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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第八章
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森の朝 … 7


 王都に集まった民の喧騒とはかかわりなく、森の夜は静かに更けていった。秋の夜は長く、明るい月と満天の星は、獣や虫の声に満ちた森の大気に神秘的な気配をまとわせる。


 ひたすらゆっくりと、闇が支配するときは過ぎていく。


 そして、にぎやかな鳥のさえずりが夜の生き物の息吹に取って代わると、暁の太陽が天空へと昇りはじめるのだ。


 風は木々の枝をゆらし、葉擦れの音とともに日の光は木漏れ日となって、森の朝の空気を輝かせる。


 ローレリアンが目をあけて真っ先に見たものは、その光の断片だった。


 渓流の音がかすかに聞こえる部屋のなかに、いくつもの小さな光が折り重なるようにして舞っている。


 まだ半分も覚醒していない意識には、ここが何処だか分かっていない。


 ただ、刻一刻と姿を変える光が、美しいなと思う。


 身体が重くて動かなかった。


 瞬きもままならない。


 泥のように疲れていた。


 身も、心も。


 ふたたび眠りに落ちてしまいそうだ。


 何も考えずに眠りを貪ったのは、ずいぶん久しぶりなのだ。


 このところ寝床に身体を横たえても、なかなか寝つけない。


 夜中に何度も目が覚めて、そのままむなしく、暗がりをながめながら朝を迎えることもある。


 ああ、これは。


 気持ちがいい……。


 誰かがそっと、髪を梳いてくれている。


 人の手の感触は、どうしてこんなに気持ちが良いのだろう。


 ふいに、声が聞こえた。


「目が覚めた?」


 胸の奥で心臓が大きくひとつ、脈打った。


 ―― 誰だ!? 宿直役の侍従じゃない!


 全身から一斉に、冷たい汗がふきだした。


 まどろみのなかに漂っていた意識を、懸命にたぐりよせる。


 少しずつ、感覚がもどってきた。


 目に映る景色も鮮明になっていく。


 ここは石造りの小さな館のなか。


 谷川に面した部屋だ。


 梁がむきだしの天井は、かなり古い年代のもの。


 そして――!


「モナ……!」


「おはよう、リアン」


 ローレリアンの目の前で、すみれ色の瞳が笑った。


 本当に目の前だ。


 あと少し近づいたら唇が触れあうほどの距離に、モナの顔がある。


 わけがわからなくて、ローレリアンは手をのばして自分が身体を横たえている場所を確認した。


 まちがいない。自分はベッドのなかにいる。


 寝具は人の体温で心地よく温まっており、古い建物の小さな窓からは朝の光がさしている。


 モナと派手な喧嘩をしたあと気が遠くなったところで、ローレリアンの記憶は途切れていた。部屋の様子からして、昨日訪ねたヴィダリア侯爵家の狩猟小屋からは移動していないようだ。つまり、自分は同じベッドで、彼女と一夜をすごしてしまったということなのだろうか。


