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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第七章
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漆黒の御旗 …17

 王都の民の祈りである歌声は、ローレリアン王子の寝所にも届いていた。


 王子のベッドの周辺にはすでに、王子の意識の浮上をまって死出の旅の支度である告解の儀式をおこなうために、プレブナン大神殿の大神官長や高位の神官たちが集まっていた。


 儀式の準備は滞りなく進められていたのである。


 ところがそこへ、民の歌声が届いた。


 その歌声が王子のために歌っている王都の民の声だと知った国王バリオス3世は、まだ告解の儀式を行うには早すぎると言いだし、神官たちを部屋の隅に下がらせてしまった。


 エレーナ姫と共にベッドの枕元へひざまずき、王は息子の手を握りしめた。


「ローレリアン!

 目を覚ますのだ。そなたはまだ、死んではならぬ!

 あの歌声が聞こえるか。

 王都の民は、そなたを心から慕っておるのだ。

 民は王を誇りに思い、その王が治める国の民であることを、なお誇りに思う。

 余は、そういう王になりたくて玉座についてからの30余年を生きてきたが、願いはいまだ、かなわぬままだ。

 だが、そなたにならできる! 必ず、できる!

 だから、ローレリアン! そなたはまだ、死んではならぬのだ!」


 たとえ相手が息子であろうと、王が誰かの前にひざまずくなど、あってはならないことだった。


 しかし、誰もそのことを、とがめようとはしなかった。


 告解の儀式のために、王子の寝所のなかでは甘い匂いの香が焚かれており、立派な儀式用の燭台には永遠の命の輪廻の象徴である蝋燭の火が煌々と灯されている。そのむせ返るような香りと煌めく光輝に包まれて、いままさに最愛の息子を失おうとしている国王へ、あえて常識を説こうとする者などいはしないのである。


 目に涙を浮かべた国王は立ちあがった。


「だれぞ、すべての窓を開けよ」


 そう命じると、父は息子の死の床に腰をおろし、病みつかれて息も絶え絶えの息子の半身を、おのれの胸に抱きあげた。


 あわてた侍従が枕をとりあげ、怪我を負っている王子殿下の左肩に負担がかからないよう、腕に支えをほどこす。


 窓を大きく開けると、歌声はますますはっきり、王子の寝所のなかにまで聞こえるようになった。



 ―― 天と地をつかさどる聖霊よ、万物に宿る御霊みたまよ、

            我が祖国ローザニアと王を守り導きたまえ! ――



 人々の祈りと鐘の音が、風と共に吹きよせてくる。


「ああっ、聖火が……!」


 儀式の準備を担当した若い神官が声をあげた。


 告解の儀式のために灯された燭台の火は、風によってすべて消えてしまった。甘い香の匂いさえ、風がどこかへ運び去ってしまう。


 それと同時に、王子の寝所は闇に覆われた。


 寝所の明かりは儀式のために、聖火の炎だけにされていたのだ。


「ただいま明かりをお持ちいたします」


「おまちなさい」


 となりの部屋へ走ろうとした侍従を引き留めたのは大神官だった。


「あれをご覧ください、国王陛下」


 窓の外を指し示した大神官の声は震えていた。


「おお、なんということでございましょう! すっかり老いさらばえ、あとは枯れて朽ちるのみとなるほど、わたくしは長く生きてまいりましたが、奇跡をおのが眼で見たのは、これが初めてでございます!」


 闇に沈んだ王子の寝所の窓からは、王都の東岸の街の夜景が一望できた。


 いつも暗い影に覆われた東岸の街の夜景を、ローレリアン王子は執務室やこの部屋の窓から、哀しみに満ちた目で眺めて暮らしていたのだが。


 いま、その暗い街の影のなかには、七つの篝火と、篝火をつなぐ細い光の輪が浮かび上がっている。


 ―― 我が王子よ。貧しいわたしたちは、川を渡って、あなたのお側にまではまいれません。でも、心はいつも、あなたと共にあるのです!


