3.残業手当は出ていない 【転】
今回の内容は少しだけ女性同士の喧嘩描写が含まれるので、不快に思われる方がいらっしゃればすみません。
あの男の子の姿を見てから、これ以上もう驚くことなどないだろうと思っていたら、非日常はある日突然やってきた。
最近になって学校に行くと、教室に入るや否やキナから質問された。やはり何か見たんじゃないか、早く教えてなさいよ、と問い詰められる。あんなことがあった日の翌日から、毎朝この様子だ。
あまりあのことは思い出したくなくて適当にはぐらかすと、キナは拗ねたように自分の席に戻っていく。その様子にほっと胸を撫で下ろし、ふと背後から視線を感じた。たしか後ろの席は。
「どうかしたの、エミ?」
「……ううん。おはよ、千夏」
曖昧に笑うエミと目が合った。もしかしてまだ心配してくれてたのかな。あとでそれとなく謝っておこう。
今日もつまらない授業が始まって、友達とお昼ご飯を食べて、授業後に駄弁って帰る。ところが、異変に気が付いたのはお昼の時間だった。
「エミ、一緒に食べよー」
「ごめーん、あたし購買で買ってくるねー」
「あ、私もー」
「先生に呼び出されちゃってさー」
エミもキナもミオも、そう言ってさっさと教室から出て行ってしまった。あれ。いつもなら一緒に買いに行くのにどうしたのだろう。別にお弁当ぐらい一人で食べられるから構いはしないのだけど、何だか寂しい。
「もー。三人ともひどいなー……」
いつもなら気にならない教室の騒がしさが、今は何だか胸を締め付けてくる。そうだ、どうせ一人なら、屋上にでも行ってみよう。それで、良さ気なら今度はあの三人も誘ってみようかな。
長い階段をやっとの思いで上り終え、あとは目の前の扉さえ開けば屋上だ。青春ドラマを見て密かに憧れていた場所だ、今は真夏の昼間だから暑いだろうけど、それよりも屋上から見える景色の綺麗さに気にしなくなるだろう。屋上への期待に胸を膨らませてドアノブをひねる。屋上への扉は重々しい音を立てて、あっけなく開いた。
「……汚いな、こりゃ」
視界に広がったのは一面のビル街、ではなく薄汚れた野球のボールや、誰かが残して行った残飯、お菓子の袋に空き缶だ。ここに来るまでに鍵はかかっていなかったところを見ると、誰でも出入りは自由のようだ。我が高校ながら不用心すぎる。
日陰になる場所を探して、そこに腰を下ろす。ふと目の前に広がる灰色のビル街を眺めてみた。真夏の日差しに焼かれ、ビルの窓ガラスが眩しい程に光を反射する。車の排気ガスで少し煙ったように見える空気に、車が行きかう騒がしい音。
「思ってたのと、違うようなー……」
現実はこんなものか。期待していた分だけ落胆もかなりのものだ。がっくりと肩を下げ、仕方なく弁当箱を開ける。こんな場所でも、教室よりはいくらかマシに思えた。
「いただきまーす」
弁当箱にある冷凍食品を一品ずつ胃に収めながら、三人の様子を思い出す。あのことがあってから、何となく三人とも様子がおかしい。どこかよそよそしい感じがする。もしかして、変な子だと思われたのだろうか。それでみんな離れてしまったのだろうか。
嫌な予感がして、思わず体が震える。いや、きっとあたしの思い込みのせいだ。本当は、三人ともいつもと同じ反応をしているだけかもしれない。きっと、そうだ。
「だって、あんなの信じてくれるわけないじゃん……」
はぁ、と溜息を溢すと、後ろから誰かの声がした。
「それが普通の人間の反応だ」
「そりゃそうだけど……噂の場所でそんなもの見たなんて、普通じゃ……」
あれ。あたしってば一体ここで誰と話してるんだっけ。
「偶に見える奴がいて驚かされるな」
「きゃああ!!」
勢いよく声のする方へと振り向くと、あの真っ赤なマフラーを巻いた虚ろな瞳の半袖少年が隣に立っていた。少年は視線をあたしにへと向けずに、代わりにビルの方へと向けている。
何で、どうして。あの踏切じゃないと現れないんじゃないの。それに、夕方ならまだしも今は真昼間だ。そんな時間帯に、どうして。
「な、何で」
動揺するあたしに構わずに少年は目もくれずに言葉を投げつけてくる。その淡々とした口調は、どこか素っ気なくもあたしを心配しているような声音だった。
