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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第八章
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森の朝 … 6

 森のなかでの出来事は、当事者とローレリアン王子に近しい側近二人の胸の奥へ封印された。王位に近い場所にいる王子の恋は、王国の行く末を左右しかねない大事件なのだが、いまその事実を知るのは森を吹きわたる秋の風だけである。


 やがて秋の日の落日はいつもと変わりなく釣瓶(つるべ)落としの勢いで地平にかくれ、森もプレブナンの街も闇に包まれた。


 しかし、その日の暗くなった街路には、たくさんの人々がいきかっていた。国王の生誕50年を祝う祭りが近日に迫ってきているせいで、王都は地方から集まってきた人でにぎわっていたのだ。夏におこったレヴァ川の東岸の街を3分の2も失う大火の影響で祝典の規模はかなり縮小されていたが、ローザニア王国の民の多くは、国王の結婚を祝いたくて浮かれていたのである。


 国民はみな、新聞などを通して知っていた。祝典のさい国王と結婚して新たに王妃となるエレーナ姫は前王弟の忘れ形見という高貴な血筋にある方で、20年以上も寵妃として国王につかえてきた思慮深くて美しい人である。一時、国王と寵妃は遠く離れて暮らしていたが、そのあいだ国王はいっさい女性を身辺に近づけようとはせず、周囲の事情が許すようになったいま、望みを遂げようというのだ。


 国民にとって、これは、すばらしいロマンス物語であった。


 自分たちの国の王が20年ものあいだ想いつづけた人と結ばれるのは、たいへん喜ばしいことである。


 しかも、この結婚によって国民は、彼らが『ローザニアの聖王子』と呼んで慕うローレリアン王子を、王位継承権を持つ嫡流の王子としてむかえられるのである。


 国民は浮かれ騒ぎ、新聞や雑誌では大真面目な論調で、ローレリアン王子が将来王位に着く可能性の予測や、その方法論などが論じられている。


 さきほどからテーブルの上に複数の新聞を積み重ねて読んでいた男は、深いため息とともに紙面から顔をあげた。


 彼が簡単な夕食を取っている店は、王都の南端にある駅馬車の発着地マントニエール広場にある小さなカフェだった。近ごろ、平民の社交場であるカフェは、こんな王都の隅にまで存在するようになったのだ。


 もっとも、マントニエール広場のカフェの客の主流は、地方から王都へやってきた旅行者や、近隣にある小さな町工場の関係者などである。店に置いてある新聞も、社会的な問題を論じる『サンエット』などの格調高いものではなく、三面記事を過激に書きたてて庶民に娯楽を提供する、ゴミのような内容の新聞ばかりだった。


 ふいに、男は背後から話しかけられた。


「おや、意外だね。改革の旗手、筆を剣の代わりにかかげるジャン・リュミネともあろう者が、こんなゴミ屑新聞などを、読んでいるなんて。かくれて暮らしているせいで、活字に飢えてしまったのかい?」


 男はふり返りもせずに、低い声で背後に答えた。


「こんなところで、俺の名を呼ぶな」


 相手の男は整った顔に笑みを浮かべ、ジャンがすわっているテーブルの前にまわりこんできた。


「大丈夫だよ。この店は夜になると酒も出す店だから、みんな酔っ払ってる。おまけに今の時期、王都の飲食店で夜をすごしているのは、地方から祭り見物にやってきた『おのぼりさん』ばかりだしね」


「まあ、確かにな」


 彼らの周辺には喧騒が満ちている。王国の南への出発地であるマントニエール広場周辺の宿屋は、どこも祭り見物の客で満室なのだ。


 酒が入った男たちは、大声でいろいろなことを話している。


 祭りの目玉として王都の民の憩いの場であるビヨレ公園に準備され、お披露目を待つばかりとなった『ラカン公爵の鋼鉄の荷車』の噂。


 ローレリアン王子の花嫁候補として式典に招待されている他国の姫君たちの品定め。


 燃えてしまった王都の東岸の街に新しく建設される公共施設のこと。


 冬を迎える前に急いで進められている貧しい人々のための共同住宅の工事の進み具合。


 豪気なことに国王は、この共同住宅の家賃を入居から一年間は無料にすると発表していた。王室に何か慶事があったとき、軽犯罪で牢獄へ収監されている罪人に特赦があったりするのはよくあることだが、ここまで大盤振る舞いをする王は過去にもいなかった。