 光の環を形作る幾千幾万の人々の気持ちが、ちらちらと光がゆらめくたびに伝わってくる。


 歌もまた、途切れることはない。


 国王は自分の胸にもたれさせた息子の身体を、力いっぱい抱きしめた。


 もはや国王の涙をとめるものは何もなかった。国を統べる者としての矜持も、おのれの義務をはたそうとする意地も、否応なく王位につかされた男の、せめて誰からも後ろ指をさされないようにしようという情けない虚勢すらもかなぐり捨てて、バリオス3世はただひたすら泣いた。


「ローレリアン! 目を覚ませ! おのれの眼で、あれを見るがよい!

 国中の民が、そなたを待っているのだ!

 息子よ、父の願いを聞いてくれ!」


 取り乱す国王を見ている者は、みな涙を誘われた。


 なんという皮肉だろうかと、誰もが思ったのだ。


 国王と王子が、たがいに親子の名乗りをあげてから3年。父が息子を胸に抱いたのは、息子が死にかけている、この時が初めてだった。


 その愁嘆場のさなかに、アレンとレオニシュ医師を先頭にした侍医団は王子の寝所へ入っていったのである。


 あたりの暗さに驚いた医師たちは、入り口で立ちすくんだ。


 そして、すすり泣く国王の腕の中で、ローレリアン王子が目を開く瞬間をまのあたりにした。


 王子の水色の瞳は高熱に潤んでおり、開け放たれた入り口を通して隣りの部屋からさしこむ明かりを吸い取って光を放つ。


 苦しげな息のあいまに、消え入りそうな声が言う。


「父上……、歌が……」


 国王は言葉につまり、王子のほほに自分のほほをおしつけて、何度もうなずいた。


 アレンはレオニシュ医師の背をおしながら、王子のそばへ行った。国王へむかって一礼したのちに、「リアン。レオニシュ先生だ」と告げる。


 ローレリアンは、かすかに笑った。


「ありがたい。先生……、助けてください。

 わたしは……、まだ、死ねない」


 レオニシュ医師は、力強くうなずいて答えた。


「手をつくすと、約束する。だから、おまえも頑張るんだぞ、王子殿下」


 夏の夜風はローザニア王国の若き指導者のもとへ、神々の祝福を運びつづけた。


 王宮がそびえる丘に集まった人々の歌は夜通し歌い継がれ、彼らが手にした明かりも、東岸の篝火も、けして消えることはなかったのである。






     **     **






 深夜、侯爵家の屋敷から出たモナは、人ごみをかき分けるようにして王宮の門前広場にまでたどり着いた。


 夏の深夜とは、すでに鶏鳴けいめいを待つときである。朝開く花は蕾をほころばせ、湿った大気は草の葉に露をはらませる。夏の夜あいだ世界が闇へ沈むのは、ほんのしばらくだけなのだ。


 モナが王宮前の広場で歌う市民と共に祈り始めてから一時間ほどがたつと、東の空は早くも白み始めた。


 太陽が地平から登る前より、暁の光は雲を輝かせ、夜空の星の煌めきを徐々におおいかくしていく。


 やがて朝焼けの雲の輝きは、人々が手にしたランプの明かりまでも、しのぐほどの強さとなった。


 ランプの火は次々に吹き消され、その動作にあわせて、人々の歌がやむ。


 朝の湿った空気の中で無言になった人々は、祈りのために手をあわせ、王宮を仰ぎ見た。


 彼らは一様に、同じ場所を見つめている。


 モナにつきしたがってきた乳母のシャフレ夫人は、周囲を見まわしながらたずねた。


「お嬢様。ここにいる人たちは、なにを待っているのですか」


 モナは市民と同じ方向を見つめながら答えた。


「王宮の西翼の建物のうえにある王旗の掲揚台を見ているのよ。あの掲揚台には日の出とともに、その日、王宮を御座所となさる王位継承権を持つ男子王族の御旗が掲げられるから。黒い御旗が掲げられれば、ローレリアン王子殿下は、まだご無事だということになるでしょう?」