「なぁ。何してるんだ」
「それより、あんた、その」
「あそこで声をかけようとしたら帰っちゃったから、追いかけた」
「へ?」
「落し物、してたし」
男の子というよりは少年と思える子どもは、声変わりのしていない声で拗ねたように話す。落ち着け、あたし。あたしはきっと何か勘違いをしているんだ。この子は、本当は踏切から帰る途中にいて、あたしがストラップを落としたのを偶然にも見つけた子だ。そういうことなら、納得できる。だけど。
「…………」
ビル風にたなびく長い真っ赤なマフラーを視界に映す。やっぱりおかしい。こんなに暑い夏の日に、あの暑そうなマフラーをしているなんて。普通じゃない。
乾いた唇を舐めてから、恐る恐る聞いてみる。
「あの、あなたって、幽霊?」
あたしを一瞬だけ一瞥した少年はふと考え込む動作をしてから、口を開く。説明をするのも億劫だとでも言いたげな雰囲気だ。
「……そんな感じ。別に怖いものじゃない。幽霊なんていくらでもいる」
「あぁあ……。普通じゃないのかな、あたしって」
「普通だよ。悲しいくらいに」
思わず頭を抱えると、抑揚のない声が隣から聞こえた。普通だと言ってもらえたのは嬉しいけれど、「悲しいくらいに」とはどういう意味だろう。
「え。えっと、どういうこと?」
「普通であるが故に、あんたの死んだお兄さんが傍にいることも気付けない」
「……!」
胸の奥がざわめき、呼吸が出来なくなる。どうして、何年も前に亡くなったあたしの兄のことをこの子が知っているのだろう。たしかに五つ年の離れたあたしの兄は、あたしが物心ついてしばらくしてから事故で亡くなった。だけど、そんなこと誰にも話したことがない。話す必要もなかったし、話したところで気まずい雰囲気になるだけだ。
この少年は、いま何と言った。兄が、あたしの傍にいるって。
「……お兄ちゃんが?」
馬鹿を言わないで。そう続けようとして、言葉に詰まった。
「……っ!」
少年がいつの間にかあたしの方を向いて、何の感情も見えない瞳であたしを見ている。その真っ黒な瞳に、吸い込まれてしまいそうな気がして、背筋が凍った。まただ。少年は、あたしの様子にも構わずに次の言葉を繋げる。
「あんたは、生きるうちに見失ってしまったんだ」
「はぁ?」
「もうあんたは、普通でいることしか出来ない」
「……ちょっと。何言ってんの?」
戸惑うあたしに、少年は真っ直ぐにあたしの目を見つめる。次々と語られるその言葉は、まるで深い暗闇から浮かび上がってくるようだ。いつの間にかあたしの中で閉じ込めて沈めてしまった、あたしの言葉を、代弁するかのように。
「お兄さんを否定することで、普通になってしまったあんたには、もう何も見えないよ」
少年がそう告げた途端に、ビル風でもない冷たい突風が吹き荒れ、その風の音に混じって随分と昔に忘れてしまっていた声が聞こえてくる。
そうだ。あれは、兄の優しい声だ。
「ちなつ」
あの声は、いつのものだったっけ。兄と一緒に近くの遊園地に遊びに連れて行ってくれたときだったかな。それとも、公園で遊んでいたら不審者がやってきて、あたしにちょっかいを出そうとしたのを兄が助けてくれたときだったかもしれない。はたまた、本当はそんなことを言っていなかったのかも。
思い出せない。とても大事な記憶のことだったような気がするが、思い出そうとしても頑丈な蓋をされているようで、何も思い浮かばない。
不思議と涙が出てきて、戸惑った。いったいあたしは何が悲しいのか。それすらもわからない。何でいきなり、こんな涙なんて。
「あんたは、普通なんだ」
少年が諭すような口調で語りかけてくる。いったい何だと言うのだろう。普通であることの何がいけないのか。普通でないことを憧れた時期も少しだけあったけど、それよりも周りに上手く溶け込むことの方がずっと大事だろう。そのためにも「普通であること」は必須条件だ。
反論しようと顔を上げると、既に少年の姿はどこにも見当たらなかった。慌てて周囲を見回してみるが、本当に少年がここにいたかも怪しいほどに屋上には何の変化も無い。