 第二王子ローレリアンの人気と共に、現国王バリオス3世の人気も、いまや鰻登りの様相を呈している。


 ジャン・リュミネのななめ前に座った男は、通りかかった給仕に安い濁り酒を注文した。


 ジャンは、唇の端で笑った。


 相手の男は、地味だが上等な生地で仕立てた上着を着ている。上着の型は貴族の屋敷に仕えている召使などが休日によく着ているもので、チョッキにはささやかな花鳥模様の刺繍が刺してあった。裕福な平民のあいだで黒ずくめのフロックコートがはやる前まで、貴族ではない金持ちは、みなこの男と同じような格好をしていた。今でもこのスタイルを好んでいるのは、保守的な環境の職場に勤めている人間だけであるが。


 ある程度裕福な生活をしている証拠でもある刺しゅう入りの服を着ているくせに、飲む酒は貧乏人が好む濁り酒とは。その相手の行動のアンバランスさが、ジャンには面白く思えたのだ。


 テーブルに届けられた濁り酒を、相手の男は、うまそうに飲む。


「うまそうだな」と、ジャンが思わず、言いたくなるほどにだ。


 中身を半分ほど飲んだブリキのジョッキをテーブルに置くと、相手の男は嬉しそうに答えた。


「うーん、最高だ。濁り酒なんて、王宮では飲めないからさ。

 上品な酒ばかり飲んでいると、ときどき、この舌触りが滓っぽい安酒が恋しくなるんだ。

 グラシュー村では濁り酒だって、祭りのときにだけ飲む特別な酒だったけどね」


 ジャンは無言でうなずく。彼は過去の思い出を語るのが、あまり好きではない。とくに、草の根を掘って食べるような生活をしていた子供時代のことは、思い出すのも嫌だった。


 相手の男は懐から取りだした小さな皮袋を、テーブルの上に置いた。


「そら、約束していた旅費だ。使いやすいように銀貨に替えておいた」


「ありがたい。感謝する」


「なに、気兼ねは無用だ。すっかり僕は仲間たちの金庫番さ。幸いなことに、金庫にはまだまだ金が入っているから、助かっているけれどね」


 ふたりは怪しい微笑をかわす。


「地方豪族の身内に成りすまして、おまえが王宮の侍従になったときには驚いたが。いまの偽名は、なんといった?」


「ジョシュア・サンズ。

 ねえ、ジャン。僕ってば、近々、王太子付きの侍従長に任命されそうなんだよ。

 ヴィクトリオ王太子は、なにかと扱いに困る人だからねえ。侍従長の、なり手がないのさ。

 普通だったら、名門貴族の身内あたりが、こぞって自薦他薦で名乗りをあげる地位なのにね。侍従長なんてさ」


 ジャンは肩を震わせて笑い声を押し殺した。


「ヴィクトリオ王太子は、近頃どうなんだ?」


「あいかわらずだよ。

 いつもいじめられた子犬みたいに、びくびくぶるぶる震えてる。

 ローレリアン王子と同席しなくちゃいけない公式行事からは、病気だなんだといって、逃げまわってるしさ。

 そのくせ僕の前では、弟の悪口ばかり、わめいてるんだ。

 ローレリアン王子が瀕死の状態から生還した時なんて、ひどかったね。

 魔王オプスティネが乗り移ったんじゃないかってくらい、口汚くローレリアン王子の無事を呪ってた。この世でたった一人の、弟だっていうのに」


「不思議なもんだ。

 バリオス3世は文治の王を気取っているから、それほど言論を厳しく取り締まったりはしていない。

 それなのに世論には、あまりヴィクトリオ王太子を廃嫡にしろという、要求が出てこないのだから。どの新聞の記事も、いずれはローレリアン王子が王となられることを望む、程度の表現だ」


「聖王子のほうが、王太子を兄として立てる姿勢だからじゃないの?

 国民としては、ローレリアン王子が摂政大公として国政を預かってくれるのなら、王が誰だろうと文句はないだろうしさ。

 それに、王太子の御妃は、海のむこうの大国イストニアの王女だしね」


「外交上の理由で、おおぼけ王太子の首はつながっているというわけか」


「王太子妃さまは、お気の毒なんだよ?

