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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第七章
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漆黒の御旗 …13

 留守番役の護衛隊員へあとをまかせて、名医と信じる医者へ往診依頼をしにいくために、アレンと副官のシムス、そしてモナは馬を駆って、王都の南端にあるマントニエール広場へ急いだ。


 道行きの半ばで晩夏の日はとっぷりと暮れ、街は暗がりの中に沈みこんでしまった。


 暗い石畳にこだまする馬蹄の音は、不吉な響きをはらんでいる。夜の暗さをおして走る急使などというものは、ろくな知らせを運ぶものではない。


 やがてたどり着いたマントニエール広場は、王国の南へ下る街道の出発地なので、たくさんの宿屋や居酒屋に囲まれた広場だった。建物の窓から漏れてくる明かりのおかげで、あたりはほんのりと明るい。


 駅馬車や王都のなかを走っている乗合馬車の発着場の周辺には、広場に集まる個人の馬を預かって駄賃を稼ぐ、馬丁見習いの小僧がうろうろしている。アレンたちが広場に入って馬の足並みをゆるめると、小僧たちはわれさきにと、かけよってきた。なにしろやってきたのは、近衛士官さんである。自分が雇われている馬房に馬を預けてもらえれば、たっぷりと駄賃を頂戴できるはずなのだ。


 馬の世話を小僧たちに任せ、一行はペルト医師が診療所を構えているという裏路地へ入っていった。小僧たちからの情報によれば、ペルト医師は金がない貧乏人でも診てくれる親切な医者だという。患者の求めに応じて薬代を待ってやったりするものだから先生自身の暮らし向きもあまり良いものではなく、こんな中心街から離れた広場の路地裏で開業しているのだと。


 その話を聞いたアレンとモナは興奮を覚えた。ペルト医師の人柄が、ローレリアンの師匠であるレオニシュ医師の人柄と重なって見える。これはもう間違いないという確信が生まれたのだ。


 しかし、火を灯したカンテラをかかげてしばらく歩き、粗末な木戸のわきに打ち付けられたプレートを見つけたアレンとモナは、たがいの顔を見あわせた。


 銅版のプレートには、番地のナンバーと医師の名前が小さく打ち出されていた。


 その小ささが、違和感をかもすのである。


 普通、開業医の看板というものは大げさなものなのだ。徒弟制度が幅を利かせている今の時代、医者にとって『誰それの弟子』とか『学士院の会員』とかいった肩書はとても大切なものだ。看板にはたいてい、それらの肩書が、ずらりと列記されている。


 期待と不安でそわそわする気持ちをおさえて、アレンはペルト医師の診療所の扉をたたいた。


 しばらく待たされたのち、ランプを手にして戸口へ現れたのは、くたびれた様子の中年の女性だった。彼女は訪ねてきたのが近衛士官だとわかると、たちまち顔をこわばらせた。


「こちらはペルト先生のお宅ですか」


 アレンの問いかけに、女は硬い表情のまま答えた。


「近衛士官さまに、なにかたずねられるような、やましいことはしておりません。わたくしの夫は、一介の町医者にすぎません」


「ご心配にはおよびません。わたしは近衛連隊に所属しております、アレン・デュカレット卿。そちらに控えているのは、わたしの副官と、友人のモナシェイラ嬢です。我々はペルト先生に往診をお願いしたくて、こちらへうかがったのです」


 アレンがそう言うと同時に、家の奥で男の声が叫んだ。


「マーヤ! そちらさまには帰ってもらえ! 家には入れるな!」


 その声を聞いて、女は慌てて扉を閉めようとする。


 扉を閉められてしまうと厄介なので、アレンは強引に自分の体を入り口の隙間にねじ込んだ。


 どうも、最初に名乗ったのは失敗だったようだ。アレンの名前は自分で思っている以上に、世間へ知れ渡っているようである。18歳で国一番の剣士の証しである『桂冠騎士』の称号を得て、ローレリアン王子の護衛隊長の一人に任じられた、俊英の近衛士官アレン・デュカレット卿の名は。