 誰かが東の空を指さして叫んだ。


「地平に、太陽が出たぞ!」


 にわかに、すべてのものの影が細く長く地面にのびた。


 朝の光が、大気を輝かせる。


 それと同時に、怒涛の歓声が沸き起こった。


 人々は、笑い、喜び、いっしょに広場へやってきた家族や今日初めて会ったそばの誰かと、手を取りあったり抱きあったりして声をあげたのだ。


「王子殿下万歳!」


「ローザニア王国万歳!」


 モナもシャフレ夫人に抱きつかれて笑った。


「お嬢様、お嬢様! 見てください! 黒い御旗が揚がりました!」


 旭日に照らされながら、いと高き王旗掲揚台の旗竿には三流の旗がのぼっていく。風をいっぱいにはらんでひるがえる、その旗のうちのひとつは、まちがいなく漆黒の御旗だった。


 いつまでたってもおさまらない騒ぎのさなか、南西門の前に立つ近衛兵が、急に担っていた銃を構えなおし、最敬礼の姿勢を取った。


 閉ざされていた門扉が開いたので、驚いた市民は門に注目する。


 いつのまにかそこには、優雅な宮廷服に身を包んだ典礼官の一群が立っていたのだ。


 中央に立っている代表者が、そばに控えている者から立派な飾り帯のついた巻紙を受け取り、するすると開く。


 そのもったいぶった典礼官の動作がすむのを待つ間に、市民たちはすっかり静かになった。


 典礼官の声は、朗々とあたりに響いた。


「神々の導きによりこの地を国土と定め300年の長きにわたって民人を統べるローザニア国王陛下の御命により宮廷典礼院長官を務めるトゥレイユ子爵オトネール・ピュウイ・レイネルは、いまここに第18代ローザニア国王バリオス3世陛下のお言葉を、ありがたき宣下として民に伝えるものである。

 民の祈り神々へ届きて、王子ローレリアンの病重篤なる状態は、もちなおした。

 くりかえす。御病状はもちなおした!

 第18代ローザニア国王バリオス3世は、神々へ感謝を――」


 あとの宣下は、市民の大歓声にかき消された。


 笑い声、拍手、石畳をふみしめて躍りあがる足音。


 ありとあらゆる人々の動きが、あたりの空気を震わせる。


 空気の震えを肌で感じながら、モナはすっかり明けきった夏の空にひるがえる漆黒の御旗を見あげた。


 ほほには、熱い涙が流れている。


 あの人は、生きている。これからも、生き続ける。


 それを知っただけで、こんなにも嬉しいなんて。


 わたしには、あの人のいない人生など生きられない。


 あの人を失ったら、わたしの世界も終わってしまう。


 いまは遠くから漆黒の御旗を見あげて、あの人の無事を喜ぶことしかできないけれど。


 固い決意が、夜明けの空にぐんぐん登っていく太陽とおなじ勢いで、モナの気持ちを高ぶらせていく。


 低い位置から目をさす朝の光は、とてもまぶしい。


 涙でぬれた瞳で受け止めるから、なおさらだ。


 震えながら、モナは誓う。


 そうよ!


 どんなにリアンから遠ざけられようと、わたしはあきらめない!


 だって、あの人がわたしをそばから遠ざけようとする本当の理由を、わたしは知ってしまった。


 あの、朝日に輝く漆黒の御旗にかけて誓おう。


 どんな手段を使ってでもいい。


 わたしは必ず、あの人に伝える。


 わたしは、あなたのそばにいなければ、幸せになれない。


 生きている喜びでさえ、あなたといっしょにいなければ、しぼんでしまう。


 すべての世界が輝きを失う。


 だから、あなたといっしょに生きていきたいのだと、わたしは必ずあの人に伝えよう。


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