漆黒の御旗 …16
いっぽう、そのころヴィダリア侯爵の令嬢モナシェイラは、自室のベッドの上で目覚めたところだった。
アレンの副官シムスは、気の毒な令嬢をこれ以上ないくらい丁寧にそっと運んでくれたので、心労と連日の過酷な労働が重なって疲れ切っていたモナは、しばらくのあいだ深く眠ってしまったのだ。
薄暗がりの中で目覚めて目を開いた瞬間、モナのまぶたはひりひりと痛んだ。
その痛みのおかげで、気を失う前に眼が流れ落ちてしまうのではないかというほど涙がでたことを思い出してしまう。
温まった寝具のなかで身じろぎしたら、心の中にぽっかりと穴があいてしまったような感じがして、胸もひどく重苦しかった。
右手には、包帯が巻いてある。
手を動かすと、その下にある傷がうずき、いまモナが感じている苦しみは夢ではなく現実なのだと教えてくれた。最愛の人が、まもなく死のうとしているという現実を。
「お嬢様、お目覚めになりましたか! よかった!」
枕元には小さな火が灯されており、ずっと付き添っていてくれたのであろう乳母のシャフレ夫人の顔が、すぐそばに見える。老いて疲れた彼女の顔も、心痛でゆがんでいた。
気を失っているモナのために、寝室の窓は細く開けられていた。まもなく終わる夏の夜風がゆったりと、あたりの空気を動かしている。
その夜風は、低い鐘の音も部屋のなかへ運んできていた。
鐘の音には近いものもあり、遠いものもあった。
どの鐘の音も一様に、長い周期で悲しげに鳴っている。
「あの鐘の音は、なに?」
恐る恐るたずねたら、乳母は声をひそめて答えた。
「ローレリアン王子殿下の病平癒を祈る御祈祷の鐘です。王都中の人間が、あの鐘の音とともに祈っているのですよ」
モナは心の中で悲鳴をあげた。
――ああ、やっぱり、すべては夢ではなく現実だったんだわ!
いったい自分は、どのくらい気絶していたのだろうか。そう思うと、気が焦る。
「わたし、リアンのところへ行きたい」
身体を起こしてベッドから抜け出ようとしたら、乳母が肩をおさえて止めにかかる。
「無理でございますよ、お嬢様。ローレリアンさまは我が国の王子なのですから。おそらくいま王子殿下のお側へ近よれるのは、王族の方々と、高位の聖職者と、宮廷医師や侍従達だけです。臣下の貴族のご令嬢では、黒の宮にすら入れないと思います」
そんなことは、わかっている。けれども、モナは、いてもたってもいられないのだ。とにかく、ベッドの中で、泣いて待つのだけはいやだった。
小間使いのティナを呼んで、いつもモナが街の人たちのなかで働くときに愛用している紺色の質素な服を持ってこさせる。この手のあっさりとしたドレスを着て、自分のレース工場で作っているレースの替え襟をいろいろ試してみるのが、最近のモナのお洒落の定番だった。このささやかな贅沢ともいえるレースの替え襟は、清楚で知的な感じを生むので、堅実な生活をする庶民の奥方や娘たちの間でも流行しはじめているという。
服を身に着けたあと怪我をした右手で苦労して髪をいじっていたら、ため息をついたシャフレ夫人がモナの手から櫛をとりあげ、髪を結ってくれた。娘らしい優しい形だったけれど、いまのモナの気持ちにふさわしいように、飾りは幅広の絹のリボンが一本だけだ。シャフレ夫人の心遣いを感じて、モナは小さく「ありがとう」といった。
手鏡を鏡台へ置いたら、細く開いた窓から、今度は鐘の音に混じって歌声が聞こえはじめた。
耳をすますと、その歌声はローザニアの国歌だった。ローレリアン王子の病平癒を祈って王宮がそびえる丘を目指して集まってきた人々が、どうか我らの王子へこの歌声が届きますようにと、歌いはじめたのだ。
ヴィダリア侯爵家はローザニア王国建国当時から王家に仕える古い家柄で、その屋敷は王宮がそびえる丘の、比較的高い場所にあった。丘をぐるりと囲む城壁内の街においては、王宮との距離や土地の高さが、その屋敷の用地を賜っている貴族の家の格や王家との関係の深さを表わしている。丘の高い位置に立っている侯爵家のモナの部屋からは、丘を登ってくる市民の気配がよくわかったのである。
人の声だけで紡がれるメロディーは、遠く離れていると低いうなりに聞こえた。
歌をもっとよく聴こうとして、モナは窓へ歩みよった。
そして、息をのむ。
侯爵家の末の姫として父親や兄たちから可愛がられているおかげで、モナにあてがわれている部屋は、屋敷のなかでもとりわけ見晴らしの良い場所にある。その部屋の窓からは、王都の旧市街や川むこうの街が一望できる。
モナが目にして驚いたのは、レヴァ川の東岸の街だ。
今回の大火で燃えてしまった東岸の街の夜の眺めは、闇に覆いかくされて何も見えない大きな穴のような景色であるはずだった。
けれどもいまは、その大きな暗い空間に、七つの明るい篝火と、その篝火をつなぐ細い光の輪が浮き上がっている。
七つの篝火は、ローレリアンが聖蹟と定めた場所に燃え立っているのだ。そして、その篝火をつなぐ細い光の輪は、負傷をおして聖王子が行う野辺送りの儀式を助けるために、下町の人々が築いた焼け跡の道。
ローレリアンに助けられ、希望を失うなと励まされた人々は、心から王子の回復を祈っている。その気持ちをレヴァ川のむこうから王子へ届けようと、彼らは聖蹟に篝火を起こし、王子がたどった道へ明かりを持って集まったのである。
ちらちらとゆれる光の環を見ていると、モナの目はまたあふれだした涙で熱くなった。
ローレリアンは自分にとっても大切な人だけれど、この国の民にとっても、かけがえのない人なのだ。
鐘の音と溶けあうような、歌が聞こえる。
王宮めざして集まった人々は、王子へ声よ届けと、歌っている。
―― 我らが王は、聖なる地に立ち、神々の導きをうけ、我らの国を築かれた。
天と地をつかさどる聖霊よ、万物に宿る御霊よ、
我が祖国ローザニアと王を守り導きたまえ! ――
高ぶる気持ちのせいで、モナは息が苦しくなった。
市民がローザニアの国歌に託す気持ちが、歌声からは切々と伝わってきたのだ。心正しくつつましく暮らす市民にとっての我らの王とは、これからローザニア王国の未来を導いてゆくローレリアン王子のことなのだろう。
「モナ様、どちらへ?」
窓から離れ、部屋の出口へむかうモナの背中に、乳母が心配そうな声をかけてきた。
モナは廊下へ通じる扉を開きながら答えた。
「お祈りをしに行くのよ。
歌っている人たちも、東岸の焼跡で篝火を焚いている人たちも、まだあきらめてない。
みんなリアンに、どうか頑張って病に打ち勝ってくれと、伝えたいのよ。
わたしも街の人たちと一緒に、お祈りをするわ。リアンのそばに行くことはできないけれど、想いを伝えようとすることは、まだできるから」