 アレンのうしろで、モナが叫んだ。


「ペルト先生! お願いですから、わたしたちの話を聞いてください! わたしたち、ペルト先生の恩師でいらっしゃるレオニシュ先生のつてで、こちらへうかがったのです!」


「知らん、知らん、知らん! わたしは、なにも知らん! 帰ってくれ!」


 男の叫び声と同時に、ガラスの砕ける音がした。


 音は、絶え間なく続く。


 アレンはペルト医師の奥方を押しのけて、家のなかへ飛び込んだ。シムスとモナも、あとへつづく。


 患者を待たせておくための前室を走りぬけ、破壊音が聞こえるドアに手をかける。


 鍵がかかっている。


 ドアのノブをがちゃがちゃいわせているあいだに、破壊音は、ますます激しくなっていく。今度はテーブルの上の物をなぎ払うような音が聞こえた。


 アレンは迷うことなく、たくましい肩を扉にぶち当てた。


 華奢な室内扉用の鍵など、軍人の体当たりにあっては、ひとたまりもない。扉は勢いよく開いた。


 室内へ駆けこんだアレンとモナは息をのんだ。


 ペルト医師と思われる中年の男は眼を血走らせて、室内に置かれた道具を壊していた。床には試験管やガラスの管の破片が、いっぱい散乱している。


「先生、やめて! 大切な実験器具でしょう!」


 医師にかけよったモナは、試薬の瓶を投げ捨てようとして振りあげられていた手にしがみついた。


「わたし、レオニシュ先生の実験室で、同じようなものを見ましたよ。レオニシュ先生は、いまでも地方都市のアミテージで、熱心に研究を続けていらっしゃるんですよ」


 興奮しきったペルト医師の眼には、涙があった。呼吸も、荒々しく乱れている。


「研究を続けたって、無駄なんだ! 学士院はラドモラス学派の学説など、永遠に認めない! 研究を続けているだけで、オトリエール伯爵からは妨害を受けるし! わたしが、この10年の間に、何度引っ越したと思う?!」


「お気の毒でしたわ」


「気の毒だと?! あんただって、お貴族様のご令嬢じゃないか! あいつらの仲間だろう! 今度は、なにをする気だ! 一族郎党、皆殺しかっ!」


「そんなことはしません! 先生、落ち着いて! わたしは、レオニシュ先生が瀕死の怪我人の命を助けたところも見ているの! ラドモラス学派のお医者さまの使うお薬が、時には危険な薬になることも、よく知っています! それでも、その薬を必要としている人がいるんです! お願いですから、落ち着いて、わたしたちの話を聞いて下さい!」


「落ち着けだと? ああ、落ち着こうじゃないか!」


 息を切らせながら、ペルト医師は椅子に座った。汗にまみれた額を手でぬぐい、あえがずにしゃべれるようになってから、彼は再び言う。


「あんた、デュカレット卿と名乗ったな」


「そうです」と、アレン。


「そっちのあんたは、モナシェイラ嬢。『すみれの瞳の姫君』だな?」


「そう呼ぶ人も、いるみたいです」と、モナ。


「やはりな……!」


 ペルト医師は身をふたつに折り、大きな声で笑った。


 モナとアレンは、思わず身震いした。


 ペルト医師の笑い声には泣き声も混じっており、狂気の気配すら感じられたのだ。


「あんたたちが、わたしに往診しろという患者は、ローザニアの聖王子殿下だろう? 朝から、うちの患者も、王子殿下が御危篤だと騒いでおったよ。午後には近衛兵が、ラドモラス学派に所属している医師の所在を求めて、聞き込みに来たしな。

