を呼んできてちょうだい。絶対にここは通させないから」

「え。でも、お姉ちゃんが」

 硬直状態から次第に溶けてきた女の子は、戸惑った声を出す。それもそうだろう。見ず知らずの大人の男に包丁を突き付けられたと思いきや、次は見ず知らずの大きな女の人がやってきて、置いて行けと言う。それはどこかのドラマのようで。あたしも、実は今もあまり現実味が感じられない。

 本当に、あたしは何やっているのだろう。助けないわけにはいかないにしろ、こんな犯罪者予備軍と直接対決だなんて、いつものあたしなら恐らくやらなかっただろう。だけど、今となっては思い出せない兄のことを考えていたら、女の子の姿が昔の自分と重なってしまった。

 ただ、かつて兄が公園で不審者からあたしを助けてくれたように、今度はあたしがこの子を助けたい。それだけが頭に浮かんだ。

「早く!」

 怒鳴ってみせると、女の子は弾けたようにして踵を返して走り去っていく。幼い子どもの走りなんて、たかが知れている。あたしは今ここでこの男を退散させるか、時間を稼がなくてはならない。そのことに集中して取り掛かろう。

「そこをどけ、どかないと」

「あたしもその包丁で刺すって? いいの、そんなことして」

「刺されたくなかったら今すぐどけ!」

「バカの一つ覚えのように何度も繰り返さなくてもいいのに」

「この……!」

 退散させるのは流石に無理か。今度は交渉してみよう。上手くいけば姿を消してくれるかもしれない。

「今ならまだ未遂だし、あの子が連れてくる警官からも逃げられるのよ。さらに、お得な情報としてあなたと口裏を合わせても良いわ。その方があなたにとっても好都合じゃない?」

「……どういうことだ」

「あなたとあたしは遠い親戚関係で、その持っている包丁も玩具ってことにして、驚かせたかったってことにしたらいいじゃない。あなたがあの子に何の恨みがあるのか全然しらないけど」

「…………関係ない」

「そう。じゃ、警察を呼ぶわね。あなたの選んだ道よ。仕方のないことよね」

 鞄から携帯電話を取りだし、ボタンを押す。実は最初からかけていたのだが、あの場で知らせてこの男が逆上すれば、最悪の事態としてあの女の子にも被害が及んでしまうことも考えられる。それだけは避けたい。

 通話ボタンに手をかけたその瞬間、男はその小柄な身振りにそぐわず鋭い瞬発力を示した。男が奇声を発しながら、真っ直ぐにあたしを目掛けて飛び掛かってくる。慌てて自転車を男の方に倒すと、男は倒れ掛かってきた瞬間に自転車を片足で蹴り返し、あたしは自転車に押し潰された。


「うっ……」


 自転車の重さが胸を圧迫してしまって、すぐには退けられそうにない。早く体勢を立て直して、あの男から逃げなければ。

 そこまで考えて、鈍い音が腹部から聞こえた。男の驚いた顔に、音の後からやってきた熱い痛みや男の持つ出刃包丁の切っ先。この痛みは。この男の表情は。出刃包丁の見えない切っ先は。



「あ……」



 刺された。男が出刃包丁を持っていた腕を後ろに引き、その手を戦慄かせる。じわりとやってくる痛みに、頭が混乱した。

「……ぅ、ぁあああああ!!」

 痛い。熱い。痛い。熱い。熱い。熱い。男の狂ったような咆哮が耳に入って、次々に襲いくる恐怖からの攻撃が、腹に、胸に突き刺さってくる。

 もう、男の顔は見えない。痛くて、熱くてそれどころではない。だめだ、これ。あたし、こんなところで死んじゃうんだ。こんな筈じゃなかったのに。兄のように恰好良く、優しい笑顔で「もう大丈夫だよ」ってあの子に言ってあげたかったのに。




 死ぬんだ、あたし。




 ふと、今は到底そんなことを思い出す状況でもないのに、今までずっと思い出したくても思い出せない記憶が奥底から浮かび上がってきた。




「ちなつ、生きてくれ」



 消毒液の匂い。ぐるぐるに巻かれた包帯に、くぐもって聞こえる兄の声。半狂乱になって泣き暮れる母の声。父のすすり泣き声。微かに生きていることを示す心電図。医者の険しい表情。頭を下げた花。冷たい兄の手。兄の頬を濡らした冷たい涙が、あたしの手に落ちた。


「たのむ……」


 兄は、もうすぐ死ぬ。あの優しい笑顔で「上手だね」と褒めてくれなくなる。もうあの温かくてしっかりとした大きな掌で頭を撫でてくれなくなる。あたしに少しだけ意地悪をして困らせてから「冗談だよ」と笑ってくれなくなる。悪いことをすると一緒になって謝ってくれて、「やんちゃだな」と言われなくなる。



 死ぬって、そういうことなんだ。それが兄が教えてくれた最後のことだ。




 そんなの、知りたくもなかったよ。お兄ちゃん。




 そんなことに気が付くのに、だいぶ時間がかかってしまった。そうだと気が付くまでに遅かったのは、やっぱり私が悲しいまでに、「普通」であろうとしたからだ。




 悲しんじゃいけないよ。お母さんが悲しんじゃうから。

 泣いたら、いけないよ。お父さんが怒っちゃうから。

 忘れちゃ、いけないよ。お兄ちゃんが忘れられちゃうから。




 そして、あたしはみんながあたしに求めてくる「普通」に染まってしまった。




 ほんとうは、身を引き裂かれる程に悲しかった。

 ほんとうは、大声を上げて狂い泣きたかった。

 ほんとうに、焼かれてしまうほど苦しかった。




 もう、泣いてもいいんだね。お兄ちゃん。




 あぁ、そうだ。もう泣けないんだった。あたしの頭は、手は、足は、もう動かない。



 真っ暗になっていく視界の端で、赤とんぼが悠々と空を飛んだ。









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