 お部屋に閉じこもって、いつもいつも暗いお顔をなさってる」


「あのバカが、亭主じゃな」


「気鬱にもなるよね」


 国王一家の話をしながら、ジャンは遠くを見た。


 彼の頭の中には、過去に思いめぐらせた深慮遠謀が去来していたのだ。現在のローザニア王国の未来は、国王一家の家族の行く末とも複雑に絡みあっている。


 ローレリアン王子が瀕死の床にいた時、街の隠れ家へ潜伏していたジャンは、王子の生死を固唾をのんで見守っていた。王子が死んだ場合に、自分が起こすべき行動を、さまざまに思い描きながら。混乱に乗じて何をすれば、王や貴族による専制政治を打倒し、革命の夢を実現できるのかと。


 そんなことを考えていたせいで、ぼそりと口から洩れたのは、不穏なひとことだった。


「王子を殺せなかったのは、惜しかった」


 ジョシュアが唇の前に人差し指をたてる。


「声が大きいよ。

 僕はむしろ、あそこまで王子を追い詰められたことに、感心したけどね。

 高所からの狙撃で弾が当たるなんて、思ってなかったもん。

 だけど、ジャンが、王子を立ち止まらせるのは簡単だって言うから」


「俺が言ったとおり、あいつは立ち止まっただろう?」


「うん。小さな女の子に撫子(なでしこ)の花を持たせろって言われたときには、意味がさっぱり分からなかったけど。王家を象徴する薔薇ではなく、撫子にしろって」


「夏の野に咲く花でなけりゃ、いけなかったのさ。

 あいつは王宮で大勢の人間にかしずかれて育った生粋の王族じゃない。

 草原に吹く風とか、明るい陽光の中に点々と咲く花が、王子の心の中にあるローザニアの原風景だ。

 あいつが守ろうとしているものは、繁栄を続ける大都市じゃない。

 あいつの心を突き動かしているのは、もっとささやかなものだ」


 ジョシュアは目を細めた。


「すごいね、ジャン。

 きみには、誰よりも王子のことが、わかっているみたいだ。

 まるで、恋をしているみたいに見える」


「俺は王子を殺したいと思っているんだぞ?」


「だって、王子が見ているものと、きみが見ているものって、なんだか似ているよ」


「そうかもしれない」


「否定しないの?」


 机に積みあげた新聞を、ジャンは人差し指でたたいてみせた。


「こんな記事を読まされちゃな」


「なに?」


 一番上にあった新聞を、ジョシュアのほうへ投げてやる。


「ここ数日、ゴシップ新聞の一面をにぎわせているのは、オトリエール伯爵の過去の所業の追及記事だ」


「オトリエール伯爵? だれだよ、それ?」


「王太子の侍従長に任命されようかという人間が、それでいいのか?」


「僕は地方豪族出身の不調法者で、貴族の血統に関する知識なんか持ち合わせてないってことになっているから、いいんだよ。侍従としての僕に期待されている役割は、王太子の御守だもん」


 すねた表情でそっぽをむいたジョシュアに、ジャンは苦笑をむけた。


 ジョシュアは金茶色の柔らかい髪に鳶色の瞳をもつ、優しげな雰囲気の男である。論争に負けそうになってすねたりすると、とても大人の男には見えない可愛らしさを発揮するのだ。いったい誰がこの男を、革命派の闘士のひとりだと見抜けるだろうか。


「オトリエール伯爵は10年前に、自分の息子が病死したのは治療に失敗したラドモラス学派の医者のせいだと逆恨みして、学派に所属していた医師や学者に、好き放題の乱暴狼藉を働いた男だ。今回の王子暗殺未遂騒動の結果、ラドモラス博士の名誉は回復され、逆にオトリエール伯爵の過去の所業が問題になっている」


「正義と公平の神ロトの審判が下ったってことだね」


「どうかな? 伯爵に審判を下しているのは、正義と公平の神ロトでも、怒りの鉄槌を下す雷神スミティルでもないようだと、俺は思うが」


「じゃあ、誰なの?」


 ジャンの口元には、暗い微笑が浮かんだ。


「市民だよ」


「は?」


「その新聞を見てみろ。どの新聞もこぞって、オトリエール伯爵が貴族身分にあることを笠に着て、やりたい放題やってきた過去を暴き立てている。

 オトリエール伯爵は、私怨を晴らすために暴力をふるうような男だからな。たたけば、いくらでも埃が立つ。最近じゃ、被害にあったのはラドモラス学派の学者たちだけじゃないと、ひっきりなしに名乗り出る者が続いて、連日紙上はおおにぎわいだ」