 とうとうあの薬は、わたしを王子殿下のもとまで導こうとするわけだ」


 アレンとモナは、無言でうなずいた。


「なんてこった……、なんてこった……」


 ぶつぶつとくりかえすペルト医師にむかって、アレンは言った。


「すべての責任は、わたしが引き受けます。往診が無理だとおっしゃるならば、薬を預けてくださるだけでもよい。薬の出どころは、絶対に口外しないと約束します」


 うなだれたペルト医師が答える。


「人の口に戸はたたられぬというだろう。どこからか必ず、薬の出どころはわたしだと、ばれてしまうさ。いつも、そうだった。オトリエール伯爵の手の者は、わたしがあの薬を使うたびに、わたしの居所を嗅ぎつけて乱暴狼藉を働くのだ」


「今度は、そんなことにはなりません」


「信じられるものか」


 ペルト医師の肩は、ふたたびはげしく震えだした。


「デュカレット卿。

 あの薬は、魔王オプスティネによって、我々のもとへもたらされた薬なんだ。

 人の生死をどうこうしようとする者を、魔王はあざ笑い、不幸へおとしいれる。

 わたしの娘はなあ……、前回の騒ぎのとき、伯爵に金をもらった不埒者ふらちものに襲われて、純潔をけがされたんだ。

 娘は……、娘はなあ、レヴァ川に身を投げて死んでしまった! 娘は、まだ16だったんだぞ! これから、花の盛りという歳だったんだ!」


 となりの部屋で、わっと女が泣き伏す。ペルト医師の奥方だった。


 ゆらりと、ペルト医師は立ちあがった。


「わかっている。ローレリアン王子殿下は、わたしたち庶民の希望だ。あの方ならば、わたしたち庶民の暮らしを、もう少しましなものにしてくださるだろう。あの聖なる王子殿下をお救いしなければならないことは、わたしにだってわかっている」


 ふらつきながら薬品棚の前に立ったペルト医師は、死人のように真っ青だった。


 棚の扉が開かれ、一本の瓶が医師の手で取り出される。


「この薬で、うまいこと王子殿下をお救いできればよいが。そうなれば、わたしたち一家が、オトリエール伯爵から追われるだけで済むだろう」


「そんなことには、なりません。わたくしどもが全力で先生ご一家をお守りいたしますし、ラドモラス学派の名誉も回復されます。ローレリアン王子殿下は、正義と公平をなによりも尊ぶお方です。過去のオトリエール伯爵の暴挙の数々に対しても、必ずや制裁が下されることでしょう」