 自分が置かれている状況を、必死に考える。


 いつのまにか、乗馬服は夜着に取り替えられている。いったい誰が着替えさせたのだろうか。


 下履きの下着は、脱いでいない。ありがたいことに。


 彼女はベッドから身を起こして、薄い夜着のうえにガウンを羽織ろうとしている。


 その後ろ姿に、眼が釘づけになった。


 長い髪を片手でかきあげながらガウンを羽織る女の後ろ姿は、ひどく扇情的だ。見せつけられた柔らかそうなうなじへ、噛みつきたくなる。


 彼女はわかっていて、若くて馬鹿な男の目の前に、綺麗なうなじをさらしているのだろうか。


 衝動に負けまいと、ローレリアンは何度も深い呼吸をくりかえしながら身じろぎした。


 ベッドから離れた彼女が言う。


「お水、飲む? あなた、声がかすれてるわよ」


 小さなテーブルの上で、クリスタルの水差しからグラスに水が注がれる。


 水音を聞いたら、焼けつくように喉が渇いていることに気がついた。


 まるっきりいうことを聞かない手足をひきずるようにして、ローレリアンはやっと、半身を起こした。


 差し出されたグラスを受け取って、いまだに目覚めていない舌や喉をだましながら、水を飲み下して渇きをなだめる。


 渇きがおさまると、しだいにまともな思考力がもどってきた。


 ローレリアンは、うめくように言った。


「モナ、昨日のお茶には、何が入っていたんだ?」


「モンタン先生特製の睡眠薬よ。効き目が劇的すぎるうえに寝覚めが悪い薬だから、あまり実用性はないんだって、先生はぼやいていらしたけれど。

 ごめんなさい。どうしても、あなたをここへ、ひきとめておきたかったの」


「だからって、こんな……」


「だって、あなたはすごくお酒に強いって話だから酔いつぶすのは無理だと思ったし、わたしの魅力でひきとめられる自信もなかったし」


「きみの……、魅力?」


 モナはうつむいて、かすかに赤くなった。


「あなたと、どうしても……、一晩、いっしょにいたかったのよ」


 彼女のそのひと言で、ローレリアンのもとには理性と思考力が駆けもどってきた。やっとモナの意図に思い至ったのだ。


 結婚前の女性が男と一夜をともにするなど、ローザニアの男女の貞操観に照らしてみれば、破廉恥極まりない行為だ。たとえ誘惑したのが男のほうであろうと、世間は純潔を失った女性を愛欲に耽る淫婦のように噂する。


「なんてことをしたんだ! これで、きみの名誉は地に落ちたも同然じゃないか……!」


「ごめんなさいっ! 叱られるのは分かっていたけれど。あなたもいろいろ、言われるだろうし」


「わたしのことは、どうでもいい。だけど、きみが……!」


 大声を出したら、頭の芯に鋭い痛みが走った。息を詰めてやりすごすと、つぎは容赦なく吐き気が襲ってくる。


 夜着の胸元をつかんで、大きくあえいで耐える。


 激しい眩暈がして、指先が冷たい。


 ローレリアンは、情けない気分でぼやいた。


「なるほど。寝覚めが悪いとは、こういうことか。確かに、この薬には、実用性など期待できないな」


「横になってよ、リアン。どうしよう、わたしが馬鹿なこと思いついたから。医者を呼びましょうか? ひどく苦しい? ごめんなさい、リアン」


 うろたえたモナは、涙ぐんでいる。


 どうして自分はいつも、彼女にこんな顔ばかりさせるのだろうかと、ローレリアンは歯がみした。


 身体を起こしていたほうが楽だと言ったら、モナがそばに座って、上体を預けさせてくれる。


 彼女に抱きしめられたら、全身から力が抜けた。


 いい香りがした。


 やはりモナは、どんなにお転婆ぶりを発揮しても、使用人にかしずかれて暮らしている貴族のお姫様だ。夜着にまで、香が焚きしめてあるのだ。


 不謹慎にも、考えてしまう。


 モナは、もっとも確実な方法をと考えて薬など使ったようだが、そんなものは必要なかったのだ。


 彼女が着ているガウンの打ち合わせは、胸の前のリボンで軽く閉じられているだけだった。おかげでローレリアンには、薄い夜着を通して、モナの身体の感触がそのまま感じられた。静かな息遣いとともに、艶めかしく動く柔らかい胸や、若さを誇る娘らしい、生硬くてなだらかな腹の曲線などが。


 酒を一杯ふるまわれたところに、彼女がこの姿で現れて迫ってきたら、自分はまちがいなく誘惑に負けただろう。後先考えずに、彼女に夢中になっていたはずだ。


 ローレリアンは、長い吐息を吐きだした。


 モナに抱かれていると、なぜこんなに、切ない気持ちになるのだろう。


 嬉しいはずなのに。


 自分はずっと、彼女とこうしたかった。


 身体を近づけて、全身で彼女の存在を感じたかったのだ。


「まだ苦しい?」


 心配そうにたずねられて、苦笑してしまった。


 苦しいのは体調が悪いせいなのか、今まで気持ちを押さえつけてきたせいなのか、良く分からなくなっていた。


「ねえ、リアン」


「しばらく、黙ってて」


 彼女の腕をほとき、逃げる隙も与えずに、懐へ抱きしめる。そのうえで乱暴に唇を重ねて、ローレリアンはモナの言葉を奪い取った。


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