辺りを見回していると、不意に背後で扉の開く音が耳に入ってくる。慌てて振り返ると、エミにキナやミオの三人がそこに立っていた。
「あ。エミ、キナ、ミオ。三人ともどこ行って」
「あのさ、千夏」
あたしの声を遮るようにキナが話しかけてくる。そのただならぬ雰囲気に呑まれてしまって、口を噤んでしまった。何事かとキナを見つめると、険しい顔のままで歩み寄ってきて、口を開く。
「あんた、おかしいよ。あの踏切で絶対なんかあったでしょ」
「え、いや、だから」
「そうやって隠し事されんの、すごいムカツクんだけど」
「え……」
思わず絶句してしまう。別に、あたしはキナのことを馬鹿にしたつもりはないし、これからもそんな風に思うことなんてない。
「あれから連絡しても出ないし、聞いても誤魔化すし、わたしらのことなんだと思ってるわけ?」
「あの、その」
「前から思ってたけど、あんたのその態度ムカツクの。なに真面目ぶってんのさ」
「……別に、あたしは」
「あと、男子に人気があるからって調子にのらないでよね。キモイから」
「え!?」
いつからキナにそんな風に思われていたのだろう。連絡に出れなかったのは悪いとは思う。誤魔化してしまったのも悪いことかもしれない。
でも、わざわざみんなを怖がらせることないと思ってのことだ。それに、男子に人気がある、だなんて初めて聞いた。それは流石に嘘かもしれない。だけど、あのことを話さなかっただけで、何でこんな言われ方をしなければいけないんだろう。
あたしは、ただ普通であろうとしただけだ。それなのに。
「さっきも何かここでぶつぶつ言って、不思議ちゃんキャラぶろうとしてたみたいだけど」
「ち、ちが」
「さっさとどっか行ってくれない?」
軽蔑の視線を投げて遣すキナに、あたしは頭を鈍器で殴られたような感覚を覚えていた。やはり、普通であることも、あたしには無理だったんだ。
普通でいれば、女の子の友達だって出来るはずだと思っていた。だけど、いつも一方的な想いだけで、毎日が不安だった。それが長引けば長引くほどに、不安という感覚は麻痺してしまって、気が付けば忘れてしまっているほどだ。だから、あたしは「普通」であることにこだわる。
そうしなければいけないような気がしていた。別に友達はいてもいなくても良いはずだった。寂しいわけでもないし。それでも、あたしはそうしなければいけないんだ。今となっては最早きっかけが何だったのか思い出せないけれど。
「言いすぎだよ、キナ。私たち友達でしょ?」
助け舟を出そうとしたのかエミがキナに話しかけると、キナは思い切り顔を顰めて、言い放った。
「別に友達だなんて思ってないし。その友情ごっこ、キモイからやめて」
あたしはそれを聞いて、何故だかひどく納得してしまった。みんなの中で違和感を最初に感じたのは、あだ名で呼び合うときのことだ。キナやミオやエミは二文字だからそのまま。それでも、一緒にプリクラを撮るときや何かを書くときには、決まってあたしだけ漢字だった。そのことを言うのも何だか子供染みているように思えて言い出せなかったが、もうあの時には、既に友達とは思われていなかったのかもしれない。
キナがあたしに話しかけるときは普通でも、キナはあたしが話しかけるときには一瞬だけ嫌そうな顔をする。エミやミオが話しかけても、そんな顔をする素振りは見せないのに。
「そう。それじゃ、ごきげんよう。キナ」
動揺しているのに、頭はひどく冷静だ。何だか体の中にある熱が、波がざっと引くように冷め切ってしまっている。
それでも、あたしは「普通」だ。異常なんて、どこにもない。友達だと思っていた子に友達じゃないと言われたのも、そう思われていたのも普通のことだ。これはただの気持ちの擦れ違いというものだろう。どこにでもある話じゃないか。よくドラマでもこういう展開がある。それと同じ。
また最初に戻っただけだ。この学校に入学して、友達が一人もいない頃に戻っただけの、あたし。胸は痛まない。その筈だ。その筈なんだ。だって、あたしが普通なんだから。
それでも、普通って案外つまらないものなんだな。