「では、失敗した場合には、どうなる?」


 アレンは一瞬だけ、返答に迷った。王子がこの薬によって落命した場合、本当に責任を取るのが自分だけで済むのかどうかについては、断言できなかったのだ。


 アレンの迷いを見透かすように、ペルト医師は笑った。


「わたしがお答えしようか? 国王陛下が温情をもってわたしを許されたとしても、わたしは、ローザニアの全国民から恨まれて、制裁を受けることになるだろう。

 きっと、わたしだけでは済まない。

 わたしの妻、息子、親兄弟も、遠縁の者すらも、全国民から憎まれる。

 ラドモラス学派につながる学者仲間も、全員が職を失うだろう。

 ローザニアの聖王子殿下は、我が国の最後の希望だよ。国民の、心の宝なんだ。

 ちがうかね?」


「ああ――っ!」


 アレンが叫び、モナが悲鳴をあげた瞬間、薬瓶はペルト医師の手から離れた。


 貧しい医師が借りて住む裏路地のあばら家の床は、昔ながらの土間だった。落下した瓶は粉々に砕けちり、薬は土へしみこんでいく。


「くすりっ、くすりが……!」


 モナがなりふり構わず、割れた薬瓶を拾おうとしてペルト医師の足元へ滑りこんでいく。


 白いドレスが泥にまみれた。


 モナの手が、必死に泥を掻く。


「待って、待って! 神さま、お願いです! これがなければ、リアンは死んでしまう!」


「モナシェイラさま!」


 シムスがそばにかがみこんで、モナを止めようとする。泥を掻くモナの手は、カラス瓶の欠片で傷ついて血まみれだった。


 アレンの頭には熱い血が登った。深く考える余裕は失われ、手が剣の柄にかかる。


「きさま――!」


 すっかり血の気の失せた顔を無表情に凍らせて、ペルト医師は言った。


「その剣で、いますぐわたしを殺してくれ。

 王子殿下をお助けしようとしなかったわたしは、死を賜って当然だ。

 だが、わたしにはできない。

 この薬に、王子殿下のお命だけでなく、愛する妻や子や、親族や友人の命までもかけることは、どうしてもできないんだ!」


 剣の柄に手をかけたまま、アレンは動けなくなった。


 頭の芯は怒りでしびれている。


 今すぐ、この男を殺してしまえと、感情はアレンに命じている。


 息がつまって、苦しい。


 その息苦しい胸の中で、心臓が激しく暴れている。


 アレンは朝から、食事らしい食事をしていなかった。


 けれど、こみあげてくる、この吐き気はなんだ。


 あまりに感情が高ぶりすぎて、身体が悲鳴をあげているのだろうか。


 ペルト医師はうつろな目で、激高するアレンをじっと見ている。


「もういい。殺してくれ。わたしは、疲れた。

 人の生死を左右するこの薬のおかげで、わたしの人生はめちゃくちゃになった。

 この悪魔の薬を、なんとか安全に使える物にしようとして10年頑張ってみたが、いつもこの薬は、わたしの元へ不幸ばかり運んでくる。

 これはきっと、神々の領域に踏み込もうとした者への、天罰なのだ。

 どうか、わたしを殺して、もう楽にしてくれ。

 お願いだ。いますぐ、わたしを殺してくれ!」


「馬鹿を言うな! 死なせてなどやるものか! 急いで、この薬を作り直せ!」


 ただ一人、まだ感情の嵐にのみこまれていないシムスが、大声をあげる。


 しかし、彼の腕に抱かれていたモナが、力なくつぶやいた。


「だめよ、間に合わない。この薬、何日もかけて複雑な工程を重ねないと作れないの。器械も壊れたし。とても、間に合わない……!」


 ふらふらと立ちあがったモナは、ひどい姿だった。


 黒髪は乱れ、白いドレスは泥と血で汚れている。いつも生き生きと輝いている紫の瞳は光を失い、あふれる涙で濡れいていた。


「行かなくちゃ、あの人のところへ……。約束したの……。けして、一人になんか……、しないって……!」


 一歩、二歩と、足を踏み出したモナは、その先へ進めなかった。


「モナさま!」


 アレンがとっさにさしだした手の中に、華奢な女の身体が倒れこむ。


 腕の中に受けとめたモナの身体は、とても軽かった。


 彼女は、女なのだ。


 男勝りに剣と馬をあやつったり、男顔負けの統率力で人を率いてみせたりするが、根本は、か弱い女。目の前で恋人の命を救う最後の手段が断たれたとなれば、気を失って倒れてしまう、女なのだ。


「大変だ。隊長、気付け薬を?」


「いや、このまま気を失っていたほうが、かえっていいのかもしれない。シムス、辻馬車を拾って、モナさまを侯爵家の屋敷へ送り届けてくれ」


 細くて軽い身体を抱き上げて、アレンはペルト医師の家から外へ出た。


 青ざめて泣きぬれたモナの顔を見て思う。


 いったい今まで、どれだけ気を張り詰めていたのだと。


 彼女の失神が、できる限り長く続くようにと、アレンは祈った。


 きっと、モナさまは、これから地獄にいるような時をすごすのだ。


 おそらく、正式な婚約者でもなければ、王子の臨終には立ち会えないだろう。


 彼女は遠く離れた場所で、ローレリアンの死の知らせを待つしかない。


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