 ジョッキに残った酒を飲みながら、ジョシュアは次々に新聞をとりあげた。


「うわ、ほんとだ。すごいことになってるんだねえ」


「オトリエール伯爵は、邸宅に投石されたり、門前に汚物をまかれたりするもので、領地へ逃げ帰ってしまったそうだ。もう二度と、王都には出てこれまいな。貴族の社会でも、つまはじき者あつかいにされるだろう」


「社会的な制裁を受けたわけか」


「不思議なのは、この騒ぎに、宰相の犬と呼ばれる憲兵総監リンフェンダウルあたりがからんでこないことだ。あの猛犬は、貴族の権威をそこねる行為に対して、過剰なくらいに反応する。貴族の邸宅に投石などした者は、やつに捕まると、拷問されたあげくにレヴァ川へ投げ込まれたりしていただろう」


「たしかに」


「これは俺の推測だが、リンフェンダウルを鎖につないだのはローレリアン王子だ。そして、王子本人は、この騒ぎを遠くから静観している」


「へえ、何を根拠に?」


「王子は貴族から税金をむしり取りたがっている。貴族の権威とはなんぞやと、世論に改めて、問いかけたいのではないだろうか。

 人間は上からの命令だけじゃ、動かんよ。

 だが、自分より下にいると信じていた圧倒的大多数の市民から突きあげられたりしたら、恐怖のあまり、貴族たちも行動せざるを得なくなるんじゃないだろうか」


 ジョシュアは低くうなった。


「ねえ、ジャンの言うことが本当だとしたら、ローレリアン王子は市民の力で社会を変えようとしているってことにならないかい?

 僕たちと、目指す場所は同じってこと?」


「さあな」


 ジャンは懐から紙巻煙草を取り出して、火をつけた。


 深く息を吸って吐き、流れゆく煙の行方を目で追う。


 煙は祭りの前の興奮で浮かれている酒場の客のあいだに、まぎれて消える。


 革命の闘士ジャン・リュミネが目指すのは、人間が等しく平等な世界だ。生まれによって、のちの人生が決まってしまう理不尽な世界ではなく、すべての人が努力に応じて、成功をなしとげられる世界。


 はたしてローレリアン王子が思い描く未来の王国は、どういう国なのだろうか。


 ジャンは、夢が果たせるなら、ローザニアの国などなくなってもよいと思っているが。


 たばこの煙を吸い込むと、胸の奥から咳があがってくる。


 いがらっぽい喉に無理やり酒を流し込み、ジャンは椅子から立ちあがった。


 ジョシュアが心配そうにたずねてくる。


「嫌な咳をしているね。一度、医者に見せたほうが、いいんじゃないの?」


「咳が多いのは、むかしからだ。書いているときや、考え事をしているときには、煙草ばかり吸うからな」


「隠れ家に閉じこもっていたら、考え事ばかりするだろうしね」


「それも、もう終わりだ。俺は明日の朝、祭りの騒ぎに乗じて地方へくだる」


「どこへいくつもり?」


「とりあえず南へむかうが、最終目標は北だ」


「おちついたら、連絡してね。協力できることは、なんでもする」


 手を振ってジョシュアに答え、ジャンは混みあっている店から外に出た。


 秋の夜風はすでに冷たく、頭上には美しい月が出ている。


 月の光を見あげていると、ジャンはいつも白皙の美貌を誇るローレリアン王子のことを思い出す。彼が初めて王子と正面から対峙した時、王子の美しい顔は、月の光に照らされていたのだ。


 自分と王子は、まったく違う人間だ。


 自分は社会の最底辺から這い上がってきた人間。


 片やむこうは、ローザニア王国初代聖王パルシバルの血をもっとも濃く受け継ぐと言われている高貴な生まれの王子。


 だが、なぜか、考えることは似ている。


 王子の考えていることが、ジャンには、なぜだか分かってしまう。


 腹立たしい。


 この感情は、近親憎悪に近い。


 だから、ジャンは、王都から出ていくことにした。


 自分にしかなせないことをなして、自分の夢のために生きようと決めたのだ。


 すべての人が等しく平等な世界を実現するためなら、自分の命も惜しくはない。


 どうせ、自分は社会の最底辺に生まれた、取るに足らない男だ。


 欲しいのは地位や名誉や富ではない。


 ジャン・リュミネは真に生きた証しといえる、夢をわが手につかみたいのである。


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